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	<title>ウディすすむの不思議エンタテインメント探訪</title>
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	<description>ネット古書店のオーナーによるSFやミステリなどのエンタテインメント探訪ガイド</description>
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		<title>キングコングは美女への愛に背を向け、怪獣との戦いを選んだ</title>
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		<pubDate>Wed, 03 May 2017 15:25:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１．キングコング 髑髏島の巨神 怪獣映画製作に情熱を燃やすレジェンダリー・ピクチャーズがキングコングを再生させ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１．キングコング 髑髏島の巨神</strong></p>
<p>怪獣映画製作に情熱を燃やすレジェンダリー・ピクチャーズがキングコングを再生させた『キングコング 髑髏島の巨神』は、この春のスマッシュヒットとなり、キングコング映画のファンにも評判が良かったようです。ベトナム戦争終結1973年の南太平洋を舞台に、ベトナムから帰還予定だった米軍特殊部隊がキングコングの生息する髑髏島を探検するはめになる「『地獄の黙示録』meets『キングコング』」とでも呼ぶべき作品です。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/4044589550.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2474/4044589550_7f9cda5a46_m.jpg" alt="" /></a><br />Mountain gorillas in Museum of Natural History / WorldIslandInfo.com</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/16151885435.html" target="_blank"><img src="https://farm8.staticflickr.com/7505/16151885435_79a44b0604_m.jpg" alt="" /></a><br />Mountain Gorilla, Bwindi, Uganda / Rod Waddington</span></p>
<p>南海の孤島に、恐竜ではなく妖しい怪獣がいっぱい出て来て、「キングコングというより昔の東宝の怪獣映画みたいだな」と思いましたが、エンドロールの後に熱烈な東宝オマージュを繰り広げたので大笑いしました。（そうですか、やりますか『ゴジラ対キングギドラ』を…。）</p>
<p>『キングコング 髑髏島の巨神』では、キングコングはニューヨークには連れていかれず、話は髑髏島だけで完結します。つまりオリジナルから「美女と野獣」の要素を抜いて「キングコング対怪獣」の部分だけを残したのですが、そのためB級映画的なテイストになっています。しかし、これはオリジナルの欠点を回避する非常に巧妙な脚色なのです。</p>
<p>1933年に公開されたオリジナルの『キングコング』はすべての怪獣映画の原点と言ってもよいマスターピースですが、実は「ファンタジーにおけるリアリティ」という視点から見ると大きな問題を孕んだ作品でもあるのです。</p>
<p><strong>２．オリジナル版『キングコング』の矛盾</strong></p>
<p>1933年のオリジナル『キングコング』の物語は、前半は「キングコングと恐竜が戦う髑髏島での、探検隊がキングコングを捕獲するまでの冒険」そして後半は、「ニューヨークで見世物にされるキングコングとヒロインの美女と野獣の物語」という2段階で語られますが、両者の間には大きな矛盾があると言えます。<br />
それは、「主人公たちは見世物にするために、なぜ恐竜ではなくコングを連れ帰ったのか？」という問題なのです。</p>
<p><iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=tf_til&#038;t=woody94-22&#038;m=amazon&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;IS2=1&#038;detail=1&#038;asins=B000LXHG44&#038;linkId=ba764eae1758567cd01e20d42552801e&#038;bc1=000000&#038;lt1=_blank&#038;fc1=333333&#038;lc1=0066C0&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr"><br />
    </iframe></p>
<p>私は子供の時にTVで放映されたオリジナルの『キングコング』を観て大興奮しましたが、同時に大きな疑問も浮かびました。それは「どう考えても、大きな猿（コング）より太古の恐竜の方が大発見なのに、なぜ主人公達は恐竜に目もくれずキングコングばかり捕獲しようとするのか？」でした。猿と恐竜だったら、恐竜を選ぶのが普通ではないでしょうか？</p>
<p>しかも、大量の恐竜を出すことは、キングコングの「怪物としての特異性」を希薄化してしまうマイナス効果もあるのです。「キングコング」を映画の柱となる「ワンダー」であると考える立場からも、多数の恐竜を出す事は、キングコング自体の「ワンダー」を薄める効果をもたらす、と考えるべきでしょう。</p>
<p>恐らく髑髏島に恐竜が跋扈しているという設定は元の脚本にはなく、大の恐竜ファンだった特撮のウィリス・オブライエンの趣味が暴走した結果なのではないでしょうか？考えてみれば、髑髏島でのキングコング捕獲劇は恐竜が出なくても成立するのです。</p>
<p>しかし、その暴走が生み出した「怪獣大決戦」の興奮が初代『キングコング』を怪獣映画の原点と呼ぶべき名作にしたのも確かであり、そこがこの問題の難しいところです。</p>
<p><strong>３．ラウレンティス版『キングコング』は「美女と野獣」</strong></p>
<p>『キングコング』は1976年に、イタリア出身の大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティス制作、ジョン・ギラーミン監督により、時代を現代に移し替えてリメイクされましたが、映画ファンの評価は最悪でした。</p>
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    </iframe></p>
<p>その一番の理由は「恐竜が出て来ない」だったのですが、私は「それは仕方ないよなぁ」と思っていたのです。1976年のリアルタイムに恐竜の群れが生息する島があるなら、キングコングよりそっちの方が大騒ぎになる筈ではありませんか。</p>
<p>ラウレンティス版『キングコング』は、オリジナルから恐竜を捨て「美女と野獣」だけを抜き出した作品でした。実はヒロインのスター誕生物語でもあって、人物描写はけっこう大人で、ヒロインとコングの関係も何だかエロティックでした。それが「心は恐竜少年」な怪獣映画ファンには気に入らなかったのでしょう。</p>
<p>ラウレンティス版『キングコング』にはモンスター映画のカタルシスが無いのが大きな欠点ですが、不当に低く評価されているような気もします。</p>
<p><strong>４．ピーター・ジャクソン版「キングコング」の原点回帰は苦肉の策？</strong></p>
<p>さらに『キングコング』は、2005年に子供の頃からキングコングの大ファンだった『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソン監督によってリメイクされます。この『キングコング』は、オリジナルの物語をそのままに現代の技術でアップグレードした、正に決定版と言える作品でしたが、時代を現代ではなく、オリジナルが作られた1930年代に設定していました。</p>
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    </iframe></p>
<p>この時代設定は一般的には、ピーター・ジャクソンの原典に対するリスペクトであると考えられているようですが、実は舞台を昔にすることで、恐竜が登場する無理を目立たせないためではないでしょうか？</p>
<p>怪獣映画の時代設定を過去にすることは、本当は不利なのです。作品世界と今の現実が切断されてしまうため、観客が「私たちの世界に怪獣が出て来た！」という臨場感を味わえなくなってしまうからです。<br />
ピーター・ジャクソン版『キングコング』は莫大な制作費をかけた程には大ヒットしなかったのですが、それは、この時代設定のせいが大きかったと思います。<br />
しかし、時代を現代にして、しかも恐竜を登場させたらリアリティは無くなってしまいます。どうしても「怪獣大決戦」と「美女と野獣」の両方をやりたいピーター・ジャクソンの、苦肉の策だったのでしょう。</p>
<p><strong>５．リアリティとファンタジーを調和した髑髏島の巨神</strong></p>
<p>そう考えると、新作『キングコング 髑髏島の巨神』の時代設定、1973年は秀逸です。私たちが未だ現代と地続きだと考えられる程度の「時代劇ではない過去」であり、しかし、過去ではあるので、不思議なことが起こっても受け入れることが出来ます。<br />
つまり、リアリティとファンタジーを巧く調和させられる時代設定なのです。</p>
<p><iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=tf_til&#038;t=woody94-22&#038;m=amazon&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;IS2=1&#038;detail=1&#038;asins=4768308309&#038;linkId=fa135b13ec4f741c65df38f144c9fc64&#038;bc1=000000&#038;lt1=_blank&#038;fc1=333333&#038;lc1=0066c0&#038;bg1=ffffff&#038;f=ifr"><br />
    </iframe></p>
<p>そして、キングコングをニューヨークに連れ帰ることをせず「誰も知らない孤島の事件」に留めたため「なぜ、世間はコングばかりで怪獣を気にしないの？」という不自然さも回避できました。</p>
<p>ただし、「私たちの日常に怪物が現れる恐怖」や「美女と野獣の悲劇」は描けなかったのですが…。「怪獣大決戦」に特化したせいでB級映画風になってしまいましたが、「ドラマを棄て、怪獣を取った」と言えるのかもしれません。</p>
<p>現代を舞台に「怪獣大決戦」と「美女と野獣」を両立させることは叶わぬ夢なのでしょうか？</p>
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		<title>「抵抗」という文化のない国の美しい詩「この世界の片隅に」</title>
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		<pubDate>Fri, 13 Jan 2017 16:17:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１、「この世界の片隅に」は時代の流れの歯止めとなるのか？ こうの史代原作、片渕須直監督の長編アニメーション「こ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１、「この世界の片隅に」は時代の流れの歯止めとなるのか？</strong></p>
<p>こうの史代原作、片渕須直監督の長編アニメーション「この世界の片隅に」は、大きな宣伝もなく公開されましたが、次第に評判を呼び、日本で最も権威が高いと言ってよい今年度「キネマ旬報ベストテン」の第１位に選ばれるまでになりました。</p>
<p>驚くほど丁寧に作られた誠実な作品で、厳しい制作条件の中で、このような精緻なアニメーションを作り上げたスタッフには敬意を表しますが、あまり私の琴線には触れなかったのも事実です。</p>
<p>時代や世界に抵抗せず日々を生きようとする庶民の姿を浮かび上がらせる作品があっても良いとは思うのですが、今の日本で「あの時代」を、そうしたアプローチで描くことを手放しで称賛したくない気がするのです。</p>
<p>それは、今、日本が再び戦争への道を歩もうとしているのではないかと危惧しているからです。そして「この世界の片隅に」が、そうした時代の流れに歯止めをかけようとする作品とは、私には思えなかったからなのです。</p>
<p><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=457531188X&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p><strong>２、まるで「天災のように」</strong></p>
<p>第二次世界大戦後の日本の大衆芸能は一貫して、戦争で日本人が受けた被害を「天災のように捉える」（加害者としての側面は意識から捨象する）スタンスで描いて来ました。<br />
そして、その範囲内での表現は悲劇であるほど大衆から称賛されますが、それを逸脱して加害者の顔を覗かせたとたん、支持されなくなるのです。この流れは、近年むしろ強くなりつつあるという印象です。</p>
<p>実際、日本人の多くは、広島と長崎の原爆投下や東京大空襲を「天災のように」捉えて来た面があります。<br />
そして今、福島第一原発事故も「天災のように」捉えたがっているのではないでしょうか？</p>
<p>しかし、どちらも天災ではないのです。（原発事故のきっかけは地震ですが、そのリスクは以前から指摘されていました）。ですから責任者は明確に存在するのです。</p>
<p>その明らかに存在する「時代に対する責任」から目を背けるために、私たちはこれらを「天災のように」思い込もうとするのでしょう。<br />
<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/4306684024.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2722/4306684024_cc162c412c_m.jpg" alt="" /></a><br />原爆ドーム Atomic Bomb Dome / yto</span>　<span style="font-size: 10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/6014684894.html" target="_blank"><img src="https://farm7.staticflickr.com/6144/6014684894_bc74a396f1_m.jpg" alt="" /></a><br />
呉の港 / *Yaco*</span></p>
<p><strong>３、「抵抗」という文化のない国</strong></p>
<p>「この世界の片隅に」を観ながら思い出していたのは、原発事故に遭った人々の証言を集めた「チェルノブイリの祈り」などの著作で知られる、ベラルーシのノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチが、福島県を訪れて原発事故の被災地を視察した後に漏らした感想でした。</p>
<p>「国というものは、人の命に全責任を負うことはしないのです。また、福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国（旧ソ連）でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか」（東京新聞2016年11月29日）</p>
<p>「この世界の片隅に」の善良な庶民の姿が、私には、この「抵抗」という文化のない国の象徴のように思えたのです。<br />
<span style="font-size: 10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/2518624066.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2074/2518624066_ec1872826d_m.jpg" alt="" /></a><br />
Chernobyl / Fi Dot</span>　<span style="font-size: 10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/2517799429.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2352/2517799429_61080a20f7_m.jpg" alt="" /></a><br />
Chernobyl / Fi Dot</span></p>
<p><strong>４、「いかにも善人風」な笑顔</strong></p>
<p>「この世界の片隅に」で気になったのは、目を細めた「いかにも善人風」な笑顔が多用されていることで、原作通りなのかもしれませんが、マンガとアニメーションの表現は違う筈です。<br />
例えば、目を細めて上を向いて料理は出来ません。手元を見るものでしょう。細かいと言われるかもしれませんが、違和感があります。</p>
<p><a href="http://woody.south-sign.com/wp-content/uploads/2017/01/CylfidNUQAAp5LY.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-1361" src="http://woody.south-sign.com/wp-content/uploads/2017/01/CylfidNUQAAp5LY-300x161.jpg" alt="CylfidNUQAAp5LY" width="300" height="161" /></a></p>
<p>これは、単に絵の描き方の問題ではなくて「人間や世界をどう捉えて、どう表現するのか？」という思想の問題ではないかと思います。ですから「真剣に料理を楽しんでいる人間は一心不乱に手元を見つめているのであって、善人風の笑顔で目を細めたりしない」というのは大切なポイントだと考えるのです。</p>
<p>この作品は、驚異的な取材を基に作られた実証的なアニメーションの筈なのに、所々こうした類型的な表現が散見されるのです。それは、作者の時代に対する視線の反映なのではないでしょうか。</p>
<p><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=4575941468&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=4575941794&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe> <iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=4575942235&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p><strong>５、批評的視点の緩やかな拒絶</strong></p>
<p>「この世界の片隅に」の登場人物が時代に批判的でないのは当然ですし、むしろ正しいと思うのです。当時、戦争に批判的な庶民なんて、殆どいなかったのですから。ただ、作り手は今を生きる現代の人間なのですから、作り手の「あの時代」に対する視線は、否定であれ肯定であれ、作品から浮かび上がって来るべきだと考えます。</p>
<p>この作品を評価する人は、作者の視線は作品から充分に感じられると思うのでしょう。しかし私は、作者（原作者・監督共に）は、時代に対する意見を表明することを周到に避けていると捉えました。</p>
<p>だからこそ、この作品はあの時代を否定する人にも、肯定する人にも、等しく受け入れられているのではないでしょうか？</p>
<p>「この世界の片隅に」から感じるのは、作者たちの「あの時代を追体験したい」という強烈な欲求です。しかし「客観性」を盾に、時代に対する批評的視点を持ち込むことを緩やかに拒絶しているとも感じられます。</p>
<p>あの時代の善良な庶民の人生を美しく描く「この世界の片隅に」は、本質から目を塞いで日々の日常だけを近視眼的に肯定するという視点の持ち方において、私には「がんばれ福島！食べて応援」と同じものに見えるのです。</p>
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		<title>「デビュー作が２つある作家」スティーヴン・スピルバーグ</title>
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		<pubDate>Wed, 11 Jan 2017 02:34:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１、「２つのデビュー作」 「その作家の本質は処女作に現れる」と言われますが、その意味では、スティーヴン・スピル [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>１、「２つのデビュー作」</p>
<p>「その作家の本質は処女作に現れる」と言われますが、その意味では、スティーヴン・スピルバーグは「デビュー作が２つある」作家です。</p>
<p>スピルバーグの監督第１作というと、一般的には「激突！」だと思われています。アメリカの荒野で主人公がひたすら巨大なトラックに追い掛けられる「激突！」は、シンプルな設定と鮮烈なイメージで、世界中でヒットし、映画作家スピルバーグの出発点となりました。しかし、実は「激突！」は、余りの出来の良さに海外では劇場公開されましたが、スピルバーグがいくつも撮っていたＴＶムービーの１本だったのです。</p>
<p>「激突！」で高い評価を得たスピルバーグには初の劇場映画のチャンスが訪れます。そこで彼は、以前から気になっていた実在の事件の新聞記事の切り抜きを取りだし、それを監督第１作に選びました。それが「The Sugarland Express」です。</p>
<p>この作品は、日本では「激突！」のヒットにあやかろうと、勝手に「続・激突！カージャック」というタイトルで公開されてしまったので「激突」の続編と思ってしまっている人も多いのですが、全く違う内容なのです。そして、これこそスピルバーグ自身の企画による、真の「映画第１作」なのです。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/5976734593.html" target="_blank"><img src="https://farm7.staticflickr.com/6005/5976734593_f702a43fb8_m.jpg" alt="" /></a><br />Steven Spielberg / G155</span>  <span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/5484704760.html" target="_blank"><img src="https://farm6.staticflickr.com/5135/5484704760_6886d1d022_m.jpg" alt="" /></a><br />Steven Spielberg / WEBN-TV</span></p>
<p>２、続・激突！カージャック</p>
<p>「続・激突！カージャック（The Sugarland Express）」は、前科のせいで親権を奪われてしまった若い夫婦が子供を取り戻そうと暴走し、成り行きでパトカーをハイジャックしてしまう顛末を描いた、コミカルでほろ苦い映画です。タイトルのSugarlandとは、里親に引き取られた子供がいる土地の名前なのですが、同時に自己中心的な「正義」にかられて社会から外れてしまう若い夫婦の無邪気な幼児性を象徴してもいます。</p>
<p>スティーヴン・スピルバーグは、「ジョーズ」を出発点とする80年代的なブロックバスター・エンタテインメントで「ニューシネマの時代」を終わらせた作家と捉えられていますが、彼の映画監督第１作は、間違いなくニューシネマの系譜に連なる作品だったのです。</p>
<p>むしろ、スピルバーグの本質は、自ら企画した「続・激突！カージャック（The Sugarland Express）」にあるのではないでしょうか？これは作家としてのスピルバーグを論じる時に、重要なポイントではないかと思います。</p>
<p><iframe src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=B00ZOX1X6I&#038;nou=1&#038;ref=tf_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p>３、「幼児的なアウトロー」にこだわるニューシネマ作家</p>
<p>「続・激突！ カージャック」の「幼児的な人間が夢を追って無計画に暴走し、人生を破壊してしまう」というテーマは「未知との遭遇」にも引き継がれています。<br />
「未知との遭遇」の主人公ロイ・ニアリーは、偶然目撃したUFOの真実を追い求めて仕事も家族も捨てて暴走してしまいます。もっとも「未知との遭遇」では、珍しく最後に幻想が現実に打ち勝って終わるのですが。</p>
<p>他にも、レオナルド・ディカプリオが実在の天才詐欺師を演じた「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、当時「なぜ、スピルバーグがこの映画を撮ったのか？」と言われましたが、「続・激突！ カージャック」以来の「幼児的なアウトローの暴走による悲喜劇」と考えれば、見事にスピルバーグ的なテーマの映画なのです。</p>
<p>スティーヴン・スピルバーグには「幼児的なアウトローにこだわるニューシネマ作家」の側面があるのです。</p>
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<p>４、雇われ仕事では天才</p>
<p>しかし、雇われ仕事である「激突！」は彼の輝かしき第１作として未だに語られ続けている（スピルバーグの最高傑作であるという人すらいます）のに対して、自らの企画である「続・激突　カージャック」は、ほぼ忘れられてしまっています。</p>
<p>確かに「激突！」は「ジョーズ」「ジュラシック・パーク」「宇宙戦争」などスピルバーグ作品で繰り返される「巨大な何かに追いかけられる恐怖」というモチーフが登場した非常に重要な作品です。</p>
<p>スティーヴン・スピルバーグのエンタテインメント作品には、「巨大な何かに追いかけられる恐怖」というモチーフへの執着が生み出す「子供の見た悪夢の現実化」のような雰囲気があり、単なる娯楽を超えた禍々しさを感じさせる瞬間があります。</p>
<p>しかしその天才性は、雇われ監督として、エンタテインメント作品で職人技を発揮するときにこそ現れるのです。</p>
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<p>５、「２つのデビュー作」に対する挑戦</p>
<p>一方、スピルバーグ作品には社会派の人間ドラマも多いのですが、そうした真面目な作品に挑むたびに、常に「褒められたいのか」「アカデミー賞が欲しいのか」といった揶揄にさらされ続けて来ました。しかし、彼には「続・激突！カージャック」から一貫して「社会のメインストリームから外れた人間のドラマ」への指向があったのです。</p>
<p>スティーヴン・スピルバーグは驚くべき多作家で、娯楽作品から社会派の人間ドラマまで、ハイレベルな作品を作り続けて来ました。そのバイタリティの源泉は、彼の出発点である「激突！」と「続・激突！カージャック」という「２つのデビュー作」に対する評価の、奇妙なアンバランスにあるのではないでしょうか？</p>
<p>スティーヴン・スピルバーグは、雇われ仕事である「激突！」で偶然に発揮したエンタテインメント作家としての才能は高く評価しながら、自ら選んだ「続・激突！カージャック」を始めとする人間ドラマ路線は奇妙に軽視し続ける世間の評価に、挑戦し続けているようにも見えるのです。</p>
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		<title>「未知との遭遇」の主人公はなぜ電気工なのか？</title>
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		<pubDate>Mon, 09 Jan 2017 23:45:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１、大衆は切り落とされる枝葉なのか 社会現象と言えるほど大ヒットした「シン・ゴジラ」は、「もしゴジラが出現した [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１、大衆は切り落とされる枝葉なのか</strong></p>
<p>社会現象と言えるほど大ヒットした「シン・ゴジラ」は、「もしゴジラが出現したら、日本政府はどう対応するのか？」をシミュレーションしていますので、ドラマの主役は国を動かす官僚と政治家たちであり、ゴジラに蹂躙される大衆の姿はほとんど描かれていません。</p>
<p>余分な枝葉を切り落としてテーマを集中して語るためには正しい方法だと思うのですが、「私たち大衆は切り落とされる枝葉なのか」という違和感を覚えないでもありません。</p>
<p>「シン・ゴジラ」の後半、ゴジラを退治するために外国からの核攻撃の危機にさらされた東京を、若手官僚たちの奮闘が救う「プロジェクトＸ」のような展開を眺めながら、私は改めてエンタテインメント作家としての「スティーヴン・スピルバーグの特殊性」に思いを馳せていました。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/14302865252.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2940/14302865252_c084de685a_m.jpg" alt="" /></a><br />雑踏 / Norisa1</span> <span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/9702558234.html" target="_blank"><img src="https://farm4.staticflickr.com/3675/9702558234_133331291a_m.jpg" alt="" /></a><br />Underline / nSeika</span></p>
<p><strong>２、スティーヴン・スピルバーグの特殊性</strong></p>
<p>スティーヴン・スピルバーグはSF映画の主人公をエリートにしたがらないのです。彼のスペクタクル的SF作品の主人公は、多くの場合、私たちと同じ一般人です。人類と宇宙人の平和なファースト・コンタクトを描く「未知との遭遇」の主人公リチャード・ドレイファスは電気工ですし、それとは真逆の、宇宙人による悪夢のような地球侵略を描く「宇宙戦争」の主人公トム・クルーズは港湾労働者です。</p>
<p>彼らは市井の人間として、訳も分からず地球規模の事件に巻き込まれ、翻弄されて行きます。スピルバーグのＳＦ映画は常に庶民のドラマなのです。</p>
<p>しかし、これはSF映画の作り方としてはむしろイレギュラーなのであり、スティーヴン・スピルバーグの特殊性を表しているのです。</p>
<p><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=B018S2F1TQ&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=B0088LBW2S&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p><strong>３、SFの主人公はエリート</strong></p>
<p>SFは、個としての人間の愛や苦悩ではなく人類や世界の運命のような大きなテーマを扱うので、エリートの科学者や官僚を主人公にすることが多く、特にディザスターSFにはその傾向が強くなります。「地球の危機」の進行状況を観客に知らせるには、危機に立ち向かっている政府に近いエリートを主人公にした方が観客に状況を説明しやすく、ドラマも作りやすいからで、これは作劇上の要請なのです。</p>
<p>ディザスターSFの主人公を庶民にしてしまうと「世界がどんな危機に襲われ、それに人類がどう立ち向かったのか」を描くことを難しくしてしまいます。作品のテーマを効率的に語る武器を放棄することになる訳です。</p>
<p>にもかかわらず、スピルバーグが庶民を主人公にし続けるのは、明らかに意図的なのです。</p>
<p><strong>４、「未知との遭遇」での変更</strong></p>
<p>「未知との遭遇」の脚本は、最初「タクシー・ドライバー」のポール・シュレーダーが書いたのですが、そこでの主人公はUFO問題を調査するために米国で実際に設置された「プロジェクト・ブルーブック」に携わるFBIのエージェントでした。しかし、スティーヴン・スピルバーグは「エリートを主人公にしたくない」と言って、自ら電気工に変更してしまったのです。</p>
<p>これは、人類の異星人とのファースト・コンタクトという大事件を俯瞰して論理的に描くためには、明らかに「作劇上は上手くない」変更です。<br />
そしてスピルバーグの描く主人公の電気工は、自分が何に巻き込まれているのかわからないまま、巨大な波に振り回され、人生を破壊されて行くことになるのです。</p>
<p>そこまでして、スピルバーグにはなぜ主人公を庶民にすることにこだわったのでしょうか？</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/13917963704.html" target="_blank"><img src="https://farm8.staticflickr.com/7352/13917963704_1114426f15_m.jpg" alt="" /></a><br />Star trails / Brian Tomlinson</span> <span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/7051273279.html" target="_blank"><img src="https://farm8.staticflickr.com/7109/7051273279_465e893e25_m.jpg" alt="" /></a><br />Portrait / Tyrone Daryl</span></p>
<p><strong>５、SFポピュリスト</strong></p>
<p>かつて70年代のSFブームの頃、作家の開高健が「SF小説の主人公には個性的なキャラクターが少ない」と批判をしたことがあったのですが、それに対して小松左京は、「人類」や「文明」といった巨視的なテーマを描くSF小説の主人公はいわば「人類の代表」なのでフラットなキャラクターの方が良いのだ、という趣旨の反論をしていました。</p>
<p>この小松左京の反論は説得力があったのですが、確かにSFは、いかにもエリートでしかも余り個性的ではないキャラクターが主人公になることが多いのです。それは巨視的なテーマを効果的に語る方法論だったのでしょう。しかし、SFが本来的に有する啓蒙思想と相まって、いわゆる「エリート主義」に陥りやすい傾向があるのではないでしょうか。</p>
<p>そして、スティーヴン・スピルバーグ作品の背後には明らかに反エリート主義が感じられ、大衆を先導するエリートではなく、巨大な運命に翻弄される庶民の目線からSFを語ろうとする「SFポピュリスト」の趣があります。</p>
<p>実は、主人公を社会のメインストリームから少し外れた人間にするのは、スティーヴン・スピルバーグの監督第１作の映画からのこだわりなのです。</p>
<p>次回はそのお話をしたいと思います。</p>
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		<title>「シン・ゴジラ」はSFの相対主義に倒されたのか</title>
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		<pubDate>Sun, 08 Jan 2017 01:17:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１、2016年を代表する日本映画 庵野秀明の脚本・監督による「シン・ゴジラ」は事前の予想を覆す50億円を超える [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１、2016年を代表する日本映画</strong></p>
<p>庵野秀明の脚本・監督による「シン・ゴジラ」は事前の予想を覆す50億円を超える大ヒットになり、年末には国民的番組「紅白歌合戦」の幕間劇にまで登場する、2016年を代表する日本映画となりました。</p>
<p>「エヴァンゲリオンのクリエーター、庵野秀明がゴジラを撮った」という刺激的なニュースに興奮していた私は「シン・ゴジラ」を公開初日に観に行きましたが、映画の公開初日に駆け付けたのは久しぶりのことです。</p>
<p><iframe src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=490503308X&#038;nou=1&#038;ref=tf_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p><strong>２、リアルなシミュレーション・ドラマ</strong></p>
<p>「シン・ゴジラ」は「ゴジラのような破滅的な災害に直面した時に、日本はどう立ち向かうのか？」という視点で政府や自衛隊の対応をリアルにシミュレーションした見応えのある作品でした。特に、この手のエンタテインメント映画につきものの安っぽい人情ドラマや色恋沙汰を排したストイックな展開は挑戦的です。<br />
装飾的な（本来なら観客サービスである筈の）ドラマを全て削ぎ落とし「日本対怪獣」だけを真面目に描いたこんな歪な作品が、社会現象になる程ヒットしている事実は、日本映画に多くの示唆を与えている気がします。</p>
<p>映像的にもさすが庵野秀明というべきで、中盤のゴジラが東京を崩壊させるシーンの凄まじさは（アニメ的ではありますが）素晴らしく、その「美しいカタストロフ」に陶然となってしまうほどです。</p>
<p>しかし、私の感想は「絶賛」という訳ではありませんでした。</p>
<p>ここでのゴジラは、明らかに東北大震災とそれに伴って発生した福島第一原発事故のメタファーになっているのですが、リアルに取り組んでいるだけに、日本の現状を考えてしまって素直には楽しめないところがあるのです。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/14890699.html" target="_blank"><img src="https://farm1.staticflickr.com/12/14890699_b02cdc9d94_m.jpg" alt="" /></a><br />都庁 / shibainu</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/6354186583.html" target="_blank"><img src="https://farm7.staticflickr.com/6053/6354186583_fcf7fa9871_m.jpg" alt="" /></a><br />東京タワー / Kentaro Ohno</span></p>
<p><strong>３、官僚と政治家が日本を救う</strong></p>
<p>この作品では官僚と政治家が日本を救います。明らかに3.11を連想させるゴジラ災害（放射能災害）に襲われ壊滅した東京で、ゴジラに立ち向かう若き官僚たちが「日本は、まだまだ大丈夫だ！」と確認し合う（恐らく）感動的なシーンがあるのですが、居心地の悪さに困惑しました。私が今の日本を「まだまだ大丈夫」とは思えないからでしょう。<br />
日本が3.11の巨大な原発事故に直面したあの時、日本の政治家と官僚はこんなに頼もしく（というより「公平」で）立派だったのでしょうか？</p>
<p>一方で、国会を取り巻く市民のデモが一瞬映るのですが、太鼓を鳴らしながら「ゴジラを殺せ！」と連呼しているようでした。明らかに反原発や反安保のデモを連想させようとしていますが、暴力的で浅薄な描き方には「これが作者の市民デモに対するイメージなのか？」と違和感を覚えました。</p>
<p><strong>４、優秀なエリートに導かれる衆愚</strong></p>
<p>この作品は、「ゴジラ災害に日本というシステムがいかに対応するのか？」についてのシミュレーション映画という側面があるので、主役はシステムを動かす官僚と政治家であり、災害に巻き込まれる「大衆」の描写は意識的に避けています。ドラマの緊迫感を高めるという意味では、その意図は分かるのですが、わずかに散見される大衆の描写からは、「優秀なエリートに導かれる衆愚」といった「大衆蔑視」の匂いが感じられる気がしてしまうのです。</p>
<p>また、放射能に汚染された東京の復興について「除染」といった言葉が連発されるのにも抵抗があります。原発の過酷事故による放射能汚染に対して、除染に実質的な効果がないことは、チェルノブイリ原発事故を経験したロシア（ソ連）が証明してしまっています。残念ながら除染は賽の河原で石を積むような虚しい作業なのです。現実には、福島原発事故にかかわる「除染」は、原発周辺産業の救済のための公共事業になってしまっているのではないでしょうか？<br />
日本の「システム」の描き方にしても、理想的な部分のみを美化している側面があると思うのです。</p>
<p>それは、おそらく意識的なものはなくエンタテインメント作品だからなのですが、「シン・ゴジラ」が図らずもエンタテインメントを超えた領域に踏み込んでしまったからこそ、気になるのでしょう。しかし、それは「太平洋戦争と原爆のメタファー」であった初代ゴジラに再び挑戦する宿命でもあるのです。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/5613418695.html" target="_blank"><img src="https://farm6.staticflickr.com/5109/5613418695_4e8d626496_m.jpg" alt="" /></a><br />CIMG0251.JPG / xtcbz</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/5610834425.html" target="_blank"><img src="https://farm6.staticflickr.com/5069/5610834425_40e2baabaa_m.jpg" alt="" /></a><br />CIMG0118.JPG / xtcbz</span></p>
<p><strong>５、「シン・ゴジラ」が纏うニュートラルな衣装の限界</strong></p>
<p>「シン・ゴジラ」が象徴する問題は、余りにも「今の日本」に直接的に結びついているため、どうしても政治的な見方をされてしまいますが、後半の展開を見ても、じつは日本のオーソドックスな怪獣映画のフォーマットに則った作品で、「伝統的な怪獣映画を徹底的にリアルに描いたらどうなるのか？」という実験だったことが分かります。従って、政治的な側面についてはニュートラルなスタンスを保とうとしています。</p>
<p>しかし、「表現」が3.11のような問題に触れてしまったときに、完全にニュートラルでいることは無理なのではないでしょうか？そこでニュートラルであり続けることは、たとえ作者が意図しなかったとしても、現状の体制を肯定する立場になって行きます。議論で「私は右でも左でもありませんが」と前置きする人が必ず右寄りの結論に行き着くように。</p>
<p>表現は自由ですから、右寄りであっても左寄りであっても構わないわけですが、（意識的であるか否かにかかわらず）ニュートラルな衣装を纏いながら一方に誘導する表現を、私は好みません。<br />
その意味で、「シン・ゴジラ」は最近のテレビに蔓延している「日本スゴイ」と合唱する情報系バラエティ番組と通じるものを感じます。それが、2016年末のNHK紅白歌合戦登場にまで繋がっているのでしょう。</p>
<p><strong>６、「視点の相対化」はSFの武器なのか</strong></p>
<p>SFの特質の一つは「視点の相対化」だと言われますが、私は、SFというジャンルの衰退は「相対主義の堕落」にあるのではないかと考えています。宇宙や未来といった超現実的な設定を駆使するSFの武器は、従来の常識に盲従しない相対主義にあると言われて来ました。</p>
<p>私たちの常識をまったく違った視点から覆し新たな価値観を提示すべきSFの相対主義は、本来なら自らにも刃を向ける危険な「諸刃の剣」だった筈です。<br />
ところがSFは次第に現実と戦うことを避け、やがて「すべては相対的なんだから」と言いながら、現状を無批判に肯定する姿勢の言い訳へと堕落して行ったように感じられるのです。少なくとも、私がSFから距離を置くようになったのは、そのためです。</p>
<p>そして、リベラルな人からは「右翼的だ」と言われ、保守的な人からは「左翼的だ」と言われる「シン・ゴジラ」の持つ相対性も、そうした堕落した相対主義の延長線上にあるのではないでしょうか。<br />
ラストの「ヤシオリ作戦」に倒れたゴジラの姿は「視点の相対化」という衣装に絡みつかれて凍り付いてしまっている日本SFの姿そのもののように、私には見えたのです。</p>
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		<title>「君の名は。」と時間SFの歴史を変えた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」</title>
		<link>http://woody.south-sign.com/?p=1314</link>
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		<pubDate>Sat, 31 Dec 2016 06:40:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１、日本アニメ健在を印象づけた「君の名は。」 2016年8月に公開された新海誠監督の長編アニメーション「君の名 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１、日本アニメ健在を印象づけた「君の名は。」</strong></p>
<p>2016年8月に公開された新海誠監督の長編アニメーション「君の名は。」は、今年の日本映画最大のヒットとなり、海外でも高い人気を獲得して「日本アニメ健在」を印象づけ、宮崎駿の「もののけ姫」の興行成績すら超えながら、いまだにヒットを続けています。</p>
<p>「君の名は。」の序盤は、東京に暮らす少年と飛騨の山奥で暮らす少女に起きた「入れ替わり」をユーモラスに描いて「転校生」的なファンタジーコメディを思わせます。しかし、ドラマはある瞬間を境に、3.11的なカタストロフを連想させる世界へとイメージが一挙に広がります。この展開は衝撃的で、私は大きな感動を受けました。<br />
「君の名は。」のプロットには、誰もが指摘する大きな穴があるのですが、その「穴」こそが、この作品の感動を生むポイントになっているのがユニークです。</p>
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<p><strong>２、悲劇はもう一度やり直される</strong></p>
<p>しかし、ドラマの後半は「主人公は悲劇の歴史を改変ができるのか？」という良くあるタイプの活劇になってしまうのが、個人的には少し残念でもありました。<br />
あくまでも好みに基づく偏見ですが、私は「君の名は。」に感動しながらも、中盤の真相が明らかになるくだりをクライマックスとして、後半は全てカットして過去が改変されないまま終わって欲しかった、と思っていました。<br />
私は、近年とても多い「悲劇の過去をもう一度やり直す」タイプのエンタテインメントが、実はあまり好きではないのです。</p>
<p>「君の名は。」は、時空を超えた男女のすれ違いの恋が描かれているので、一種の時間テーマSFであるとも言えます。タイムスリップなどのアイディアを用いた時間SFの歴史は古く、映画でも昔からずっと作られていますが、近年の特徴は「不幸な過去が改変され、ハッピーエンドになる」パターンが多いことです。今では普通の展開ですが、コレは、かつては禁じ手だったのです。</p>
<p>私は「君の名は。」に感銘を受けながら、時間SFに革命を起こしたある作品を思い出していました。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/3707595776.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2555/3707595776_002c95ffdc_m.jpg" alt="" /></a><br />諏訪湖の雲 / kuracom</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/7725253076.html" target="_blank"><img src="https://farm9.staticflickr.com/8283/7725253076_b18f43159e_m.jpg" alt="" /></a><br />青藏高原 / 南市人</span></p>
<p><strong>３、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」との出会い</strong></p>
<p>時間SFは「過去に行った主人公が大きな歴史的事件に立ち会い、何とか歴史を変えようと努力するが敗れる」というのが基本パターンで、歴史という運命に抗おうとする人間の悲劇を描くのがテーマの一つでした。<br />
そして、この基本パターンを、完全に打ち砕いたのがスティーヴン・スピルバーグ制作、ロバート・ゼメキス監督の大ヒット作「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だったのです。</p>
<p>私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を、偶然、日劇マリオンの先行オールナイトで観たので、その時はどんな映画か知りませんでした。飲み会の帰りに有楽町の街を歩いていたらマリオンの前に長い行列が出来ていて、酔った勢いで訳も分からずフラフラと列に並んでしまったのですが、それが先行オールナイトの列だったのです。</p>
<p>全く予備知識のないまま観た「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の面白さと観客の盛り上がりは、人生の中でも一二を争う楽しい映画体験でしたが、それまで時間SFを縛っていたルールを軽やかに破ってしまったラストには大きなショックを受け、酔いが完全に覚めてしまいました。</p>
<p><iframe src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=B01LTHNA8G&#038;nou=1&#038;ref=tf_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p><strong>４、時間SFに起きた革命</strong></p>
<p>「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、両親の高校時代にタイムトラベルしてしまった主人公が、両親の恋のキューピットになろうと奮闘するコメディです。両親が結ばれなければ主人公は消えてしまう訳ですから大変です。タイムマシンを作った博士は、両親の青春時代で自由に振る舞う主人公に対して、盛んに「過去を変えてはならないんだ」と時間SFのセオリーを唱えるのですが、ラストで「硬いこと言うな」と自らルールを破ってしまいます。<br />
時間SFに革命が起きた瞬間でした。<br />
この作品が革命的なのは、時間SFのセオリーを、無意識にではなく、十分に分かっていながら意識的に破ってしまったことです。そこには大きなカタルシスがありました。</p>
<p>SF小説の翻訳家として有名な浅倉久志は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が時間テーマSFに与えたインパクトは「スター・ウォーズ」が宇宙SFに与えたインパクトに匹敵する、と話していました。<br />
<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/6891827500.html" target="_blank"><img src="https://farm8.staticflickr.com/7264/6891827500_af9647bbe4_m.jpg" alt="" /></a><br />LA Live / Danny Thompson Jr</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/19433391733.html" target="_blank"><img src="https://farm4.staticflickr.com/3805/19433391733_67fe887d95_m.jpg" alt="" /></a><br />Los Angeles Downtown / Davide D&#8217;Amico</span></p>
<p><strong>５、「何でもあり」となった時間SF</strong></p>
<p>「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が「過去を変えてはならない」というタブーを壊してから、時間SFは「過去は、いくらでも都合の良い様に変えられる」という「何でもあり」な世界に突入し、多くの作品が最期はハッピーエンドで終わるようになってしまいました。この傾向は、時間SFが本来持っていた筈の「厳しさ」「悲しさ」を失わせ、感動を削いでいるのではないかと思うのです。</p>
<p>タブーは、それを壊す瞬間にはカタルシスがあるのですが、タブーの破れた状態が何のためらいもなくデフォルトになってしまえば、それは、単なる退廃なのではないでしようか？</p>
<p>タブーを失った時間SFでは、多くの場合、作品の序盤では大切な人物が亡くなっているのですが、主人公の奮闘によって「死ななかったもう一つの歴史」に置き換わります。<br />
アニメーション作家の宮崎駿は「物語作者は作中人物の殺生与奪の権利を持っているからこそ、人の死を安易に扱ってはならない」と語っていました。これは、恐らく宇宙戦艦ヤマト・シリーズに対する批判なのですが、私がかつて熱中していた「ドラゴンボール」を読むのをパタリと止めたのも、ドラゴンボールを使って死者を生き返らせてしまった時でした。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/5162282911.html" target="_blank"><img src="https://farm5.staticflickr.com/4063/5162282911_7e3c65f6f2_m.jpg" alt="" /></a><br />Old Town Scottsdale Picture / Phil Sexton</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/7539840264.html" target="_blank"><img src="https://farm8.staticflickr.com/7108/7539840264_3e94be570a_m.jpg" alt="" /></a><br />Old Town Leesburg / m01229</span></p>
<p><strong>６、叶わぬ夢が叶う「夢」</strong></p>
<p>人は人生や歴史のターニングポイントとなった瞬間について「あの時をもう一度やり直せたら」と夢想する時があります。時間SFは、この誰もが抱く夢想に対するチャレンジなのです。かつての、時間SFはこの夢に挑む人間の戦いと（否応なしに訪れる）挫折を描いていました。私たちは、その挫折に涙しながら、一度しかない人生に思いを馳せたのです。</p>
<p>今の時間SFは「夢は叶う」と囁きかけます。しかし、現実には、この夢は決して叶わないのです。<br />
叶わない（と言うより、叶ってはいけない）「夢」の実現を提供してくれるファンタジーに浸りながら、人々は何に思いを馳せているのでしょう？</p>
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		<title>角川映画というムーブメントは何だったのか</title>
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		<pubDate>Mon, 05 Sep 2016 08:35:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１、角川映画40周年 今、大ヒットしている「シン・ゴジラ」を観に行った時、冒頭でスクリーンに「角川映画40周年 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１、角川映画40周年</strong></p>
<p>今、大ヒットしている「シン・ゴジラ」を観に行った時、冒頭でスクリーンに「角川映画40周年記念映画」という言葉が映し出されました。今年は角川映画が始まって40周年だそうで、7月末から9月2日にかけて、昭和時代の角川映画の回顧上映も行われていました。</p>
<p>昭和時代の角川映画ということは、「角川春樹時代の角川映画」を意味します。角川春樹プロデュースによる角川映画は、初めてメディアミックス戦略を持ち込み、日本映画に新風を吹き込みました。1980年代に青春を過ごした映画ファンにとって、非常に重要なムーブメントだったのです。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/8642241926.html" target="_blank"><img src="https://farm9.staticflickr.com/8108/8642241926_9b75368c6c_m.jpg" alt="" /></a><br />photo / 陈从峰</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/3001697139.html" target="_blank"><img src="https://farm4.staticflickr.com/3209/3001697139_e826145608_m.jpg" alt="" /></a><br />京都 / densetsunopanda</span></p>
<p><strong>２、日本初のメディアミックス戦略</strong></p>
<p>角川書店の御曹司だった角川春樹がメディアミックス戦略に注目したのは、米国のベストセラー小説「ある愛の詩」の翻訳出版を（周囲の反対を押し切って）手掛けて成功したのがきっかけです。「ある愛の詩」は、原作小説の発売と映画の公開がほぼ同時に行われ、小説、映画、音楽の三位一体の大宣伝によって世界的ブームを巻き起こした、本格的なメディアミックス戦略を取り入れた、世界的にも最初の作品だったのです。</p>
<p>角川映画は、巨匠市川崑監督が横溝正史のミステリーをオールスターキャストで映画化した「犬神家の一族」（1976）で始まります。この作品の大ヒットで、当時すでに忘れられつつあった横溝正史のブームが起こり、再びベストセラー作家として復活しました。</p>
<p>本格ミステリーの古典をオールスターキャストで一流監督によって映画化する、という「犬神家の一族」の方法論は、シドニー・ルメット監督「オリエント急行殺人事件」が成功したことに、ヒントを得たものでしょう。角川春樹は、世界の映画の動向に目を向け、それをいち早く日本に取り入れようとしていました。</p>
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<p><strong>３、角川ブランドの誕生と「角川商法」</strong></p>
<p>「角川映画」というブランド名が誕生したのは「人間の証明」（1977）からです。<br />
「人間の証明」は角川映画が全く新しいムーブメントであると証明しました。従来の常識を破るメディアミックス戦略を駆使した宣伝は、大ブームを起こし「読んでから観るか？観てから読むか？」というキャッチコピーは流行語となりました。<br />
さらに、エアポート・シリーズなどでハリウッドの中堅スターだったジョージ・ケネディの招聘とニューヨークでの本格的ロケ撮影、そしてジョー山中の主題歌、それら全てが新しかったのです。ただし、作品の評価そのものは、今ひとつでした。</p>
<p>徹底した宣伝攻勢で社会的ブームを巻き起こし作品をヒットさせる方法論は「宣伝ばかりで、作品の中身が伴っていない」と、旧来の日本映画界やマスコミからの反発を招き「角川商法」と揶揄されました。</p>
<p>しかし、角川映画によって、子供たちが学校で、再び映画をトレンドとして話題にするようになりました。当時すでに斜陽だった映画がエンタテインメントのトップに返り咲いたのです。</p>
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<p><strong>４、映画製作についてのコペルニクス的転換</strong></p>
<p>高倉健は、「人間の証明」の頃は、他の映画人と同様に「角川商法」に批判的でしたが、次作「野性の証明」（1978）への出演をきっかけに角川映画支持に「転向」しました。理由は、ケータリングなどが充実したリッチな撮影現場にショックを受けたからです。</p>
<p>「これが成立するなら、今までの日本映画は何をやっていたのかと思う」。角川映画は、予算の使い方が従来の日本映画とは違ったのです。</p>
<p>それまでの日本映画では、撮影現場や宣伝に使うお金はなるべく節約しました。そんなお金があるなら、その分を映画のクオリティを上げるために費やすことこそ正しい、と考えられて来たのです。しかし、映画の素人だった角川春樹は、「撮影現場の環境から宣伝までを含めて『映画』だ」、という発想でした。これは、日本の映画人にとってコペルニクス的転換だったのです。</p>
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<p><strong>５、角川映画の功績</strong></p>
<p>角川映画の基本戦略は、角川書店で出版する小説を映画化して相乗効果を狙うものでしたが、音楽にも力を入れていました。「人間の証明」のテーマ曲を大ヒットさせたジョー山中を始めとして、ロック・ポップス系の実力派ミュージシャンを起用してヒット曲を連発しました。斜陽になっていた映画界からヒット曲が生まれるのは、久しぶりだったのです。</p>
<p>角川映画が起用するミュージシャン、そして音楽の使い方は、当時の若者に、それまでの日本映画とは明らかに違うセンスを感じさせました。<br />
角川映画は、若者にとっての文化的トレンドになるには「音楽」がいかに大切かを再認識させてくれました。</p>
<p>1970年代後半は、年に１作か２作のペースで大作を発表していた角川映画ですが、1980年代に入ると精力的にプログラムピクチュアを量産するようになります。</p>
<p>当時、斜陽だった大手の映画会社は、新人監督の採用を行っていず、映画監督を目指す若手がデビューする道はロマンポルノ等しかありませんでした。角川春樹はそうしたメインストリームから外れた場所で頭角を現した、相米慎二、根岸吉太郎、崔洋一、森田芳光といった若手監督たちを、エンタテインメントの大作に積極的に起用して行きます。これは、角川映画の残した非常に大きな功績でした。</p>
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<p><strong>６、戦略の存在</strong></p>
<p>角川春樹がプロデューサーとして成功した要因は、単に時流に乗るだけではなく、明快な戦略があったことです。例えば、1980年代前半は「スター・ウォーズ」の大ヒットで、宇宙SFやファンタジー映画ブームが巻き起こり、世界中で多くのSF・ファンタジー映画が作られていました。日本でも、東宝の「惑星大戦争」や東映の「宇宙からのメッセージ」のような「スター・ウォーズ」のエピゴーネンが制作されています。しかし、SFXや撮影規模ではどうしてもアメリカの本家に敵わず、安っぽい「類似品」になってしまいます。</p>
<p>その時、角川春樹はSF映画ブームに正面からぶつかるのではなく「ファンタジー風の伝奇時代劇」という切り口で、山田風太郎の「魔界転生」（1981）を沢田研二主演、深作欣二監督で映画化し成功させました。これは、非常にクレバーだったと思います。</p>
<p>また、角川映画は当時日本を席巻していたアニメブームにも参戦しますが、少し大人向けでハイブロウなアニメを提供しようという明確な戦略のもと、「幻魔大戦」（1983）や「カムイの剣」（1985）などの異色作を世に送り出しました。</p>
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<p><strong>７、自ら映画監督に</strong></p>
<p>角川春樹は、資金調達と調整役に徹する日本型プロデューサーというより、映画制作に積極的に関与して行くハリウッド型プロデューサーでしたが、1982年の「汚れた英雄」で遂に映画監督に乗り出し、次第に自らも積極的に映画を監督するようになって行きます。</p>
<p>角川春樹には、1982年の「汚れた英雄」に始まり2009年の「笑う警官」まで7作の監督作品がありますが、映画作家としての側面がキチンと批評されていない感じがします。ご本人の激しいキャラクターとは裏腹に、アップよりロングの画面が、動き回るキャメラより静止画が好きな人で、画面の構築力はあるがドラマ演出は苦手な人、という印象があります。</p>
<p>特に「キャバレー」（1986）と「天と地と」（1990）は角川映画にとって勝負作と言って良い作品であり、それを角川春樹自身が監督したことがプラスだったのかは、難しいところです。</p>
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<p><strong>８、角川春樹時代の終焉</strong></p>
<p>1990年の大作「天と地と」は興行収入92億円を上げましたが、同時に、以前から批判を受けていた、大量の前売り券を関連企業に購入させて興行収入を維持する「前売り券商法」の破綻が顕在化した作品でもありました。</p>
<p>この頃から、強権的な角川春樹と反対派が対立する角川書店のお家騒動が起こります。そして1993年、角川春樹が薬物所持により逮捕されることによって、「角川春樹による角川映画」の時代は終焉を迎えるのです。</p>
<p>角川春樹時代の角川映画には当時から毀誉褒貶がありましたが、斜陽を迎え衰退しつつあった日本映画に新風を吹き込み活性化したことは確かであり、1980年代の日本映画を角川映画というムーブメントを抜きに語ることは出来ません。</p>
<p>その後の日本のエンタテインメント全体に与えた影響も、非常に大きなものがあったと思うのです。</p>
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		<title>演劇ユニット3.14chの新作「大型」鑑賞記</title>
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		<pubDate>Sun, 28 Aug 2016 10:36:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
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		<description><![CDATA[１、SF的なアイディアを通じて日常の違和感を描き出す 演劇ユニット3.14chの新作「大型」を観ました。3.1 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１、SF的なアイディアを通じて日常の違和感を描き出す</strong></p>
<p>演劇ユニット3.14chの新作「大型」を観ました。3.14chは2010年に結成された演劇ユニットで、SF的なアイディアを通じて日常の違和感を描き出す作風です。「大型」は第九回公演ですが、私は過去作を観て感心していたので、今回も期待していました。しかし、今回は劇中の緊張感が持続せず、不覚にも何度か睡魔に襲われてしまいました。体調のせいではなかったと思います。</p>
<p><a href="http://woody.south-sign.com/wp-content/uploads/2016/08/002.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-1279" src="http://woody.south-sign.com/wp-content/uploads/2016/08/002-209x300.jpg" alt="__ (002)" width="209" height="300" /></a></p>
<p><strong>２、2作品分の内容を一本に詰め込んでいる密度の濃さ</strong></p>
<p>私が今までに観た劇団3.14chの「小型」と「宇宙船（再演）」です。<br />
「小型」は、ある日急に小さくなってしまった男の物語で、カフカの「変身」やリチャード・マシスンの「縮みゆく人間」的な設定にも拘わらず、極めて日常的な「男女のズレ」を描く…と思いきや、後半はファンタジー的な世界に突入します。</p>
<p><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=4102071016&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=4594068766&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p>「宇宙船」は、ロバート・ハインラインの「宇宙の孤児」やアーサー・C・クラークの「遥かなる地球の歌」で知られる、ＳＦの代表的アイディアの一つである「世代宇宙船」に挑んだ作品ですが、このテーマは必然的に「世界」そのものを扱うことになります。</p>
<p><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=B00LBBQOIO&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe> <iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=B00CZ840IS&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p>どちらの作品も情報量が多く、本来は2作品くらいの内容を一本に詰め込んでいる密度の濃さが魅力だったのですが、今回の「大型」は、むしろ情報量をそぎ落とし、殆どセリフの無い動きだけの世界を目指しているように見えました。<br />
しかし、私が観た限りでは、残念ながら、それが成功しているとは思えなかったのです。</p>
<p><strong>３、新作「大型」</strong></p>
<p>劇団3.14chの新作「大型」は、夜のプールサイドで開かれている大麻パーティに始まり、レズビアンであることにより心に傷を負った主人公の女性が、深夜のプールで経験する精神的な旅を描いているのだと“思います”。</p>
<p>冒頭の大麻パーティのシーンからして、セリフで「説明」をするのではなく、間やタイミングで緊張感を出そうとしているので、物語が殆ど進行しないのですが、幻想シーンになると全くセリフがありません。<br />
古代インドの衣装を身にまとったキャラクターによって、ボクシングのラウンドのように、何度もエロティシズムを感じさせるバトルが繰り返され、主人公はそれを目撃します。チベット仏教の「死者の書」がモチーフになっているらしいのですが、説明がないので、多くの観客は、わけが分からず置いて行かれてしまうのです。</p>
<p><strong>４、観客には見えないもの</strong></p>
<p>もっとも、劇中のテンションが持続していないのは、深夜のプールで繰り広げられる幻想のバトル・シーンにセリフがない事が原因ではないと思います。延々と同じようなアクションが繰り返され（作者からすると、それぞれ違う意味が込められている筈ですが、観客からはそう見えてしまうのです）、それに対する主人公のリアクションも「ただ怯える」だけで同じだからなのです。</p>
<p>ですから主人公の心の中で起こっているだろう「精神の変化」も分からず、主人公の「成長」なり「変化」なりが見えて来ません。だから、単調に感じてしまうのでしょう。</p>
<p>冒頭の大麻パーティで散りばめられた伏線らしきものが回収されず、放りっぱなしで終わるのにも、違和感がありました。ラストは、やはり主人公が現実に戻って終わるのがセオリーではないでしょうか？<br />
作者は類型を避けたのかもしれませんが、観客にとっては、フラストレーションが溜まる結果になっていたと思います。</p>
<p><strong>５、「類型」の意味</strong></p>
<p>作劇における類型には、それなりの意味があり、敢えて類型に従った方が良い場合もあるはずです。例えば、SFやファンタジーでは「夢オチ」は「やってはいけないこと」だと言われています。</p>
<p>冴えないプログラマーが世界の救世主となる「マトリックス」がシリーズ化された時、多くのファンは「これって夢オチで終わるのかな？」と想像しました。しかし、当然と言うべきか、マトリックス３部作の主人公はアチラの世界で救世主のまま終わったのです。けれど、マトリックス・サーガのラストは、予想通りで類型的であったとしても、主人公が現実に戻る夢オチであるべきだったと思うのです。<br />
マトリックス・サーガの「マトリックスの世界へ、行きっ放し」のラストは、多くの観客を納得させるものではありませんでした。</p>
<p>「夢オチはいけない」とは言っても、必ずしも類型が悪いのではなく、その扱い方が問題なのではないでしょうか？</p>
<p><iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;asins=B00005HC54&amp;nou=1&amp;ref=tf_til&amp;fc1=000000&amp;IS2=1&amp;lt1=_blank&amp;m=amazon&amp;lc1=0000FF&amp;bc1=000000&amp;bg1=FFFFFF&amp;f=ifr" width="300" height="150" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p><strong>６、役者と美術</strong></p>
<p>主役の鵜沼ユカさんは大熱演だし魅力的でしたが、劇のクライマックスに分かりやすいカタルシスが用意されていないので、その熱演を観客が消化し昇華できないもどかしさも感じました。他にもかなり多くの役者がパフォーマンスを見せ、カーニバル的なムードを盛り上げますが、個々の役者に余りしどころがないのは、少し残念でした。</p>
<p>私は、小劇団の芝居を時々観るのですが、劇団3.14chは美術や映像効果のレベルが高いと、いつも感じていました。今回の「大型」もその点は力が入っていて、幻想的な世界を見せてくれます。</p>
<p><span style="font-size: 10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/3874472746.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2462/3874472746_8299e776d1_m.jpg" alt="" /></a><br />
near Kawela Bay, HI, United States / izumoi</span> <span style="font-size: 10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/7937214564.html" target="_blank"><img src="https://farm9.staticflickr.com/8173/7937214564_69e1fb7dae_m.jpg" alt="" /></a><br />
DSC03387 / GWP Photography</span></p>
<p><strong>７、『真夜中のパーティ』に始まって『死霊の盆踊り』に終わる</strong></p>
<p>私が「大型」を楽しめなかったのは、こうしたナレイティブでない演劇に対する素養がないせいもあったと思います。モダンアートが、素養がない人には落書きにしか見えないように。ただ、筋を追って内容を理解しようとする普通の観客が、内容に入って行ける取っ掛かりを、もう少し用意しても良かったのではないでしょうか？</p>
<p>余り演劇的素養のない私が観た、劇団3.14ch「大型」の感想は「『真夜中のパーティ』に始まって『死霊の盆踊り』に終わる」というものでした。</p>
<p>意欲作ではあると感じました。しかし、その意欲を受けとめられなかったもどかしさもあって、少し長く感想を書いてみたくなったのです。</p>
<p>上演中の作品に対して批判的な意見になってしまったかもしれませんが、ご寛恕下さい。</p>
<p><a href="http://www.314ch.com/" target="_blank"></a></p>
<p>しかし、3.14chの一貫したテーマである「幻覚のような芝居を作りたい」には見事に挑んだ作品ではあると思います。<br />
皆さんも、ご自分の眼で体験してみてはいかがでしょうか？</p>
]]></content:encoded>
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		<title>異色の原爆映画「太陽を盗んだ男」</title>
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		<pubDate>Fri, 05 Aug 2016 23:04:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１、異色の原爆映画 1945年8月6日は広島に原爆が投下された日です。日本映画には今村昌平監督の「黒い雨」を始 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１、異色の原爆映画</strong></p>
<p>1945年8月6日は広島に原爆が投下された日です。日本映画には今村昌平監督の「黒い雨」を始め原爆をテーマとした作品がいくつかありますが、決して多くはありません。一瞬にして10万人を超える命が奪われた、原爆という日本に余りにも深い傷を残したテーマであるにもかかわらず、と言うより「だからこそ」なのでしょうか？</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/8634770220.html" target="_blank"><img src="https://farm9.staticflickr.com/8543/8634770220_db170ea8c9_m.jpg" alt="" /></a><br />原爆ドーム / daipresents</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/7999196780.html" target="_blank"><img src="https://farm9.staticflickr.com/8441/7999196780_221fc10552_m.jpg" alt="" /></a><br />慰霊碑からみた原爆ドーム / n.kondo</span></p>
<p>1979年に異色の原爆映画が公開されました。長谷川和彦監督、沢田研二主演の「太陽を盗んだ男」です。</p>
<p>沢田研二演じる中学校の理科教師は、原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、たったひとりで原爆を開発して、日本政府を脅迫します。しかし、原爆は作ったものの、彼には日本政府を脅迫する「目的」がなく「野球のナイター中継を最後までやれ」とか「ローリング・ストーンズを来日させろ」（どちらも、当時の日本では実現できないことでした）といった「どうでもいい」事を要求するしかない、という奇想天外かつ皮肉なアイディアの作品でした。</p>
<p><strong>２、観る者を圧倒するパワー</strong></p>
<p>原案・脚本は、「ザ・ヤクザ」や「蜘蛛女のキス」で知られるレナード・シュレイダーで、英語でも日本語でも脚本の書ける人でした。<br />
主演の沢田研二は、当時、まさにトップ・アイドル・スターで、初主演作が非常に過激なテーマの作品であることに、周囲の抵抗もあったと思いますが、本人の強い希望で実現しました。<br />
長谷川和彦は、これが監督第２作。初監督作品「青春の殺人者」で鮮烈な登場をし、「太陽を盗んだ男」でも高い評価を得ますが、この作品で燃え尽きたかのように、以後、沈黙をしてしまいます。それも仕方がないのか？と思わせるほどの「密度の濃さ」がこの作品には込められています。</p>
<p>「太陽を盗んだ男」は、その挑戦的なテーマと作品に込められた熱量の大きさ、そしてツッコミどころ満載のキッチュさも含め、凄まじいパワーで今も観る者を圧倒します。<br />
私は、定期的にこの映画を観る衝動にかられ、観終わった後は、しばらくの間は興奮が冷めません。</p>
<p><iframe src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=B0002L4CNI&#038;nou=1&#038;ref=tf_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p><strong>３、信じがたいゲリラ撮影</strong></p>
<p>「太陽を盗んだ男」は、主人公がアパートの一室で原爆を作る過程や、菅原文太演じる刑事との攻防が、非常なリアリティで描かれる一方で、原子力発電所からのプルトニウム強奪や原爆を警察から奪還するといった重要なシーンがコミカルに処理されていて、当時からアンバランスさを指摘されていましたが、それすらも面白さに変えるエネルギーがありました。<br />
そして、この作品には、バスジャック犯と警察による皇居前の銃撃シーンや女装した犯人の国会議事堂への潜入シーンなど、今ならあり得ないシーンのロケ撮影が連続します。</p>
<p>当時から「よく撮影が許可されものだ」と感心していましたが、実は全て無許可のゲリラ撮影で、逮捕されたスタッフも続出したそうです。</p>
<p>ちなみに皇居前でのゲリラ撮影では、監督の長谷川和彦が捕まると撮影が続行出来なくなってしまうので、助監督の相米慎二（！） やアルバイトの大学生（黒沢清！）が矢面に立ちました。もっとも、助監督の相米慎二も逃げてしまったので、警察に行ったのはアルバイトの黒沢清だったそうです。長谷川和彦、相米慎二、黒沢清、という名前の並びは、この作品の日本映画史における重要性を改めて感じさせます。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/4541481715.html" target="_blank"><img src="https://farm5.staticflickr.com/4050/4541481715_e8825fab36_m.jpg" alt="" /></a><br />皇居 / Kentaro Ohno</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/531004191.html" target="_blank"><img src="https://farm2.staticflickr.com/1059/531004191_298c65e820_m.jpg" alt="" /></a><br />Parliament of Japan / kazuletokyoite</span></p>
<p><strong>４、映画史上最も美しいカーチェイス</strong></p>
<p>「太陽を盗んだ男」の中で一番驚いたのは、他に車の全く走っていない、無人の首都高速で繰り広げられる犯人と警察のカーチェイス・シーンです。「一体どうやって撮ったのか？」と不思議でしたが、スタッフの車数台で首都高速の入口を塞ぎ「意図的に渋滞を起こして」撮ったゲリラ撮影だったそうです。今だったら、大事件になっているのではないかでしょうか？</p>
<p>しかし「太陽を盗んだ男」のカーチェイスは、勇ましくコミカルなのに、観ていると何故か寂しさに胸をしめつけられるような、印象的なシーンになっています。美しく撮られたカーチェイスのバックに、メランコリックで静かな曲を流した音楽演出が素晴らしく、映画史上で最も美しいカーチェイス・シーンではないかと思います。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/3459267949.html" target="_blank"><img src="https://farm4.staticflickr.com/3589/3459267949_5be129dfdd_m.jpg" alt="" /></a><br />on the highway 11 / midorisyu</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/8078205156.html" target="_blank"><img src="https://farm9.staticflickr.com/8192/8078205156_5f8bef1f14_m.jpg" alt="" /></a><br />i-phoneで銀座01 / midorisyu</span></p>
<p><strong>５、主人公はテロリスト</strong></p>
<p>「太陽を盗んだ男」が、今のアクション映画と最も違うのは、沢田研二の演じる「主人公がテロリスト」であることです。2016年にこの作品が映画化されるなら、主人公は菅原文太演じる刑事なったことでしょう。でも、1970年代当時は、これは普通でした。アクション映画の主人公は、多くの場合「体制に刃向かう者」か「体制から外れようとする者」で、ラストは主人公の破滅で終わったものです。</p>
<p>この作品も「目的なきテロリスト」である主人公は、破滅して行くのですが、ラストに「いや、戦い続けることこそが目的であり意味なのだ」という、さらに挑戦的なメッセージを観客に突きつけることで、70年代の反体制的エンタテインメントから一歩前に踏み出しています。</p>
<p>「太陽を盗んだ男」は、エンタテインメントとしても無類に面白い作品ですが、唯一の被爆国である日本の一個人が原爆を作り日本政府と対決する、というストーリーの持つアイロニーは、今こそリアリティを持って、私たちの胸に迫って来るのではないでしょうか？<br />
一見、原爆を軽いエンタテインメントとして扱っているこの作品の監督である長谷川和彦は、「胎内被爆児」であり、「特別被爆者手帳」の保有者でもあるのです。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/5052720484.html" target="_blank"><img src="https://farm5.staticflickr.com/4146/5052720484_a044622e44_m.jpg" alt="" /></a><br />Vogtle nuclear power plant, Georgia, USA / BlatantWorld.com</span>　<span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/5258257970.html" target="_blank"><img src="https://farm6.staticflickr.com/5090/5258257970_e39894f428_m.jpg" alt="" /></a><br />Steam from Philippsburg nuclear power plant / dmytrok</span></p>
<p><strong>６、インディペンデント・プロデューサー</strong></p>
<p>「太陽を盗んだ男」は当時の日本映画の水準を超えた圧倒的な作品だと思いましたが、残念ながら興行的には成功しませんでした。私は初公開時に渋谷の劇場に駆けつけましたが、映画館はガラガラでした。しかし映画の中で、劇場のすぐ近くの東急本店が重要な舞台になるので、その「現実感」にドキドキしたものです。</p>
<p>「太陽を盗んだ男」を制作した山本又一朗は、30代になったばかりの、ほとんどキャリアのない、インディペンデントのプロデューサーでした。興行的に失敗したとはいえ、プロデュース第２作で、このような挑戦的な大作を作り上げたのは、やはり驚嘆すべき成果です。インディペンデントだからこそ、成し得たことなのかもしれません。</p>
<p>当時、斜陽になりかけた日本映画界に、角川春樹、山本又一朗、西崎義展といった若いプロデューサーが映画界の外から現れて、日本映画に新風を呼び込んでいました。</p>
<p>映画興行の専門家は、「太陽を盗んだ男」のような娯楽大作映画を興業的に成功させるには、その映画のクオリティだけでは不十分で、角川映画なみの型破りな宣伝力も必要だったと指摘しました。</p>
<p>角川書店の若きオーナーであった角川春樹が映画に進出した角川映画は、その圧倒的な宣伝も含めて、1970年代後半から1980年代にかけての日本映画をリードします。</p>
<p>次回は、そのお話をしたいと思います。</p>
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		<title>マイケル・チミノ、天国の門から地獄に堕ちた男　②　「描写とドラマのアンバランス」の天才</title>
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		<pubDate>Sat, 09 Jul 2016 12:40:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[woodyallen]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[１、独自のスタイルが生んだ栄光と挫折 マイケル・チミノは「ディア・ハンター」（1978）で、正にアメリカン・ド [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１、独自のスタイルが生んだ栄光と挫折</strong></p>
<p>マイケル・チミノは「ディア・ハンター」（1978）で、正にアメリカン・ドリームそのものというべき輝かしい成功を収めましたが、次作の「天国の門」（1980）では酷評の嵐に見舞われ、経済的にも巨大な損失を生みだし、映画監督としてのキャリアが完全に終わりかけました。この極端な栄光と挫折は、単なる運不運ではなく、彼の映画作家としての「スタイルそのもの」が生んだものではないかと思うのです。</p>
<p>それは、ストーリーの流れを壊すほどの描写への強いこだわりです。これこそ、マイケル・チミノの突出した才能であると同時に、致命的な弱点だったのです。</p>
<p><iframe src="http://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=B00I8GQQYC&#038;nou=1&#038;ref=tf_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p><strong>２、「天国の門」の問題点</strong></p>
<p>「天国の門」は３時間半という上映時間が余りに長いということで、日本では２時間の短縮版が公開されました。日本で公開される頃には、米国での酷評や興行的失敗はすでに伝えられていたのですが、実際に観てみると、短縮版なのでストーリーは分かり難いにもかかわらず、開拓時代末期の西部を捉えた映像の厚みは素晴らしい出来映えでした。<br />
特にクライマックスの、牧場主の傭兵軍に襲われた東欧の移民たちが戦う場面、敵も味方も分からないほど入り乱れた戦闘シーンの迫力には圧倒されました。<br />
しかし、ストーリーと長い描写のバランスが、なんだかギクシャクしている感じも受けたのです。</p>
<p>これは、短縮版であるせいに違いないと思い、後に完全版が公開された時に、劇場に駆けつけたのですが、短縮版の問題点は解消されていませんでした。</p>
<p>「天国の門」完全版は、各シーンが極端に長くなり、しかも、その長くなった分はドラマではなく描写に費やされていたので、短縮版よりも却って物語の流れに乗り難くなる結果になっていました。余りにも長いので、観ているうちに、何だかドラマがどうでもよくなってしまう感じなのです。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/2756251595.html" target="_blank"><img src="https://farm4.staticflickr.com/3258/2756251595_5ba554b4a0_m.jpg" alt="" /></a><br />Wyoming / Boss Tweed</span> <span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/14663907435.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2907/14663907435_d1b6021584_m.jpg" alt="" /></a><br />Cabin on Jenny Lake, Grand Tetons / inkknife_2000 (6.5 million views +)</span></p>
<p><strong>３、描写が誘う「映画の中の日常」</strong></p>
<p>マイケル・チミノ監督は「描写」に驚異的な粘りを見せる人で、「天国の門」でも撮っているうちにどんどん長くなり、完成当初のオリジナル・バージョンは５時間以上あったそうです。チミノの描写には、観ていると自分が「映画の中の日常」に入り込んで行くような独特の魅力があります。一方で、ストーリー・テイルの完成度には余り関心を持たない人で、その長所も短所も日本の相米慎二を連想させます。</p>
<p>映画を撮っていると、いつも、シナリオよりどんどん長くなってしまうマイケル・チミノの本質は大河ドラマ作家ではないかという意見がありますが、それはどうでしょう？<br />
チミノの作品が長くなるのは、ドラマを語るためではなく描写のためです。それは、登場人物たちの世界を押し広げ豊かにし、リアリティは増しますが、ドラマのダイナミズムは停滞してしまいかねません。</p>
<p>実際、「天国の門」完全版では、各シークエンスの全てが均等に長く、描写の粘りがストーリーを盛り上げるのではなく、逆にストーリーの力を削ぐ結果になっていたと思います。</p>
<p><iframe src="http://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=B00W1ENGKY&#038;nou=1&#038;ref=tf_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p><strong>４、描写とドラマのアンバランス</strong></p>
<p>その点、マイケル・チミノの代表作「ディア・ハンター」は、描写とドラマが非常に見事なバランス、というよりアンバランスを見せていました。</p>
<p>「ディア・ハンター」の前半では、ロシア系移民社会での結婚式やベトナム従軍を前にした青年たちによる鹿狩りの光景が、バランスを失して延々と、しかし瑞々しく魅力的に描かれます。そこにあるのは貧しい青年たちの日常だけで、１時間以上「ドラマ」は全くありません。<br />
そして、映画は一気に緊張感に満ちたベトナムへ飛び、ベトナム軍に捕らえられた主人公たちが決死の脱出を試みる、ダイナミックでエキセントリックな展開が畳みかけられます。</p>
<p>この、従来の映画の常識を破る極度にアンバランスな「緩急のリズム」こそ「マイケル・チミノの世界」であり、世界の映画ファンが「新しい才能」の登場を実感した部分だったのです。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/4538953021.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2774/4538953021_2c4e4d7642_m.jpg" alt="" /></a><br />Deer / Martin Svedén</span> <span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/3998449040.html" target="_blank"><img src="https://farm4.staticflickr.com/3497/3998449040_cff954c898_m.jpg" alt="" /></a><br />Vietnam / Padmanaba01</span></p>
<p><strong>５、奇跡の成功「ディア・ハンター」</strong></p>
<p>後半のベトナムで北ベトナムの捕虜となった主人公たちがロシアンルーレットを強制させられる展開は、当時からリアリティの点で批判が加えられていました。しかし、前半の主人公たちの青春の日常があまりにリアルだったために、観客は後半の異常な展開にも納得させられてしまったのです。</p>
<p>「ディア・ハンター」は、ベトナム戦争やアジアに向ける視線がリベラルではないという批判もありましたが、ロシア系移民の主人公たちの静かな日常とベトナム戦争のパッションが生む不思議なアンバランスは、今観ても圧倒的で、思わず引き込まれてしまいます。</p>
<p>しかし、このマイケル・チミノのスタイルが、ストーリーの迫力や魅力を高めていたのは、結局「ディア・ハンター」だけで、他の作品では、やはり「ストーリー・テイルにとっては」マイナスになっていたと思います。</p>
<p>その意味では、やはり「ディア・ハンター」はマイケル・チミノのスタイルが見事に内容を高めた奇跡のような成功作だったのです。</p>
<p><iframe src="http://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=woody94-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=B00I8GR6QO&#038;nou=1&#038;ref=tf_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
<strong>６、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」での復活</strong></p>
<p>「天国の門」でハリウッドから完全に孤立してしまったマイケル・チミノに手を差し伸べたのは、イタリア人の大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスでした。ラウレンティスは、チャイニーズ・マフィアと刑事の対決を描いた大作「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」（1985）の監督にマイケル・チミノを起用します。ラウレンティスには、芸術派や社会派の監督にエンタテインメントの大作を監督させるクセがあり、その発想からの起用だったのでしょうが、見事に成功したのです。</p>
<p>もっとも、これは想像ですが、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」では、監督のマイケル・チミノに最終編集権は無かったのではないかと思います。<br />
「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」はマイケル・チミノにしては「語り口が普通」の作品で、描写へのこだわりがストーリーのバランスを壊すことがなく、いわゆる刑事アクションらしく、キビキビと展開します。</p>
<p>ラウレンティスは、他の監督にも最終編集権を渡さないことが多かったので、「問題児」マイケル・チミノに復活のチャンスを与えるに際して、保険をかけたのではないでしょうか？<br />
少なくとも、この作品ではマイケル・チミノらしいアンバランスなスタイルは稀薄で、しかし、彼の「描写力」はしっかりと作品の力になっています。</p>
<p><span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/4458101409.html" target="_blank"><img src="https://farm3.staticflickr.com/2764/4458101409_49a39fd2da_m.jpg" alt="" /></a><br />Chinatown / janoma.cl</span> <span style="font-size:10px;"><a href="http://www.igosso.net/flk/458572187.html" target="_blank"><img src="https://farm1.staticflickr.com/192/458572187_44b08c0964_m.jpg" alt="" /></a><br />Chinatown / zoonabar</span></p>
<p><strong>７、作家であることによる不幸</strong></p>
<p>その後のマイケル・チミノは、再び「描写とドラマのアンバランス」なスタイルに戻って行くのですが、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」の成功で最終編集権を手にしたからではないでしょうか。しかし、それらが「ディア・ハンター」のような目覚ましい効果を生むことはなく、次第にハリウッドの一線から消えて行くことになります。</p>
<p>「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」という、彼が自らのスタイルを「殺した」作品が、マイケル・チミノの数少ない成功作となったのは、皮肉な感じがします。</p>
<p>それでも、マイケル・チミノの魅力の本質が、ドラマを語る上ではバランスを失した「豊かな描写」にあるのは事実です。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」と「天国の門」のどちらがより「チミノらしい作品」なのかと言えば、やはり「天国の門」でしょう。</p>
<p>そこに、私はマイケル・チミノという、描写とドラマのアンバランスという、彼にしかないスタイルを持ってしまった「作家であることによる不幸」を感じてしまうのです。</p>
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