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キングコングは美女への愛に背を向け、怪獣との戦いを選んだ

1.キングコング 髑髏島の巨神

怪獣映画製作に情熱を燃やすレジェンダリー・ピクチャーズがキングコングを再生させた『キングコング 髑髏島の巨神』は、この春のスマッシュヒットとなり、キングコング映画のファンにも評判が良かったようです。ベトナム戦争終結1973年の南太平洋を舞台に、ベトナムから帰還予定だった米軍特殊部隊がキングコングの生息する髑髏島を探検するはめになる「『地獄の黙示録』meets『キングコング』」とでも呼ぶべき作品です。


Mountain gorillas in Museum of Natural History / WorldIslandInfo.com
 
Mountain Gorilla, Bwindi, Uganda / Rod Waddington

南海の孤島に、恐竜ではなく妖しい怪獣がいっぱい出て来て、「キングコングというより昔の東宝の怪獣映画みたいだな」と思いましたが、エンドロールの後に熱烈な東宝オマージュを繰り広げたので大笑いしました。(そうですか、やりますか『ゴジラ対キングギドラ』を…。)

『キングコング 髑髏島の巨神』では、キングコングはニューヨークには連れていかれず、話は髑髏島だけで完結します。つまりオリジナルから「美女と野獣」の要素を抜いて「キングコング対怪獣」の部分だけを残したのですが、そのためB級映画的なテイストになっています。しかし、これはオリジナルの欠点を回避する非常に巧妙な脚色なのです。

1933年に公開されたオリジナルの『キングコング』はすべての怪獣映画の原点と言ってもよいマスターピースですが、実は「ファンタジーにおけるリアリティ」という視点から見ると大きな問題を孕んだ作品でもあるのです。

2.オリジナル版『キングコング』の矛盾

1933年のオリジナル『キングコング』の物語は、前半は「キングコングと恐竜が戦う髑髏島での、探検隊がキングコングを捕獲するまでの冒険」そして後半は、「ニューヨークで見世物にされるキングコングとヒロインの美女と野獣の物語」という2段階で語られますが、両者の間には大きな矛盾があると言えます。
それは、「主人公たちは見世物にするために、なぜ恐竜ではなくコングを連れ帰ったのか?」という問題なのです。

私は子供の時にTVで放映されたオリジナルの『キングコング』を観て大興奮しましたが、同時に大きな疑問も浮かびました。それは「どう考えても、大きな猿(コング)より太古の恐竜の方が大発見なのに、なぜ主人公達は恐竜に目もくれずキングコングばかり捕獲しようとするのか?」でした。猿と恐竜だったら、恐竜を選ぶのが普通ではないでしょうか?

しかも、大量の恐竜を出すことは、キングコングの「怪物としての特異性」を希薄化してしまうマイナス効果もあるのです。「キングコング」を映画の柱となる「ワンダー」であると考える立場からも、多数の恐竜を出す事は、キングコング自体の「ワンダー」を薄める効果をもたらす、と考えるべきでしょう。

恐らく髑髏島に恐竜が跋扈しているという設定は元の脚本にはなく、大の恐竜ファンだった特撮のウィリス・オブライエンの趣味が暴走した結果なのではないでしょうか?考えてみれば、髑髏島でのキングコング捕獲劇は恐竜が出なくても成立するのです。

しかし、その暴走が生み出した「怪獣大決戦」の興奮が初代『キングコング』を怪獣映画の原点と呼ぶべき名作にしたのも確かであり、そこがこの問題の難しいところです。

3.ラウレンティス版『キングコング』は「美女と野獣」

『キングコング』は1976年に、イタリア出身の大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティス制作、ジョン・ギラーミン監督により、時代を現代に移し替えてリメイクされましたが、映画ファンの評価は最悪でした。

その一番の理由は「恐竜が出て来ない」だったのですが、私は「それは仕方ないよなぁ」と思っていたのです。1976年のリアルタイムに恐竜の群れが生息する島があるなら、キングコングよりそっちの方が大騒ぎになる筈ではありませんか。

ラウレンティス版『キングコング』は、オリジナルから恐竜を捨て「美女と野獣」だけを抜き出した作品でした。実はヒロインのスター誕生物語でもあって、人物描写はけっこう大人で、ヒロインとコングの関係も何だかエロティックでした。それが「心は恐竜少年」な怪獣映画ファンには気に入らなかったのでしょう。

ラウレンティス版『キングコング』にはモンスター映画のカタルシスが無いのが大きな欠点ですが、不当に低く評価されているような気もします。

4.ピーター・ジャクソン版「キングコング」の原点回帰は苦肉の策?

さらに『キングコング』は、2005年に子供の頃からキングコングの大ファンだった『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソン監督によってリメイクされます。この『キングコング』は、オリジナルの物語をそのままに現代の技術でアップグレードした、正に決定版と言える作品でしたが、時代を現代ではなく、オリジナルが作られた1930年代に設定していました。

この時代設定は一般的には、ピーター・ジャクソンの原典に対するリスペクトであると考えられているようですが、実は舞台を昔にすることで、恐竜が登場する無理を目立たせないためではないでしょうか?

怪獣映画の時代設定を過去にすることは、本当は不利なのです。作品世界と今の現実が切断されてしまうため、観客が「私たちの世界に怪獣が出て来た!」という臨場感を味わえなくなってしまうからです。
ピーター・ジャクソン版『キングコング』は莫大な制作費をかけた程には大ヒットしなかったのですが、それは、この時代設定のせいが大きかったと思います。
しかし、時代を現代にして、しかも恐竜を登場させたらリアリティは無くなってしまいます。どうしても「怪獣大決戦」と「美女と野獣」の両方をやりたいピーター・ジャクソンの、苦肉の策だったのでしょう。

5.リアリティとファンタジーを調和した髑髏島の巨神

そう考えると、新作『キングコング 髑髏島の巨神』の時代設定、1973年は秀逸です。私たちが未だ現代と地続きだと考えられる程度の「時代劇ではない過去」であり、しかし、過去ではあるので、不思議なことが起こっても受け入れることが出来ます。
つまり、リアリティとファンタジーを巧く調和させられる時代設定なのです。

そして、キングコングをニューヨークに連れ帰ることをせず「誰も知らない孤島の事件」に留めたため「なぜ、世間はコングばかりで怪獣を気にしないの?」という不自然さも回避できました。

ただし、「私たちの日常に怪物が現れる恐怖」や「美女と野獣の悲劇」は描けなかったのですが…。「怪獣大決戦」に特化したせいでB級映画風になってしまいましたが、「ドラマを棄て、怪獣を取った」と言えるのかもしれません。

現代を舞台に「怪獣大決戦」と「美女と野獣」を両立させることは叶わぬ夢なのでしょうか?

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「抵抗」という文化のない国の美しい詩「この世界の片隅に」

1、「この世界の片隅に」は時代の流れの歯止めとなるのか?

こうの史代原作、片渕須直監督の長編アニメーション「この世界の片隅に」は、大きな宣伝もなく公開されましたが、次第に評判を呼び、日本で最も権威が高いと言ってよい今年度「キネマ旬報ベストテン」の第1位に選ばれるまでになりました。

驚くほど丁寧に作られた誠実な作品で、厳しい制作条件の中で、このような精緻なアニメーションを作り上げたスタッフには敬意を表しますが、あまり私の琴線には触れなかったのも事実です。

時代や世界に抵抗せず日々を生きようとする庶民の姿を浮かび上がらせる作品があっても良いとは思うのですが、今の日本で「あの時代」を、そうしたアプローチで描くことを手放しで称賛したくない気がするのです。

それは、今、日本が再び戦争への道を歩もうとしているのではないかと危惧しているからです。そして「この世界の片隅に」が、そうした時代の流れに歯止めをかけようとする作品とは、私には思えなかったからなのです。

2、まるで「天災のように」

第二次世界大戦後の日本の大衆芸能は一貫して、戦争で日本人が受けた被害を「天災のように捉える」(加害者としての側面は意識から捨象する)スタンスで描いて来ました。
そして、その範囲内での表現は悲劇であるほど大衆から称賛されますが、それを逸脱して加害者の顔を覗かせたとたん、支持されなくなるのです。この流れは、近年むしろ強くなりつつあるという印象です。

実際、日本人の多くは、広島と長崎の原爆投下や東京大空襲を「天災のように」捉えて来た面があります。
そして今、福島第一原発事故も「天災のように」捉えたがっているのではないでしょうか?

しかし、どちらも天災ではないのです。(原発事故のきっかけは地震ですが、そのリスクは以前から指摘されていました)。ですから責任者は明確に存在するのです。

その明らかに存在する「時代に対する責任」から目を背けるために、私たちはこれらを「天災のように」思い込もうとするのでしょう。

原爆ドーム Atomic Bomb Dome / yto
 
呉の港 / *Yaco*

3、「抵抗」という文化のない国

「この世界の片隅に」を観ながら思い出していたのは、原発事故に遭った人々の証言を集めた「チェルノブイリの祈り」などの著作で知られる、ベラルーシのノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチが、福島県を訪れて原発事故の被災地を視察した後に漏らした感想でした。

「国というものは、人の命に全責任を負うことはしないのです。また、福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか」(東京新聞2016年11月29日)

「この世界の片隅に」の善良な庶民の姿が、私には、この「抵抗」という文化のない国の象徴のように思えたのです。

Chernobyl / Fi Dot
 
Chernobyl / Fi Dot

4、「いかにも善人風」な笑顔

「この世界の片隅に」で気になったのは、目を細めた「いかにも善人風」な笑顔が多用されていることで、原作通りなのかもしれませんが、マンガとアニメーションの表現は違う筈です。
例えば、目を細めて上を向いて料理は出来ません。手元を見るものでしょう。細かいと言われるかもしれませんが、違和感があります。

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これは、単に絵の描き方の問題ではなくて「人間や世界をどう捉えて、どう表現するのか?」という思想の問題ではないかと思います。ですから「真剣に料理を楽しんでいる人間は一心不乱に手元を見つめているのであって、善人風の笑顔で目を細めたりしない」というのは大切なポイントだと考えるのです。

この作品は、驚異的な取材を基に作られた実証的なアニメーションの筈なのに、所々こうした類型的な表現が散見されるのです。それは、作者の時代に対する視線の反映なのではないでしょうか。

 

5、批評的視点の緩やかな拒絶

「この世界の片隅に」の登場人物が時代に批判的でないのは当然ですし、むしろ正しいと思うのです。当時、戦争に批判的な庶民なんて、殆どいなかったのですから。ただ、作り手は今を生きる現代の人間なのですから、作り手の「あの時代」に対する視線は、否定であれ肯定であれ、作品から浮かび上がって来るべきだと考えます。

この作品を評価する人は、作者の視線は作品から充分に感じられると思うのでしょう。しかし私は、作者(原作者・監督共に)は、時代に対する意見を表明することを周到に避けていると捉えました。

だからこそ、この作品はあの時代を否定する人にも、肯定する人にも、等しく受け入れられているのではないでしょうか?

「この世界の片隅に」から感じるのは、作者たちの「あの時代を追体験したい」という強烈な欲求です。しかし「客観性」を盾に、時代に対する批評的視点を持ち込むことを緩やかに拒絶しているとも感じられます。

あの時代の善良な庶民の人生を美しく描く「この世界の片隅に」は、本質から目を塞いで日々の日常だけを近視眼的に肯定するという視点の持ち方において、私には「がんばれ福島!食べて応援」と同じものに見えるのです。

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「デビュー作が2つある作家」スティーヴン・スピルバーグ

1、「2つのデビュー作」

「その作家の本質は処女作に現れる」と言われますが、その意味では、スティーヴン・スピルバーグは「デビュー作が2つある」作家です。

スピルバーグの監督第1作というと、一般的には「激突!」だと思われています。アメリカの荒野で主人公がひたすら巨大なトラックに追い掛けられる「激突!」は、シンプルな設定と鮮烈なイメージで、世界中でヒットし、映画作家スピルバーグの出発点となりました。しかし、実は「激突!」は、余りの出来の良さに海外では劇場公開されましたが、スピルバーグがいくつも撮っていたTVムービーの1本だったのです。

「激突!」で高い評価を得たスピルバーグには初の劇場映画のチャンスが訪れます。そこで彼は、以前から気になっていた実在の事件の新聞記事の切り抜きを取りだし、それを監督第1作に選びました。それが「The Sugarland Express」です。

この作品は、日本では「激突!」のヒットにあやかろうと、勝手に「続・激突!カージャック」というタイトルで公開されてしまったので「激突」の続編と思ってしまっている人も多いのですが、全く違う内容なのです。そして、これこそスピルバーグ自身の企画による、真の「映画第1作」なのです。


Steven Spielberg / G155

Steven Spielberg / WEBN-TV

2、続・激突!カージャック

「続・激突!カージャック(The Sugarland Express)」は、前科のせいで親権を奪われてしまった若い夫婦が子供を取り戻そうと暴走し、成り行きでパトカーをハイジャックしてしまう顛末を描いた、コミカルでほろ苦い映画です。タイトルのSugarlandとは、里親に引き取られた子供がいる土地の名前なのですが、同時に自己中心的な「正義」にかられて社会から外れてしまう若い夫婦の無邪気な幼児性を象徴してもいます。

スティーヴン・スピルバーグは、「ジョーズ」を出発点とする80年代的なブロックバスター・エンタテインメントで「ニューシネマの時代」を終わらせた作家と捉えられていますが、彼の映画監督第1作は、間違いなくニューシネマの系譜に連なる作品だったのです。

むしろ、スピルバーグの本質は、自ら企画した「続・激突!カージャック(The Sugarland Express)」にあるのではないでしょうか?これは作家としてのスピルバーグを論じる時に、重要なポイントではないかと思います。

3、「幼児的なアウトロー」にこだわるニューシネマ作家

「続・激突! カージャック」の「幼児的な人間が夢を追って無計画に暴走し、人生を破壊してしまう」というテーマは「未知との遭遇」にも引き継がれています。
「未知との遭遇」の主人公ロイ・ニアリーは、偶然目撃したUFOの真実を追い求めて仕事も家族も捨てて暴走してしまいます。もっとも「未知との遭遇」では、珍しく最後に幻想が現実に打ち勝って終わるのですが。

他にも、レオナルド・ディカプリオが実在の天才詐欺師を演じた「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、当時「なぜ、スピルバーグがこの映画を撮ったのか?」と言われましたが、「続・激突! カージャック」以来の「幼児的なアウトローの暴走による悲喜劇」と考えれば、見事にスピルバーグ的なテーマの映画なのです。

スティーヴン・スピルバーグには「幼児的なアウトローにこだわるニューシネマ作家」の側面があるのです。

4、雇われ仕事では天才

しかし、雇われ仕事である「激突!」は彼の輝かしき第1作として未だに語られ続けている(スピルバーグの最高傑作であるという人すらいます)のに対して、自らの企画である「続・激突 カージャック」は、ほぼ忘れられてしまっています。

確かに「激突!」は「ジョーズ」「ジュラシック・パーク」「宇宙戦争」などスピルバーグ作品で繰り返される「巨大な何かに追いかけられる恐怖」というモチーフが登場した非常に重要な作品です。

スティーヴン・スピルバーグのエンタテインメント作品には、「巨大な何かに追いかけられる恐怖」というモチーフへの執着が生み出す「子供の見た悪夢の現実化」のような雰囲気があり、単なる娯楽を超えた禍々しさを感じさせる瞬間があります。

しかしその天才性は、雇われ監督として、エンタテインメント作品で職人技を発揮するときにこそ現れるのです。

5、「2つのデビュー作」に対する挑戦

一方、スピルバーグ作品には社会派の人間ドラマも多いのですが、そうした真面目な作品に挑むたびに、常に「褒められたいのか」「アカデミー賞が欲しいのか」といった揶揄にさらされ続けて来ました。しかし、彼には「続・激突!カージャック」から一貫して「社会のメインストリームから外れた人間のドラマ」への指向があったのです。

スティーヴン・スピルバーグは驚くべき多作家で、娯楽作品から社会派の人間ドラマまで、ハイレベルな作品を作り続けて来ました。そのバイタリティの源泉は、彼の出発点である「激突!」と「続・激突!カージャック」という「2つのデビュー作」に対する評価の、奇妙なアンバランスにあるのではないでしょうか?

スティーヴン・スピルバーグは、雇われ仕事である「激突!」で偶然に発揮したエンタテインメント作家としての才能は高く評価しながら、自ら選んだ「続・激突!カージャック」を始めとする人間ドラマ路線は奇妙に軽視し続ける世間の評価に、挑戦し続けているようにも見えるのです。

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「未知との遭遇」の主人公はなぜ電気工なのか?

1、大衆は切り落とされる枝葉なのか

社会現象と言えるほど大ヒットした「シン・ゴジラ」は、「もしゴジラが出現したら、日本政府はどう対応するのか?」をシミュレーションしていますので、ドラマの主役は国を動かす官僚と政治家たちであり、ゴジラに蹂躙される大衆の姿はほとんど描かれていません。

余分な枝葉を切り落としてテーマを集中して語るためには正しい方法だと思うのですが、「私たち大衆は切り落とされる枝葉なのか」という違和感を覚えないでもありません。

「シン・ゴジラ」の後半、ゴジラを退治するために外国からの核攻撃の危機にさらされた東京を、若手官僚たちの奮闘が救う「プロジェクトX」のような展開を眺めながら、私は改めてエンタテインメント作家としての「スティーヴン・スピルバーグの特殊性」に思いを馳せていました。


雑踏 / Norisa1

Underline / nSeika

2、スティーヴン・スピルバーグの特殊性

スティーヴン・スピルバーグはSF映画の主人公をエリートにしたがらないのです。彼のスペクタクル的SF作品の主人公は、多くの場合、私たちと同じ一般人です。人類と宇宙人の平和なファースト・コンタクトを描く「未知との遭遇」の主人公リチャード・ドレイファスは電気工ですし、それとは真逆の、宇宙人による悪夢のような地球侵略を描く「宇宙戦争」の主人公トム・クルーズは港湾労働者です。

彼らは市井の人間として、訳も分からず地球規模の事件に巻き込まれ、翻弄されて行きます。スピルバーグのSF映画は常に庶民のドラマなのです。

しかし、これはSF映画の作り方としてはむしろイレギュラーなのであり、スティーヴン・スピルバーグの特殊性を表しているのです。

3、SFの主人公はエリート

SFは、個としての人間の愛や苦悩ではなく人類や世界の運命のような大きなテーマを扱うので、エリートの科学者や官僚を主人公にすることが多く、特にディザスターSFにはその傾向が強くなります。「地球の危機」の進行状況を観客に知らせるには、危機に立ち向かっている政府に近いエリートを主人公にした方が観客に状況を説明しやすく、ドラマも作りやすいからで、これは作劇上の要請なのです。

ディザスターSFの主人公を庶民にしてしまうと「世界がどんな危機に襲われ、それに人類がどう立ち向かったのか」を描くことを難しくしてしまいます。作品のテーマを効率的に語る武器を放棄することになる訳です。

にもかかわらず、スピルバーグが庶民を主人公にし続けるのは、明らかに意図的なのです。

4、「未知との遭遇」での変更

「未知との遭遇」の脚本は、最初「タクシー・ドライバー」のポール・シュレーダーが書いたのですが、そこでの主人公はUFO問題を調査するために米国で実際に設置された「プロジェクト・ブルーブック」に携わるFBIのエージェントでした。しかし、スティーヴン・スピルバーグは「エリートを主人公にしたくない」と言って、自ら電気工に変更してしまったのです。

これは、人類の異星人とのファースト・コンタクトという大事件を俯瞰して論理的に描くためには、明らかに「作劇上は上手くない」変更です。
そしてスピルバーグの描く主人公の電気工は、自分が何に巻き込まれているのかわからないまま、巨大な波に振り回され、人生を破壊されて行くことになるのです。

そこまでして、スピルバーグにはなぜ主人公を庶民にすることにこだわったのでしょうか?


Star trails / Brian Tomlinson

Portrait / Tyrone Daryl

5、SFポピュリスト

かつて70年代のSFブームの頃、作家の開高健が「SF小説の主人公には個性的なキャラクターが少ない」と批判をしたことがあったのですが、それに対して小松左京は、「人類」や「文明」といった巨視的なテーマを描くSF小説の主人公はいわば「人類の代表」なのでフラットなキャラクターの方が良いのだ、という趣旨の反論をしていました。

この小松左京の反論は説得力があったのですが、確かにSFは、いかにもエリートでしかも余り個性的ではないキャラクターが主人公になることが多いのです。それは巨視的なテーマを効果的に語る方法論だったのでしょう。しかし、SFが本来的に有する啓蒙思想と相まって、いわゆる「エリート主義」に陥りやすい傾向があるのではないでしょうか。

そして、スティーヴン・スピルバーグ作品の背後には明らかに反エリート主義が感じられ、大衆を先導するエリートではなく、巨大な運命に翻弄される庶民の目線からSFを語ろうとする「SFポピュリスト」の趣があります。

実は、主人公を社会のメインストリームから少し外れた人間にするのは、スティーヴン・スピルバーグの監督第1作の映画からのこだわりなのです。

次回はそのお話をしたいと思います。

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「シン・ゴジラ」はSFの相対主義に倒されたのか

1、2016年を代表する日本映画

庵野秀明の脚本・監督による「シン・ゴジラ」は事前の予想を覆す50億円を超える大ヒットになり、年末には国民的番組「紅白歌合戦」の幕間劇にまで登場する、2016年を代表する日本映画となりました。

「エヴァンゲリオンのクリエーター、庵野秀明がゴジラを撮った」という刺激的なニュースに興奮していた私は「シン・ゴジラ」を公開初日に観に行きましたが、映画の公開初日に駆け付けたのは久しぶりのことです。

2、リアルなシミュレーション・ドラマ

「シン・ゴジラ」は「ゴジラのような破滅的な災害に直面した時に、日本はどう立ち向かうのか?」という視点で政府や自衛隊の対応をリアルにシミュレーションした見応えのある作品でした。特に、この手のエンタテインメント映画につきものの安っぽい人情ドラマや色恋沙汰を排したストイックな展開は挑戦的です。
装飾的な(本来なら観客サービスである筈の)ドラマを全て削ぎ落とし「日本対怪獣」だけを真面目に描いたこんな歪な作品が、社会現象になる程ヒットしている事実は、日本映画に多くの示唆を与えている気がします。

映像的にもさすが庵野秀明というべきで、中盤のゴジラが東京を崩壊させるシーンの凄まじさは(アニメ的ではありますが)素晴らしく、その「美しいカタストロフ」に陶然となってしまうほどです。

しかし、私の感想は「絶賛」という訳ではありませんでした。

ここでのゴジラは、明らかに東北大震災とそれに伴って発生した福島第一原発事故のメタファーになっているのですが、リアルに取り組んでいるだけに、日本の現状を考えてしまって素直には楽しめないところがあるのです。


都庁 / shibainu
 
東京タワー / Kentaro Ohno

3、官僚と政治家が日本を救う

この作品では官僚と政治家が日本を救います。明らかに3.11を連想させるゴジラ災害(放射能災害)に襲われ壊滅した東京で、ゴジラに立ち向かう若き官僚たちが「日本は、まだまだ大丈夫だ!」と確認し合う(恐らく)感動的なシーンがあるのですが、居心地の悪さに困惑しました。私が今の日本を「まだまだ大丈夫」とは思えないからでしょう。
日本が3.11の巨大な原発事故に直面したあの時、日本の政治家と官僚はこんなに頼もしく(というより「公平」で)立派だったのでしょうか?

一方で、国会を取り巻く市民のデモが一瞬映るのですが、太鼓を鳴らしながら「ゴジラを殺せ!」と連呼しているようでした。明らかに反原発や反安保のデモを連想させようとしていますが、暴力的で浅薄な描き方には「これが作者の市民デモに対するイメージなのか?」と違和感を覚えました。

4、優秀なエリートに導かれる衆愚

この作品は、「ゴジラ災害に日本というシステムがいかに対応するのか?」についてのシミュレーション映画という側面があるので、主役はシステムを動かす官僚と政治家であり、災害に巻き込まれる「大衆」の描写は意識的に避けています。ドラマの緊迫感を高めるという意味では、その意図は分かるのですが、わずかに散見される大衆の描写からは、「優秀なエリートに導かれる衆愚」といった「大衆蔑視」の匂いが感じられる気がしてしまうのです。

また、放射能に汚染された東京の復興について「除染」といった言葉が連発されるのにも抵抗があります。原発の過酷事故による放射能汚染に対して、除染に実質的な効果がないことは、チェルノブイリ原発事故を経験したロシア(ソ連)が証明してしまっています。残念ながら除染は賽の河原で石を積むような虚しい作業なのです。現実には、福島原発事故にかかわる「除染」は、原発周辺産業の救済のための公共事業になってしまっているのではないでしょうか?
日本の「システム」の描き方にしても、理想的な部分のみを美化している側面があると思うのです。

それは、おそらく意識的なものはなくエンタテインメント作品だからなのですが、「シン・ゴジラ」が図らずもエンタテインメントを超えた領域に踏み込んでしまったからこそ、気になるのでしょう。しかし、それは「太平洋戦争と原爆のメタファー」であった初代ゴジラに再び挑戦する宿命でもあるのです。


CIMG0251.JPG / xtcbz
 
CIMG0118.JPG / xtcbz

5、「シン・ゴジラ」が纏うニュートラルな衣装の限界

「シン・ゴジラ」が象徴する問題は、余りにも「今の日本」に直接的に結びついているため、どうしても政治的な見方をされてしまいますが、後半の展開を見ても、じつは日本のオーソドックスな怪獣映画のフォーマットに則った作品で、「伝統的な怪獣映画を徹底的にリアルに描いたらどうなるのか?」という実験だったことが分かります。従って、政治的な側面についてはニュートラルなスタンスを保とうとしています。

しかし、「表現」が3.11のような問題に触れてしまったときに、完全にニュートラルでいることは無理なのではないでしょうか?そこでニュートラルであり続けることは、たとえ作者が意図しなかったとしても、現状の体制を肯定する立場になって行きます。議論で「私は右でも左でもありませんが」と前置きする人が必ず右寄りの結論に行き着くように。

表現は自由ですから、右寄りであっても左寄りであっても構わないわけですが、(意識的であるか否かにかかわらず)ニュートラルな衣装を纏いながら一方に誘導する表現を、私は好みません。
その意味で、「シン・ゴジラ」は最近のテレビに蔓延している「日本スゴイ」と合唱する情報系バラエティ番組と通じるものを感じます。それが、2016年末のNHK紅白歌合戦登場にまで繋がっているのでしょう。

6、「視点の相対化」はSFの武器なのか

SFの特質の一つは「視点の相対化」だと言われますが、私は、SFというジャンルの衰退は「相対主義の堕落」にあるのではないかと考えています。宇宙や未来といった超現実的な設定を駆使するSFの武器は、従来の常識に盲従しない相対主義にあると言われて来ました。

私たちの常識をまったく違った視点から覆し新たな価値観を提示すべきSFの相対主義は、本来なら自らにも刃を向ける危険な「諸刃の剣」だった筈です。
ところがSFは次第に現実と戦うことを避け、やがて「すべては相対的なんだから」と言いながら、現状を無批判に肯定する姿勢の言い訳へと堕落して行ったように感じられるのです。少なくとも、私がSFから距離を置くようになったのは、そのためです。

そして、リベラルな人からは「右翼的だ」と言われ、保守的な人からは「左翼的だ」と言われる「シン・ゴジラ」の持つ相対性も、そうした堕落した相対主義の延長線上にあるのではないでしょうか。
ラストの「ヤシオリ作戦」に倒れたゴジラの姿は「視点の相対化」という衣装に絡みつかれて凍り付いてしまっている日本SFの姿そのもののように、私には見えたのです。

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「君の名は。」と時間SFの歴史を変えた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」

1、日本アニメ健在を印象づけた「君の名は。」

2016年8月に公開された新海誠監督の長編アニメーション「君の名は。」は、今年の日本映画最大のヒットとなり、海外でも高い人気を獲得して「日本アニメ健在」を印象づけ、宮崎駿の「もののけ姫」の興行成績すら超えながら、いまだにヒットを続けています。

「君の名は。」の序盤は、東京に暮らす少年と飛騨の山奥で暮らす少女に起きた「入れ替わり」をユーモラスに描いて「転校生」的なファンタジーコメディを思わせます。しかし、ドラマはある瞬間を境に、3.11的なカタストロフを連想させる世界へとイメージが一挙に広がります。この展開は衝撃的で、私は大きな感動を受けました。
「君の名は。」のプロットには、誰もが指摘する大きな穴があるのですが、その「穴」こそが、この作品の感動を生むポイントになっているのがユニークです。

2、悲劇はもう一度やり直される

しかし、ドラマの後半は「主人公は悲劇の歴史を改変ができるのか?」という良くあるタイプの活劇になってしまうのが、個人的には少し残念でもありました。
あくまでも好みに基づく偏見ですが、私は「君の名は。」に感動しながらも、中盤の真相が明らかになるくだりをクライマックスとして、後半は全てカットして過去が改変されないまま終わって欲しかった、と思っていました。
私は、近年とても多い「悲劇の過去をもう一度やり直す」タイプのエンタテインメントが、実はあまり好きではないのです。

「君の名は。」は、時空を超えた男女のすれ違いの恋が描かれているので、一種の時間テーマSFであるとも言えます。タイムスリップなどのアイディアを用いた時間SFの歴史は古く、映画でも昔からずっと作られていますが、近年の特徴は「不幸な過去が改変され、ハッピーエンドになる」パターンが多いことです。今では普通の展開ですが、コレは、かつては禁じ手だったのです。

私は「君の名は。」に感銘を受けながら、時間SFに革命を起こしたある作品を思い出していました。


諏訪湖の雲 / kuracom
 
青藏高原 / 南市人

3、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」との出会い

時間SFは「過去に行った主人公が大きな歴史的事件に立ち会い、何とか歴史を変えようと努力するが敗れる」というのが基本パターンで、歴史という運命に抗おうとする人間の悲劇を描くのがテーマの一つでした。
そして、この基本パターンを、完全に打ち砕いたのがスティーヴン・スピルバーグ制作、ロバート・ゼメキス監督の大ヒット作「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だったのです。

私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を、偶然、日劇マリオンの先行オールナイトで観たので、その時はどんな映画か知りませんでした。飲み会の帰りに有楽町の街を歩いていたらマリオンの前に長い行列が出来ていて、酔った勢いで訳も分からずフラフラと列に並んでしまったのですが、それが先行オールナイトの列だったのです。

全く予備知識のないまま観た「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の面白さと観客の盛り上がりは、人生の中でも一二を争う楽しい映画体験でしたが、それまで時間SFを縛っていたルールを軽やかに破ってしまったラストには大きなショックを受け、酔いが完全に覚めてしまいました。

4、時間SFに起きた革命

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、両親の高校時代にタイムトラベルしてしまった主人公が、両親の恋のキューピットになろうと奮闘するコメディです。両親が結ばれなければ主人公は消えてしまう訳ですから大変です。タイムマシンを作った博士は、両親の青春時代で自由に振る舞う主人公に対して、盛んに「過去を変えてはならないんだ」と時間SFのセオリーを唱えるのですが、ラストで「硬いこと言うな」と自らルールを破ってしまいます。
時間SFに革命が起きた瞬間でした。
この作品が革命的なのは、時間SFのセオリーを、無意識にではなく、十分に分かっていながら意識的に破ってしまったことです。そこには大きなカタルシスがありました。

SF小説の翻訳家として有名な浅倉久志は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が時間テーマSFに与えたインパクトは「スター・ウォーズ」が宇宙SFに与えたインパクトに匹敵する、と話していました。

LA Live / Danny Thompson Jr
 
Los Angeles Downtown / Davide D’Amico

5、「何でもあり」となった時間SF

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が「過去を変えてはならない」というタブーを壊してから、時間SFは「過去は、いくらでも都合の良い様に変えられる」という「何でもあり」な世界に突入し、多くの作品が最期はハッピーエンドで終わるようになってしまいました。この傾向は、時間SFが本来持っていた筈の「厳しさ」「悲しさ」を失わせ、感動を削いでいるのではないかと思うのです。

タブーは、それを壊す瞬間にはカタルシスがあるのですが、タブーの破れた状態が何のためらいもなくデフォルトになってしまえば、それは、単なる退廃なのではないでしようか?

タブーを失った時間SFでは、多くの場合、作品の序盤では大切な人物が亡くなっているのですが、主人公の奮闘によって「死ななかったもう一つの歴史」に置き換わります。
アニメーション作家の宮崎駿は「物語作者は作中人物の殺生与奪の権利を持っているからこそ、人の死を安易に扱ってはならない」と語っていました。これは、恐らく宇宙戦艦ヤマト・シリーズに対する批判なのですが、私がかつて熱中していた「ドラゴンボール」を読むのをパタリと止めたのも、ドラゴンボールを使って死者を生き返らせてしまった時でした。


Old Town Scottsdale Picture / Phil Sexton
 
Old Town Leesburg / m01229

6、叶わぬ夢が叶う「夢」

人は人生や歴史のターニングポイントとなった瞬間について「あの時をもう一度やり直せたら」と夢想する時があります。時間SFは、この誰もが抱く夢想に対するチャレンジなのです。かつての、時間SFはこの夢に挑む人間の戦いと(否応なしに訪れる)挫折を描いていました。私たちは、その挫折に涙しながら、一度しかない人生に思いを馳せたのです。

今の時間SFは「夢は叶う」と囁きかけます。しかし、現実には、この夢は決して叶わないのです。
叶わない(と言うより、叶ってはいけない)「夢」の実現を提供してくれるファンタジーに浸りながら、人々は何に思いを馳せているのでしょう?

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角川映画というムーブメントは何だったのか

1、角川映画40周年

今、大ヒットしている「シン・ゴジラ」を観に行った時、冒頭でスクリーンに「角川映画40周年記念映画」という言葉が映し出されました。今年は角川映画が始まって40周年だそうで、7月末から9月2日にかけて、昭和時代の角川映画の回顧上映も行われていました。

昭和時代の角川映画ということは、「角川春樹時代の角川映画」を意味します。角川春樹プロデュースによる角川映画は、初めてメディアミックス戦略を持ち込み、日本映画に新風を吹き込みました。1980年代に青春を過ごした映画ファンにとって、非常に重要なムーブメントだったのです。


photo / 陈从峰
 
京都 / densetsunopanda

2、日本初のメディアミックス戦略

角川書店の御曹司だった角川春樹がメディアミックス戦略に注目したのは、米国のベストセラー小説「ある愛の詩」の翻訳出版を(周囲の反対を押し切って)手掛けて成功したのがきっかけです。「ある愛の詩」は、原作小説の発売と映画の公開がほぼ同時に行われ、小説、映画、音楽の三位一体の大宣伝によって世界的ブームを巻き起こした、本格的なメディアミックス戦略を取り入れた、世界的にも最初の作品だったのです。

角川映画は、巨匠市川崑監督が横溝正史のミステリーをオールスターキャストで映画化した「犬神家の一族」(1976)で始まります。この作品の大ヒットで、当時すでに忘れられつつあった横溝正史のブームが起こり、再びベストセラー作家として復活しました。

本格ミステリーの古典をオールスターキャストで一流監督によって映画化する、という「犬神家の一族」の方法論は、シドニー・ルメット監督「オリエント急行殺人事件」が成功したことに、ヒントを得たものでしょう。角川春樹は、世界の映画の動向に目を向け、それをいち早く日本に取り入れようとしていました。

3、角川ブランドの誕生と「角川商法」

「角川映画」というブランド名が誕生したのは「人間の証明」(1977)からです。
「人間の証明」は角川映画が全く新しいムーブメントであると証明しました。従来の常識を破るメディアミックス戦略を駆使した宣伝は、大ブームを起こし「読んでから観るか?観てから読むか?」というキャッチコピーは流行語となりました。
さらに、エアポート・シリーズなどでハリウッドの中堅スターだったジョージ・ケネディの招聘とニューヨークでの本格的ロケ撮影、そしてジョー山中の主題歌、それら全てが新しかったのです。ただし、作品の評価そのものは、今ひとつでした。

徹底した宣伝攻勢で社会的ブームを巻き起こし作品をヒットさせる方法論は「宣伝ばかりで、作品の中身が伴っていない」と、旧来の日本映画界やマスコミからの反発を招き「角川商法」と揶揄されました。

しかし、角川映画によって、子供たちが学校で、再び映画をトレンドとして話題にするようになりました。当時すでに斜陽だった映画がエンタテインメントのトップに返り咲いたのです。

4、映画製作についてのコペルニクス的転換

高倉健は、「人間の証明」の頃は、他の映画人と同様に「角川商法」に批判的でしたが、次作「野性の証明」(1978)への出演をきっかけに角川映画支持に「転向」しました。理由は、ケータリングなどが充実したリッチな撮影現場にショックを受けたからです。

「これが成立するなら、今までの日本映画は何をやっていたのかと思う」。角川映画は、予算の使い方が従来の日本映画とは違ったのです。

それまでの日本映画では、撮影現場や宣伝に使うお金はなるべく節約しました。そんなお金があるなら、その分を映画のクオリティを上げるために費やすことこそ正しい、と考えられて来たのです。しかし、映画の素人だった角川春樹は、「撮影現場の環境から宣伝までを含めて『映画』だ」、という発想でした。これは、日本の映画人にとってコペルニクス的転換だったのです。

5、角川映画の功績

角川映画の基本戦略は、角川書店で出版する小説を映画化して相乗効果を狙うものでしたが、音楽にも力を入れていました。「人間の証明」のテーマ曲を大ヒットさせたジョー山中を始めとして、ロック・ポップス系の実力派ミュージシャンを起用してヒット曲を連発しました。斜陽になっていた映画界からヒット曲が生まれるのは、久しぶりだったのです。

角川映画が起用するミュージシャン、そして音楽の使い方は、当時の若者に、それまでの日本映画とは明らかに違うセンスを感じさせました。
角川映画は、若者にとっての文化的トレンドになるには「音楽」がいかに大切かを再認識させてくれました。

1970年代後半は、年に1作か2作のペースで大作を発表していた角川映画ですが、1980年代に入ると精力的にプログラムピクチュアを量産するようになります。

当時、斜陽だった大手の映画会社は、新人監督の採用を行っていず、映画監督を目指す若手がデビューする道はロマンポルノ等しかありませんでした。角川春樹はそうしたメインストリームから外れた場所で頭角を現した、相米慎二、根岸吉太郎、崔洋一、森田芳光といった若手監督たちを、エンタテインメントの大作に積極的に起用して行きます。これは、角川映画の残した非常に大きな功績でした。

6、戦略の存在

角川春樹がプロデューサーとして成功した要因は、単に時流に乗るだけではなく、明快な戦略があったことです。例えば、1980年代前半は「スター・ウォーズ」の大ヒットで、宇宙SFやファンタジー映画ブームが巻き起こり、世界中で多くのSF・ファンタジー映画が作られていました。日本でも、東宝の「惑星大戦争」や東映の「宇宙からのメッセージ」のような「スター・ウォーズ」のエピゴーネンが制作されています。しかし、SFXや撮影規模ではどうしてもアメリカの本家に敵わず、安っぽい「類似品」になってしまいます。

その時、角川春樹はSF映画ブームに正面からぶつかるのではなく「ファンタジー風の伝奇時代劇」という切り口で、山田風太郎の「魔界転生」(1981)を沢田研二主演、深作欣二監督で映画化し成功させました。これは、非常にクレバーだったと思います。

また、角川映画は当時日本を席巻していたアニメブームにも参戦しますが、少し大人向けでハイブロウなアニメを提供しようという明確な戦略のもと、「幻魔大戦」(1983)や「カムイの剣」(1985)などの異色作を世に送り出しました。

 

7、自ら映画監督に

角川春樹は、資金調達と調整役に徹する日本型プロデューサーというより、映画制作に積極的に関与して行くハリウッド型プロデューサーでしたが、1982年の「汚れた英雄」で遂に映画監督に乗り出し、次第に自らも積極的に映画を監督するようになって行きます。

角川春樹には、1982年の「汚れた英雄」に始まり2009年の「笑う警官」まで7作の監督作品がありますが、映画作家としての側面がキチンと批評されていない感じがします。ご本人の激しいキャラクターとは裏腹に、アップよりロングの画面が、動き回るキャメラより静止画が好きな人で、画面の構築力はあるがドラマ演出は苦手な人、という印象があります。

特に「キャバレー」(1986)と「天と地と」(1990)は角川映画にとって勝負作と言って良い作品であり、それを角川春樹自身が監督したことがプラスだったのかは、難しいところです。

 

8、角川春樹時代の終焉

1990年の大作「天と地と」は興行収入92億円を上げましたが、同時に、以前から批判を受けていた、大量の前売り券を関連企業に購入させて興行収入を維持する「前売り券商法」の破綻が顕在化した作品でもありました。

この頃から、強権的な角川春樹と反対派が対立する角川書店のお家騒動が起こります。そして1993年、角川春樹が薬物所持により逮捕されることによって、「角川春樹による角川映画」の時代は終焉を迎えるのです。

角川春樹時代の角川映画には当時から毀誉褒貶がありましたが、斜陽を迎え衰退しつつあった日本映画に新風を吹き込み活性化したことは確かであり、1980年代の日本映画を角川映画というムーブメントを抜きに語ることは出来ません。

その後の日本のエンタテインメント全体に与えた影響も、非常に大きなものがあったと思うのです。

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演劇ユニット3.14chの新作「大型」鑑賞記

1、SF的なアイディアを通じて日常の違和感を描き出す

演劇ユニット3.14chの新作「大型」を観ました。3.14chは2010年に結成された演劇ユニットで、SF的なアイディアを通じて日常の違和感を描き出す作風です。「大型」は第九回公演ですが、私は過去作を観て感心していたので、今回も期待していました。しかし、今回は劇中の緊張感が持続せず、不覚にも何度か睡魔に襲われてしまいました。体調のせいではなかったと思います。

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2、2作品分の内容を一本に詰め込んでいる密度の濃さ

私が今までに観た劇団3.14chの「小型」と「宇宙船(再演)」です。
「小型」は、ある日急に小さくなってしまった男の物語で、カフカの「変身」やリチャード・マシスンの「縮みゆく人間」的な設定にも拘わらず、極めて日常的な「男女のズレ」を描く…と思いきや、後半はファンタジー的な世界に突入します。

「宇宙船」は、ロバート・ハインラインの「宇宙の孤児」やアーサー・C・クラークの「遥かなる地球の歌」で知られる、SFの代表的アイディアの一つである「世代宇宙船」に挑んだ作品ですが、このテーマは必然的に「世界」そのものを扱うことになります。

 

どちらの作品も情報量が多く、本来は2作品くらいの内容を一本に詰め込んでいる密度の濃さが魅力だったのですが、今回の「大型」は、むしろ情報量をそぎ落とし、殆どセリフの無い動きだけの世界を目指しているように見えました。
しかし、私が観た限りでは、残念ながら、それが成功しているとは思えなかったのです。

3、新作「大型」

劇団3.14chの新作「大型」は、夜のプールサイドで開かれている大麻パーティに始まり、レズビアンであることにより心に傷を負った主人公の女性が、深夜のプールで経験する精神的な旅を描いているのだと“思います”。

冒頭の大麻パーティのシーンからして、セリフで「説明」をするのではなく、間やタイミングで緊張感を出そうとしているので、物語が殆ど進行しないのですが、幻想シーンになると全くセリフがありません。
古代インドの衣装を身にまとったキャラクターによって、ボクシングのラウンドのように、何度もエロティシズムを感じさせるバトルが繰り返され、主人公はそれを目撃します。チベット仏教の「死者の書」がモチーフになっているらしいのですが、説明がないので、多くの観客は、わけが分からず置いて行かれてしまうのです。

4、観客には見えないもの

もっとも、劇中のテンションが持続していないのは、深夜のプールで繰り広げられる幻想のバトル・シーンにセリフがない事が原因ではないと思います。延々と同じようなアクションが繰り返され(作者からすると、それぞれ違う意味が込められている筈ですが、観客からはそう見えてしまうのです)、それに対する主人公のリアクションも「ただ怯える」だけで同じだからなのです。

ですから主人公の心の中で起こっているだろう「精神の変化」も分からず、主人公の「成長」なり「変化」なりが見えて来ません。だから、単調に感じてしまうのでしょう。

冒頭の大麻パーティで散りばめられた伏線らしきものが回収されず、放りっぱなしで終わるのにも、違和感がありました。ラストは、やはり主人公が現実に戻って終わるのがセオリーではないでしょうか?
作者は類型を避けたのかもしれませんが、観客にとっては、フラストレーションが溜まる結果になっていたと思います。

5、「類型」の意味

作劇における類型には、それなりの意味があり、敢えて類型に従った方が良い場合もあるはずです。例えば、SFやファンタジーでは「夢オチ」は「やってはいけないこと」だと言われています。

冴えないプログラマーが世界の救世主となる「マトリックス」がシリーズ化された時、多くのファンは「これって夢オチで終わるのかな?」と想像しました。しかし、当然と言うべきか、マトリックス3部作の主人公はアチラの世界で救世主のまま終わったのです。けれど、マトリックス・サーガのラストは、予想通りで類型的であったとしても、主人公が現実に戻る夢オチであるべきだったと思うのです。
マトリックス・サーガの「マトリックスの世界へ、行きっ放し」のラストは、多くの観客を納得させるものではありませんでした。

「夢オチはいけない」とは言っても、必ずしも類型が悪いのではなく、その扱い方が問題なのではないでしょうか?

6、役者と美術

主役の鵜沼ユカさんは大熱演だし魅力的でしたが、劇のクライマックスに分かりやすいカタルシスが用意されていないので、その熱演を観客が消化し昇華できないもどかしさも感じました。他にもかなり多くの役者がパフォーマンスを見せ、カーニバル的なムードを盛り上げますが、個々の役者に余りしどころがないのは、少し残念でした。

私は、小劇団の芝居を時々観るのですが、劇団3.14chは美術や映像効果のレベルが高いと、いつも感じていました。今回の「大型」もその点は力が入っていて、幻想的な世界を見せてくれます。


near Kawela Bay, HI, United States / izumoi

DSC03387 / GWP Photography

7、『真夜中のパーティ』に始まって『死霊の盆踊り』に終わる

私が「大型」を楽しめなかったのは、こうしたナレイティブでない演劇に対する素養がないせいもあったと思います。モダンアートが、素養がない人には落書きにしか見えないように。ただ、筋を追って内容を理解しようとする普通の観客が、内容に入って行ける取っ掛かりを、もう少し用意しても良かったのではないでしょうか?

余り演劇的素養のない私が観た、劇団3.14ch「大型」の感想は「『真夜中のパーティ』に始まって『死霊の盆踊り』に終わる」というものでした。

意欲作ではあると感じました。しかし、その意欲を受けとめられなかったもどかしさもあって、少し長く感想を書いてみたくなったのです。

上演中の作品に対して批判的な意見になってしまったかもしれませんが、ご寛恕下さい。

しかし、3.14chの一貫したテーマである「幻覚のような芝居を作りたい」には見事に挑んだ作品ではあると思います。
皆さんも、ご自分の眼で体験してみてはいかがでしょうか?

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異色の原爆映画「太陽を盗んだ男」

1、異色の原爆映画

1945年8月6日は広島に原爆が投下された日です。日本映画には今村昌平監督の「黒い雨」を始め原爆をテーマとした作品がいくつかありますが、決して多くはありません。一瞬にして10万人を超える命が奪われた、原爆という日本に余りにも深い傷を残したテーマであるにもかかわらず、と言うより「だからこそ」なのでしょうか?


原爆ドーム / daipresents
 
慰霊碑からみた原爆ドーム / n.kondo

1979年に異色の原爆映画が公開されました。長谷川和彦監督、沢田研二主演の「太陽を盗んだ男」です。

沢田研二演じる中学校の理科教師は、原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、たったひとりで原爆を開発して、日本政府を脅迫します。しかし、原爆は作ったものの、彼には日本政府を脅迫する「目的」がなく「野球のナイター中継を最後までやれ」とか「ローリング・ストーンズを来日させろ」(どちらも、当時の日本では実現できないことでした)といった「どうでもいい」事を要求するしかない、という奇想天外かつ皮肉なアイディアの作品でした。

2、観る者を圧倒するパワー

原案・脚本は、「ザ・ヤクザ」や「蜘蛛女のキス」で知られるレナード・シュレイダーで、英語でも日本語でも脚本の書ける人でした。
主演の沢田研二は、当時、まさにトップ・アイドル・スターで、初主演作が非常に過激なテーマの作品であることに、周囲の抵抗もあったと思いますが、本人の強い希望で実現しました。
長谷川和彦は、これが監督第2作。初監督作品「青春の殺人者」で鮮烈な登場をし、「太陽を盗んだ男」でも高い評価を得ますが、この作品で燃え尽きたかのように、以後、沈黙をしてしまいます。それも仕方がないのか?と思わせるほどの「密度の濃さ」がこの作品には込められています。

「太陽を盗んだ男」は、その挑戦的なテーマと作品に込められた熱量の大きさ、そしてツッコミどころ満載のキッチュさも含め、凄まじいパワーで今も観る者を圧倒します。
私は、定期的にこの映画を観る衝動にかられ、観終わった後は、しばらくの間は興奮が冷めません。

3、信じがたいゲリラ撮影

「太陽を盗んだ男」は、主人公がアパートの一室で原爆を作る過程や、菅原文太演じる刑事との攻防が、非常なリアリティで描かれる一方で、原子力発電所からのプルトニウム強奪や原爆を警察から奪還するといった重要なシーンがコミカルに処理されていて、当時からアンバランスさを指摘されていましたが、それすらも面白さに変えるエネルギーがありました。
そして、この作品には、バスジャック犯と警察による皇居前の銃撃シーンや女装した犯人の国会議事堂への潜入シーンなど、今ならあり得ないシーンのロケ撮影が連続します。

当時から「よく撮影が許可されものだ」と感心していましたが、実は全て無許可のゲリラ撮影で、逮捕されたスタッフも続出したそうです。

ちなみに皇居前でのゲリラ撮影では、監督の長谷川和彦が捕まると撮影が続行出来なくなってしまうので、助監督の相米慎二(!) やアルバイトの大学生(黒沢清!)が矢面に立ちました。もっとも、助監督の相米慎二も逃げてしまったので、警察に行ったのはアルバイトの黒沢清だったそうです。長谷川和彦、相米慎二、黒沢清、という名前の並びは、この作品の日本映画史における重要性を改めて感じさせます。


皇居 / Kentaro Ohno
 
Parliament of Japan / kazuletokyoite

4、映画史上最も美しいカーチェイス

「太陽を盗んだ男」の中で一番驚いたのは、他に車の全く走っていない、無人の首都高速で繰り広げられる犯人と警察のカーチェイス・シーンです。「一体どうやって撮ったのか?」と不思議でしたが、スタッフの車数台で首都高速の入口を塞ぎ「意図的に渋滞を起こして」撮ったゲリラ撮影だったそうです。今だったら、大事件になっているのではないかでしょうか?

しかし「太陽を盗んだ男」のカーチェイスは、勇ましくコミカルなのに、観ていると何故か寂しさに胸をしめつけられるような、印象的なシーンになっています。美しく撮られたカーチェイスのバックに、メランコリックで静かな曲を流した音楽演出が素晴らしく、映画史上で最も美しいカーチェイス・シーンではないかと思います。


on the highway 11 / midorisyu
 
i-phoneで銀座01 / midorisyu

5、主人公はテロリスト

「太陽を盗んだ男」が、今のアクション映画と最も違うのは、沢田研二の演じる「主人公がテロリスト」であることです。2016年にこの作品が映画化されるなら、主人公は菅原文太演じる刑事なったことでしょう。でも、1970年代当時は、これは普通でした。アクション映画の主人公は、多くの場合「体制に刃向かう者」か「体制から外れようとする者」で、ラストは主人公の破滅で終わったものです。

この作品も「目的なきテロリスト」である主人公は、破滅して行くのですが、ラストに「いや、戦い続けることこそが目的であり意味なのだ」という、さらに挑戦的なメッセージを観客に突きつけることで、70年代の反体制的エンタテインメントから一歩前に踏み出しています。

「太陽を盗んだ男」は、エンタテインメントとしても無類に面白い作品ですが、唯一の被爆国である日本の一個人が原爆を作り日本政府と対決する、というストーリーの持つアイロニーは、今こそリアリティを持って、私たちの胸に迫って来るのではないでしょうか?
一見、原爆を軽いエンタテインメントとして扱っているこの作品の監督である長谷川和彦は、「胎内被爆児」であり、「特別被爆者手帳」の保有者でもあるのです。


Vogtle nuclear power plant, Georgia, USA / BlatantWorld.com
 
Steam from Philippsburg nuclear power plant / dmytrok

6、インディペンデント・プロデューサー

「太陽を盗んだ男」は当時の日本映画の水準を超えた圧倒的な作品だと思いましたが、残念ながら興行的には成功しませんでした。私は初公開時に渋谷の劇場に駆けつけましたが、映画館はガラガラでした。しかし映画の中で、劇場のすぐ近くの東急本店が重要な舞台になるので、その「現実感」にドキドキしたものです。

「太陽を盗んだ男」を制作した山本又一朗は、30代になったばかりの、ほとんどキャリアのない、インディペンデントのプロデューサーでした。興行的に失敗したとはいえ、プロデュース第2作で、このような挑戦的な大作を作り上げたのは、やはり驚嘆すべき成果です。インディペンデントだからこそ、成し得たことなのかもしれません。

当時、斜陽になりかけた日本映画界に、角川春樹、山本又一朗、西崎義展といった若いプロデューサーが映画界の外から現れて、日本映画に新風を呼び込んでいました。

映画興行の専門家は、「太陽を盗んだ男」のような娯楽大作映画を興業的に成功させるには、その映画のクオリティだけでは不十分で、角川映画なみの型破りな宣伝力も必要だったと指摘しました。

角川書店の若きオーナーであった角川春樹が映画に進出した角川映画は、その圧倒的な宣伝も含めて、1970年代後半から1980年代にかけての日本映画をリードします。

次回は、そのお話をしたいと思います。

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マイケル・チミノ、天国の門から地獄に堕ちた男 ② 「描写とドラマのアンバランス」の天才

1、独自のスタイルが生んだ栄光と挫折

マイケル・チミノは「ディア・ハンター」(1978)で、正にアメリカン・ドリームそのものというべき輝かしい成功を収めましたが、次作の「天国の門」(1980)では酷評の嵐に見舞われ、経済的にも巨大な損失を生みだし、映画監督としてのキャリアが完全に終わりかけました。この極端な栄光と挫折は、単なる運不運ではなく、彼の映画作家としての「スタイルそのもの」が生んだものではないかと思うのです。

それは、ストーリーの流れを壊すほどの描写への強いこだわりです。これこそ、マイケル・チミノの突出した才能であると同時に、致命的な弱点だったのです。

2、「天国の門」の問題点

「天国の門」は3時間半という上映時間が余りに長いということで、日本では2時間の短縮版が公開されました。日本で公開される頃には、米国での酷評や興行的失敗はすでに伝えられていたのですが、実際に観てみると、短縮版なのでストーリーは分かり難いにもかかわらず、開拓時代末期の西部を捉えた映像の厚みは素晴らしい出来映えでした。
特にクライマックスの、牧場主の傭兵軍に襲われた東欧の移民たちが戦う場面、敵も味方も分からないほど入り乱れた戦闘シーンの迫力には圧倒されました。
しかし、ストーリーと長い描写のバランスが、なんだかギクシャクしている感じも受けたのです。

これは、短縮版であるせいに違いないと思い、後に完全版が公開された時に、劇場に駆けつけたのですが、短縮版の問題点は解消されていませんでした。

「天国の門」完全版は、各シーンが極端に長くなり、しかも、その長くなった分はドラマではなく描写に費やされていたので、短縮版よりも却って物語の流れに乗り難くなる結果になっていました。余りにも長いので、観ているうちに、何だかドラマがどうでもよくなってしまう感じなのです。


Wyoming / Boss Tweed

Cabin on Jenny Lake, Grand Tetons / inkknife_2000 (6.5 million views +)

3、描写が誘う「映画の中の日常」

マイケル・チミノ監督は「描写」に驚異的な粘りを見せる人で、「天国の門」でも撮っているうちにどんどん長くなり、完成当初のオリジナル・バージョンは5時間以上あったそうです。チミノの描写には、観ていると自分が「映画の中の日常」に入り込んで行くような独特の魅力があります。一方で、ストーリー・テイルの完成度には余り関心を持たない人で、その長所も短所も日本の相米慎二を連想させます。

映画を撮っていると、いつも、シナリオよりどんどん長くなってしまうマイケル・チミノの本質は大河ドラマ作家ではないかという意見がありますが、それはどうでしょう?
チミノの作品が長くなるのは、ドラマを語るためではなく描写のためです。それは、登場人物たちの世界を押し広げ豊かにし、リアリティは増しますが、ドラマのダイナミズムは停滞してしまいかねません。

実際、「天国の門」完全版では、各シークエンスの全てが均等に長く、描写の粘りがストーリーを盛り上げるのではなく、逆にストーリーの力を削ぐ結果になっていたと思います。

4、描写とドラマのアンバランス

その点、マイケル・チミノの代表作「ディア・ハンター」は、描写とドラマが非常に見事なバランス、というよりアンバランスを見せていました。

「ディア・ハンター」の前半では、ロシア系移民社会での結婚式やベトナム従軍を前にした青年たちによる鹿狩りの光景が、バランスを失して延々と、しかし瑞々しく魅力的に描かれます。そこにあるのは貧しい青年たちの日常だけで、1時間以上「ドラマ」は全くありません。
そして、映画は一気に緊張感に満ちたベトナムへ飛び、ベトナム軍に捕らえられた主人公たちが決死の脱出を試みる、ダイナミックでエキセントリックな展開が畳みかけられます。

この、従来の映画の常識を破る極度にアンバランスな「緩急のリズム」こそ「マイケル・チミノの世界」であり、世界の映画ファンが「新しい才能」の登場を実感した部分だったのです。


Deer / Martin Svedén

Vietnam / Padmanaba01

5、奇跡の成功「ディア・ハンター」

後半のベトナムで北ベトナムの捕虜となった主人公たちがロシアンルーレットを強制させられる展開は、当時からリアリティの点で批判が加えられていました。しかし、前半の主人公たちの青春の日常があまりにリアルだったために、観客は後半の異常な展開にも納得させられてしまったのです。

「ディア・ハンター」は、ベトナム戦争やアジアに向ける視線がリベラルではないという批判もありましたが、ロシア系移民の主人公たちの静かな日常とベトナム戦争のパッションが生む不思議なアンバランスは、今観ても圧倒的で、思わず引き込まれてしまいます。

しかし、このマイケル・チミノのスタイルが、ストーリーの迫力や魅力を高めていたのは、結局「ディア・ハンター」だけで、他の作品では、やはり「ストーリー・テイルにとっては」マイナスになっていたと思います。

その意味では、やはり「ディア・ハンター」はマイケル・チミノのスタイルが見事に内容を高めた奇跡のような成功作だったのです。


6、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」での復活

「天国の門」でハリウッドから完全に孤立してしまったマイケル・チミノに手を差し伸べたのは、イタリア人の大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスでした。ラウレンティスは、チャイニーズ・マフィアと刑事の対決を描いた大作「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(1985)の監督にマイケル・チミノを起用します。ラウレンティスには、芸術派や社会派の監督にエンタテインメントの大作を監督させるクセがあり、その発想からの起用だったのでしょうが、見事に成功したのです。

もっとも、これは想像ですが、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」では、監督のマイケル・チミノに最終編集権は無かったのではないかと思います。
「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」はマイケル・チミノにしては「語り口が普通」の作品で、描写へのこだわりがストーリーのバランスを壊すことがなく、いわゆる刑事アクションらしく、キビキビと展開します。

ラウレンティスは、他の監督にも最終編集権を渡さないことが多かったので、「問題児」マイケル・チミノに復活のチャンスを与えるに際して、保険をかけたのではないでしょうか?
少なくとも、この作品ではマイケル・チミノらしいアンバランスなスタイルは稀薄で、しかし、彼の「描写力」はしっかりと作品の力になっています。


Chinatown / janoma.cl

Chinatown / zoonabar

7、作家であることによる不幸

その後のマイケル・チミノは、再び「描写とドラマのアンバランス」なスタイルに戻って行くのですが、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」の成功で最終編集権を手にしたからではないでしょうか。しかし、それらが「ディア・ハンター」のような目覚ましい効果を生むことはなく、次第にハリウッドの一線から消えて行くことになります。

「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」という、彼が自らのスタイルを「殺した」作品が、マイケル・チミノの数少ない成功作となったのは、皮肉な感じがします。

それでも、マイケル・チミノの魅力の本質が、ドラマを語る上ではバランスを失した「豊かな描写」にあるのは事実です。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」と「天国の門」のどちらがより「チミノらしい作品」なのかと言えば、やはり「天国の門」でしょう。

そこに、私はマイケル・チミノという、描写とドラマのアンバランスという、彼にしかないスタイルを持ってしまった「作家であることによる不幸」を感じてしまうのです。

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マイケル・チミノ、天国の門から地獄に堕ちた男 ①

1、「ディア・ハンターの監督」の死去

2016年7月2日、アメリカの映画監督マイケル・チミノが亡くなりました。私の世代の映画ファンにとっては大事件なのですが、日本での報道はそれ程でもなく「『ディア・ハンター』の監督」と紹介される程度でした。

しかし、マイケル・チミノ監督は、1978年の「ディア・ハンター」で一躍ハリウッドの頂点に登りつめながら次作「天国の門」で一転して地獄の底に突き落とされる、映画史上最大のRISE & FALLを演じた孤高の完全主義者であるという意味において、特筆されるべき人物だと思うのです。

 
IMG_4174 / Donald Windley

Vietnam / Padmanaba01

2、一夜にしてハリウッドのトップに

マイケル・チミノは、1970年代始めに脚本家としてデビューし、クリント・イーストウッド主演の「サンダーボルト」(1974)で監督となりましたが、まだ知られた存在ではありませんでした。
しかし、ロバート・デ・ニーロ主演の監督第2作「ディア・ハンター」で、ベトナム戦争に巻き込まれ青春を破壊されたロシア系移民の米国青年たちの姿を鮮烈に瑞々しく描き、全米の人々に強いショックと感動を与え、アカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞します。

「ディア・ハンター」は、ベトナム戦争を扱った本格的大作としては初めて全米で大ヒットし高い評価を得た作品です。サイゴン陥落によるベトナム戦争終結が1975年。未だアメリカ人にとって生々しく苦い記憶だったベトナム戦争というテーマに真正面から挑んだ勇気は、高く評価されました。マイケル・チミノは、一夜にしてハリウッドで最も次作を期待される監督となったのです。

3、「完璧な西部」への挑戦

マイケル・チミノが次作に選んだのは、1892年に西部で起きた、WASPの牧場主たちが新たに入植してきた移民を牛泥棒の名目で大量殺害した「ジョンソン郡戦争」という「アメリカの暗部」に斬り込んだ「天国の門」(1980)でした。
この作品は公開前から「今度のマイケル・チミノの新作は凄いらしい」と話題になっていました。マイケル・チミノが開拓時代の西部を完全に再現するために際限なくこだわり、予算と期間が大幅に超過し大変なことになっている、というニュースが伝えられていたからです。
カメラには映らないような衣装や小道具の細部にまで忠実さを求め、ロケ地に立てた西部の街のセットを何度も造り直し、さらには蒸気機関車が登場するワン・シーンのために「鉄道を敷設」してしまった程です。

予算を超過しても、全く終わる気配のない撮影を危惧した映画スタジオの重役が、ロケ地に視察に向かったのですが、映画撮影現場に再現された「完璧な西部」を目の当たりにして、「スゴイ!チミノは天才だ!」と興奮して撮影を続行させたと伝えられています。
マイケル・チミノは「ディア・ハンター」で、当時の映画作家の中でも突出した評価を得ましたから、「天国の門」を作っている頃は自信に満ちていて、強烈なカリスマ性を発しながら周囲を巻き込んでいたのではないでしょうか。


Classic Tetons Shot / snowpeak
 
Mother Nature Gets the Blues, Grand Teton, WY 9-11 / inkknife_2000 (6.5 million views +)

4、「天国の門」から地獄の底へ

「天国の門」は大きな期待を持って全米公開を迎えました。
ところが、3時間半を超える上映時間全編にわたって、確かに見事な映像美の連続でしたが、各シーンが極端に長くドラマの語りはギクシャクしており「映画史上最大級の予算を費やしてこれなのか?」と、批評的にも興行的にも大失敗してしまいます。
その叩かれ方は、絶賛された「ディア・ハンター」の反動もあって、「何もそこまで」と言いたくなるほど徹底したものでした。
そして、「史上最大の赤字を生んだ作品」として、制作会社ユナイテッド・アーティスツを倒産に追い込む羽目になり、マイケル・チミノのキャリアを一度終わらせる結果となるのです。

しかし、CGのない時代に「全て実物で」開拓時代の西部を完璧に再現しようとしたマイケル・チミの狂気に近い完全主義は、一見の価値があります。

5、復活のドラゴン

たった一人の一作品で、老舗の映画スタジオを倒産させてしまったことで、マイケル・チミノの映画監督としてのキャリアは完全に断たれたと思われましたが、ミッキー・ロークがチャイニーズ・マフィアのコネクションを追う刑事を演じる「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(1985)で復活を遂げます。
当時、危険人物として映画界から完全に干されていたマイケル・チミノに、無謀にもこんな大作を任せたプロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスの蛮勇に敬意を表したいと思いますが、チミノも見事にそれに応えました。

「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」は、マイケル・チミノ復活作となると共に、チャイニーズ・マフィアの若きボスを演じたジョン・ローンにスターへの道を拓きました。はぐれもの刑事とチャーニーズ・マフィアとの抗争を描いた、刑事アクションに分類される作品ですが、マイケル・チミノの粘っこい描写がジャンル・ムービーの世界に厚みを与えていて、大好きな作品です。


Chinatown / Danny Nicholson
 
Chinatown / Jonas B

6、「映画作家」であることが呼んだ、栄光と挫折

「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」の成功で、再びハリウッドの一線に復帰するかと思われたマイケル・チミノですが、やはり完全主義の体質からかトラブルも多く、その後も沢山の作品は残せず、徐々にフェイドアウトして行きました。
彼は「ディア・ハンター」を見る限り、余りリベラルな人ではなく、その辺もリベラル派が主流であるハリウッドでの再評価を妨げたのかもしれません。

それでも、マイケル・チミノの妥協を知らない、正に「映画作家」と呼ぶべきスタイルは、色褪せること無く、私たちの心の中に残り続けました。

しかし、マイケル・チミノの極端な栄光と挫折は、彼の映画作家としての「スタイルそのもの」から来ているのではないかと思うのです。

次回はそのお話をしたいと思います。

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スターがアクターを受け止めた時、ドラマは輝く

1、再説・スター・タイプとアクター・タイプ

前回、レオナルド・ディカプリオとシルヴェスター・スタローンについて述べた時に「俳優には、スター・タイプとアクター・タイプがいます」と書きましたが、これは必ずしも一般的な言葉ではなく、たぶん私の造語に近いものなので、少し説明しておきたいと思います。

造語といっても、私が考え出したというワケではなく、この概念の基本を教えられたのは小林信彦のコラムでした。その後、自分なりに「こういうことなんだな」とイメージを具体化させて来たのです。

おそらく、演技に関わる人達の間では、「スター・タイプとアクター・タイプ」に近い概念が使われているけれど、キチンと定義づけされていない状況なのかもしれません。(間違っていたらご教示ください)

2、自分か他人か

前回もお話したように、スター・タイプは常に「自分自身」で、役を自分に「引き付ける」形で演技します。一方、アクター・タイプは「他人に」なり切ります。役の中に「入り込んで」自分と違う人物を創造しようとするのです。
これはタイプの違いで「上手いか下手か」とは少し違うのですが、演じる役の幅が広いのはアクター・タイプなので、いわゆる「演技派」と言われる人は、アクター・タイプが多いようです。
しかし、当然、上手いスター・タイプもいれば、下手なアクター・タイプもいます。


ガラスの仮面展ポスター / shibainu

分かりやすく言うと、マンガ「ガラスの仮面」における姫川亜弓はスター・タイプで、北島マヤはアクター・タイプです。

スター・タイプの役者とは、ルックスが圧倒的に美しかったり、逆に、圧倒的に個性的なキャラクターを持っていて「他の人になりにくい」タイプです。かつてのロバート・レッドフォードやトム・クルーズが典型的なスター・タイプですが、必ずしも美男美女とは限りません。

3、スターは二枚目とは限らない

例えば、1970年代以降のハリウッドを代表する名優の一人、ジャック・ニコルソンです。彼はハンサムとはとても言えませんが、一度見たら忘れられないルックをしています。そして、ジャック・ニコルソンは正にスター・タイプで、どんな映画に出ても常にジャック・ニコルソンそのものでした。


Jack Nicholson figure at Madame Tussauds Hollywood / Castles, Capes & Clones

スター・タイプには普段から強烈なオーラを発している人が多く、一方、アクター・タイプは普段は地味で目立たないのに、演技を始めるとガラッと変わって存在感を発揮する人が多いようです。

共演者やスタッフの証言によると、ジャック・ニコルソンは、登場するだけで皆を惹きつけ、当然のようにその場主役になってしまう強烈な魅力があったそうです。
一方、変幻自在に様々な役を演じ、これこそアクター・タイプというべき名優ロバート・デ・ニーロは、インタビューした記者が、素の彼は「これがあのロバート・デ・ニーロか?」と言いたくなるほど平凡でパッとしない雰囲気だ、と表現していました。


Robert De Niro as Al Capone / jon rubin

4、スターとアクターがバランスを作る

つまり、スター・タイプの俳優とは、ただ自分自身として止まって画面に映っているだけで、人を惹きつける何かを発散しているのです。一方、アクター・タイプは「動くこと」「アクトすること」で自分の魅力を創り出してゆくのです。

ですから、アクター・タイプは攻める、動きの演技が得意で、逆にスター・タイプは、受けの演技で魅力を発します。

映画やドラマの芝居は、誰かが動きの演技をしたら相手役が静の演技で受ける、という形でバランスが作られます。これを俳優のタイプで考えると、アクター・タイプが動いて状況を作り出して、スター・タイプがそれを受けとめると良いバランスの芝居になるのです。

ですから、映画やドラマのメインキャストにスター・タイプとアクター・タイプを組み合わせるのは大切なことで、これが両方スター・タイプだったり、両方アクター・タイプだったりすると、お互いの魅力を相殺してしまう可能性があるのですが、この点を気にしていないキャスティングが意外に多い気がします。

少し違いますが、漫才にボケとツッコミの組み合わせが必要みたいなものと考えて頂くと分かり易いかもしれません。ボケだけの漫才やツッコミだけの漫才では、面白くならないでしょう。

5、沈黙で輝くスター

映画やドラマの主役にはスターを配し、脇にアクター・タイプを置くことが多くなります。真のスターは受け止める演技で光を放つと言われています。最近亡くなった、高倉健も菅原文太もそうでしたね。


R.I.P. Ken Takakura 1931 – 2014 / t-miki

高倉健、吉永小百合、菅原文太といった、常に日本映画の主役を張って来たスターたちは、正にスター・タイプで、スクリーンの上でいつも彼ら自身でした。けれど、演技が下手だった訳ではありません。彼らは大袈裟な動きの演技よりも「沈黙」でこそ、より多くを語り魅力を発したのです。

例えば、高倉健なんて「いつでも寡黙な健さん」で、日本では「スターだけれど演技派ではない」と思われがちですが、ハリウッドでの評価は高かったのです。
「日本の俳優の演技は一般にオーバーだが、高倉健は目で演技する」と言われていました。外形の動きではなく、内面の集中で役になり切る、メソッド・アクターだと評価されていたのです。

6、アクターは変化する

アクター・タイプの演技は「変化の魅力」です。演技の出発点が「自分ではない誰かを演じる」ことにあると考えれば、アクター・タイプの演技は「お芝居の楽しさ」の本質を味あわせてくれます。

私が、典型的アクション・スターと思われているシルヴェスター・スタローンが、実はアクター・タイプではないかと感じたきっかけに、こんなエピソードがあります。

無名時代のスタローンは、ウディ・アレンの初期のコメディ映画「バナナ」に、地下鉄でウディ・アレンに絡むチンピラとして、ほんの端役で出演しているのですが、そのキャスティングについて、ウディ・アレンはこう回想しています。

(事務所の紹介でスタローンが来た時に)イメージが違ったんだ。それで彼に言った。悪いけれど、僕は「キケンな男」が欲しいんだ。君はキケンに見えないよ。すると、スタローンは訴えた「もう一度チャンスを下さい。キケンな男になって戻って来ますから」。そう言って部屋を出て5分後に戻って来たら、今度は凄くイイんだ!あれは忘れられない経験だった。

7、スターがアクターを受け止めた時、ドラマは輝く

もっとも、必ずしも、スター・タイプが主役でアクター・タイプが脇役とは限りません。

例えば、バリー・レヴィンソン監督のアカデミー作品賞を受賞した名作「レインマン」では、アクター・タイプのダスティン・ホフマンが主役で、自閉症の演技で状況を作り出し、典型的なスター・タイプであるトム・クルーズが脇役でそれを受けました。
アカデミー賞主演男優賞を受賞したダスティン・ホフマンの演技は素晴らしかったですが、それを受けるトム・クルーズの演技も自然な感じで、とても良かったのです。

むしろ、トム・クルーズが自然な演技で受けたからこそ、ダスティン・ホフマンの、いささかオーバーアクト気味の自閉症演技が光ったとも言えるのです。

スター・タイプとアクター・タイプはタイプの違いですから、どちらが上でどちらが下、というようなものではありません。 スター・タイプとアクター・タイプがぶつかり合うことで、芝居は豊かで魅力的なものになるのです。

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ディカプリオとスタローン、交差した光と影

1、「レヴェナント:蘇えりし者」と2016年アカデミー賞

今、米国西部開拓時代を生きた実在の猟師ヒュー・グラスの体験した過酷なサバイバルを描いて、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が2年連続のアカデミー監督賞を受賞した「レヴェナント:蘇えりし者」が公開されています。
主演のレオナルド・ディカプリオは、5度目のノミネートにして、初のアカデミー主演男優賞を受賞しました。


Leonardo DiCaprio addresses the UN Climate Change Summit / john.gillespie
 

2016年の米国アカデミー賞は、「本来の自分」と「こうありたい自分」が乖離していた二人の俳優の光と影が、偶然にも交差したことが、とても印象的でした。
それは、レオナルド・ディカプリオが念願の主演男優賞の初受賞を果たしたこと。もう一つは、下馬評の高かったシルヴェスター・スタローンが残念ながら助演男優賞の受賞を逃したことです。


Sylvester Stallone / Gage Skidmore

この二人は、役者としては全く逆の、しかし本質的には同じ悩みを抱え、それに呪縛されていました。そして、レオナルド・ディカプリオは、遂に戦いに勝ち栄光を掴みましたが、シルヴェスター・スタローンは叶わなかったのです。

2、「スターになりたいアクター」と「アクターになりたいスター」

二人が呪縛されていた悩みとは何でしょうか?
レオナルド・ディカプリオは「アクターになりたいスター」であり、シルヴェスター・スタローンは「スターになりたいアクター」だったのです。つまり、二人は「本来の自分」と「こうありたい自分」の間に矛盾を抱えながら、俳優を続けて来たと思うのです。


Sylvester Stallone / Gage Skidmore
 
Django-Unchained-Leonardo-DiCaprio / 22860

俳優にはスター・タイプとアクター・タイプがいます。
スター・タイプは「常に自分自身で、役を自分に引き寄せて演じます」。
一方、アクター・タイプは「役の中に入り込み、自分とは違う人物像を作り上げます」
これはタイプの違いなので「上手い、下手」とは少し違います。上手いスター・タイプもいれば下手なアクター・タイプもいます。しかし、いわゆる「演技派」として評価される俳優はアクター・タイプが多いようです。

シルヴェスター・スタローンは、1976年の「ロッキー」で無名の俳優が一夜にしてスターとなるアメリカン・ドリームを実現し、80年代のハリウッドを代表するアクション・スターとなりました。ところが、彼は演技者としては全く評価されず、アカデミー賞の前夜にダメ映画やダメ役者を表彰するジョーク企画「ラジー賞(ゴールデンラズベリー賞)」の常連で、言ってみれば「大根役者の代名詞」でした。

しかし、私はずっと疑問に思っていました。「シルヴェスター・スタローンの本質は、スターというよりアクターではないのだろうか?」
かつての私は「スタローンの演技をどう見るか」を批評眼のリトマス試験紙にしていたところがあって、彼を大根役者と決めつける人を、余り信用していませんでした。

3、「ロッキー」と「ランボー」は別の人間

1980年代を代表するアクション・スターと言えば、やはりシルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーでしょう。
アーノルド・シュワルツェネッガーは典型的なスター・タイプで、いつどんな映画でもシュワルツェネッガーそのものでした。彼は、そのルックスの特異性もあって、シュワルツェネッガー以外の誰かにはなり得なかったのです。
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Sylvester Stallone & Arnold Schwarzenegger / Gage Skidmore

そして、シルヴェスター・スタローンも典型的な「アクション・スター」と思われています。しかし、私は彼の本質はアクターなのではないかと考えていました。なぜなら、スタローンの演じた代表的なキャラクターであるロッキーとランボーは、ハッキリと「別の人物」だからなのです。
「ロッキー」と「ランボー」、この二人のキャラクターの違いに注目して下さい。

「ロッキー」は、うだつの上がらない3流ボクサーが、ひょんなことから世界タイトルマッチに挑戦するチャンスを掴み人生最後の勝負に挑む話です。ロッキーは余り頭は良くありませんが気のいい男で、陽気なおしゃべりです。いつも、受けないジョークを連発して周りを辟易させています。


rocky balboa. feb. 24th 2015. 20h50 (19:50 gmt). d8 / alatelefr

一方、「ランボー」は、心に傷を負ったベトナム帰還兵のドラマです。戦いにしか自分を見出せず、戦場を求めて流離うランボーは、他人に心を開かない寡黙で暗い男です。


RAMBO / kidzior12

「ロッキー」と「ランボー」は全く違うキャラクターとして、画面の中で生きているのです。

4、ジョン・ウェインになりたかった男

シルヴェスター・スタローンは、子供の頃のケガの影響で右半身に軽い麻痺があるので、顔の表情と口の動きが鈍いせいもあって、演技を過小評価されて来ましたが、その本質は「役に入り込む」人でした。

その彼が「典型的なアクション・スター」と言われるようになったのは、実は彼自身がそれを望んだからなのです。シルヴェスター・スタローンは、80年代当時「自分はジョン・ウェインになりたいんだ」と明言していました。


John Wayne / classic film scans

ジョン・ウェインは西部劇を代表するスター、というより「アメリカの強い男のシンボル」でした。ジョン・ウェインは正にスターの中のスターで、どんな映画でもジョン・ウェイン以外にはなり得なかったし、ジョン・ウェイン以外である事を求められていない人でした。
スタローンはそんな「アメリカのシンボル」の地位を継ぐことを目指して「スターとしてのスタローン」を「演じていた」のです。

5、「スターとしての呪縛」を解いたスタローン

私は「ジョン・ウェインになろうとする」スタローンの、その姿に少し不満を覚えていました。彼は、例えば「ゴッドファーザー」のようなマフィア映画の脇役で殺し屋を演じたりすれば、実に味のある演技を見せてくれそうな才能があるのに、あえて同じような役を演じ続け、「アクターとしてのスタローン」を自ら封印していたからです。


rocky balboa. feb. 24th 2015. 20h50 (19:50 gmt). d8 / alatelefr

しかし、アクション・スターとしての全盛期が去り、しばらくの低迷期を経て原点に還った「ロッキー・ザ・ファイナル」で復活してからの彼は、肩の力が抜けたように演技を楽しむ余裕が出て来たように見えます。

そんな「スターとしての呪縛」から解き放たれたかに見えるスタローンには、今回のアカデミー賞で「初めて演技者として評価される」期待が高まっていましたが、残念ながら受賞はなりませんでした。

6、「生まれながらのスター」ディカプリオはアクターを目指す

一方、「ロッキー」の公開される2年前、1974年に生まれた「アイドルそのもの」といったルックスの持ち主であるレオナルド・ディカプリオには、「生まれながらのスター」といった雰囲気があります。彼は、まぎれもなくスター・タイプだと思うのですが、デビュー当時から演技力に自信を持っていた彼は「アクターになりたい人」だったのです。


Leonardo DiCaprio / Danny__H

「タイタニック」で世界と世代を代表する二枚目スターとなったレオナルド・ディカプリオは、彼の本来の「アイドルのような外見」に加え「タイタニック」で完成し世界中に定着してしまった「スター・ディカプリオ」のイメージから抜け出そうと、ずっと苦闘しているように見えました。

「アビエイター」でハワード・ヒューズの人生を演じたり、でっぷりと太って、悪名高いFBIの初代長官フーバーを演じたり、なんとか自分のイメージを壊そうともがき苦しんで来ました。私は彼の映画を面白がりながらも、「無理をしてるなぁ。もっと、スターとしての自分のイメージを素直に受け入れれば良いのに」と感じていました。

レオナルド・ディカプリオには、どんなに役作りのために汚れを被って自分のイメージを変えようとしても「スター・ディカプリオ」の輝きを消すことが出来ない、宿命のようなものがあります。その宿命から逃れようとする息苦しさが、これまで彼を演技派として評価することから遠ざけていたのではないでしょうか?

その長い彼の戦いが、今回のアカデミー賞受賞でようやく報われたのです。これで、彼は「アクターでありたい」という呪縛から解き放たれるのでしょうか?

7、交差した光と影

2016年の米国アカデミー賞の授賞式では、二人の俳優の光と影が交差しました。


Martin Scorsese y Leonardo DiCaprio / El Informador Digital
 

「生まれながらのスター」である自己を否定し「アクターとして」認められようともがいて来たレオナルド・ディカプリオと、「スターでありたい」という呪縛を自ら脱ぎ捨て、本来のアクターとして素直に演技を楽しみ始めたシルヴェスター・スタローン。

運命の女神はレオナルド・ディカプリオを選び、シルヴェスター・スタローンには微笑みませんでした。

しかし私は、老境に入って素直に自分を受け入れるスタローンの演技に開放感を感じる一方で、鉄のような意志で本来の自分を否定し続けるディカプリオの演技に息詰まるような閉塞感を覚えます。そして、アカデミー賞授賞式で晴れやかな笑顔を見せるレオナルド・ディカプリオと、それに静かに拍手を送るシルヴェスター・スタローンの姿を、複雑な思いで眺めていたのです。

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「イニシエーション・ラブ」と「悪女もの映画」②

「悪女もの」映画、オススメ10本

VERONICA LAKE, STAR OF THE SILVER SCREEN 1940S / roberthuffstutter

1、「アデルの恋の物語」(1975年)監督フランソワ・トリュフォー

フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの娘アデルが、たった一度、関係を持っただけの英国人中尉に延々と執着し続ける姿を描いた、巨匠フランソワ・トリュフォー監督の名作です。周囲の目はおろか相手の姿すら見えなくなってしまったアデルの妄執は、正に「狂気の恋」なのですが、次第に私たちすべてが抱く「恋心」の本質を照らし出して行きます。
美しさと鮮烈な演技を見せた、現代フランスを代表する女優、イザベル・アジャーニの登場は衝撃的でした。もし未見の方がいらしたら是非ご覧ください。

2、「ジェラシー」(1980年)監督ニコラス・ローグ

退廃の都ウィーンを舞台に、テレサ・ラッセルが演じる、自殺未遂を犯した情緒不安定だが魅力的な女に、精神分析医の男が翻弄されて行きます。共演は「サイモンとガーファンクル」のアート・ガーファンクルという異色のキャスティング。
時制が錯綜し、少しずつ謎が解き明かされるミステリアスな語り口が魅力的な、「赤い影」等で知られる映像派、ニコラス・ローグの最高傑作です。

3、「白いドレスの女」(1981年)監督ローレンス・カスダン

さえない弁護士(ウィリアム・ハート)は、真夏の蒸し暑い夜に出会った魅力的な人妻(キャスリーン・ターナー)から夫殺害計画に誘われ、破滅の道を歩み始める、エロティックなサスペンス映画です。
「スター・ウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」シリーズ等の名脚本家、ローレンス・カスダンの監督デビュー作ですが、脚本・演出・演技、いずれも見事で、フィルム・ノワールとして、ほぼ完璧な出来映えです。
「悪女映画で1本だけ」と言われたら、この作品をオススメしたいほどです。

4、「ヘカテ」(1982年)監督ダニエル・シュミット

北アフリカの砂漠の街を舞台に、美しく謎めいた人妻(ローレン・ハットン)との恋に運命を狂わされる若い外交官の姿を、ダニエル・シュミットがスタイリッシュに描きます。
男の振り回される様は「精神的SM」とすら言える感じで、ラストのヒロインの微笑みが「男女の間に横たわる深い溝」を鮮やかに炙り出します。

5、「疑惑」(1982年)監督野村芳太郎

夫に対する保険金殺人の疑いをかけられた女(桃井かおり)と女弁護士(岩下志麻)の心理戦を描く、松本清張原作の裁判ミステリー映画です。感情過多に陥り、話の整合性が失われがちな日本映画の悪癖を論理で抑えて、日本映画の情緒とアメリカ映画のロジックを両立させた秀作となっています。
名作「砂の器」の野村芳太郎監督による映画ですが、この作品こそ、松本清張作品の映画化の最高傑作ではないかと思います。

6、「ブラックウィドー」(1987年)監督ボブ・ラフェルソン

富豪の男性と結婚しては次々と殺害して、巨万の富を築いて行く謎の女(テレサ・ラッセル)と、それを追い詰めて行く女捜査官(デブラ・ウィンガー)を描いた秀作サスペンス映画です。「男と女の関係」よりも「女同士のプライドと戦い」に焦点を当てた視点が新鮮で、再評価されるべき作品でしょう。
ボブ・ラフェルソンの監督作品では、現代アメリカ文学の名作をジャック・ニコルソンとジェシカ・ラング主演で見事に映画化した「郵便配達は2度ベルを鳴らす」(1981年)もオススメです。

 

7、「愛という名の疑惑」(1992年)監督フィル・ジョアノー

精神科医(リチャード・ギア)が、美しい患者(キム・ベイシンガー)の関係する殺人事件に巻き込まれて行く、典型的なファム・ファタールもののサスペンス映画ですが、脚本のツイストと女優たち(キム・ベイシンガーとユマ・サーマン)の演技が優れています。
有名な「氷の微笑」と同時期に公開されましたが、こちらの方が印象に残りました。

8、「蜘蛛女」(1993年)監督ピーター・メダック

マフィアと内通している悪徳刑事(ゲイリー・オールドマン)は、マフィアの女殺し屋(レナ・オリン)を護送する任務を負いますが、それが破滅の始まりになります。暴力的で狡猾で、史上最強と言っても良いレナ・オリン演じる悪女のパワフルなスゴさは、ほとんど爆笑の域に達しています。
それまでの、「謎めいて妖艶」といった「悪女」のイメージを完全に覆した、新たな「悪女」の登場です。

9、「誘う女」(1995年)監督ガス・ヴァン・サント

ひたすら「有名になる」ことを望み、そのために夫が邪魔になった地方局のお天気お姉さん(ニコール・キッドマン)は、色仕掛けで高校生に夫を殺させようとしますが…。
実際の事件をベースにしたサスペンス映画で、ニコール・キッドマンが演技派として飛躍するきっかけとなりました。「悪女」と呼ぶには、あまりにセコイ功名心と浅知恵が、苦い笑いを誘います。

10、「Uターン」(1997年)監督オリバー・ストーン

マフィアに借金を返すためにラスベガスに向かっていた男(ショーン・ペン)が、途中で立ち寄った田舎町で謎めいた美女(ジェニファー・ロペス)に出会ったことから、裏切りと殺戮のゲームに巻き込まれて行く、社会派オリバー・ストーンには珍しい、タイトなサスペンス映画です
共演陣も、ニック・ノルティ、ビリー・ボブ・ソーントン、ホアキン・フェニックスなどの演技派が揃い、ジェニファー・ロペスにとって、女優としてのベスト作品でしょう。

以上、「悪女もの」映画のオススメを、いくつかご紹介してみました。
参考になれば幸いです。
(^O^)

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「イニシエーション・ラブ」と「悪女もの映画」①

1、叙述トリック「イニシエーション・ラブ」

2015年に公開された映画で印象に残ったものの一つは堤幸彦監督、前田敦子主演の「イニシエーション・ラブ」です。乾くるみの原作は恋愛小説ですが、その独創的な語り口からミステリーとしても高く評価されていました。

一種の叙述トリック小説なので「映画化不可能」と言われていましたが、堤幸彦監督は大胆極まる方法で映像化し、賛否が分かれましたが、ユニークな作品となりました。原作と異なるクライマックスの処理は、原作者のアイディアらしいですが、素晴らしいと思います。

2、類型的なドラマから新鮮な驚きを

映画は、主人公の繭子と鈴木君が出逢い愛を育む前半と東京に出た鈴木君と地元に残った繭子の心が次第に離れてゆく後半の2部構成で、大人になる過程で誰にでも訪れる「通過儀礼」としての恋愛を描いています。堤幸彦の演出は細部が類型的で繊細さに欠ける面があるのですが、このドラマは類型的な若者たちの類型的な恋を描くことがテーマなので、あまりマイナスになっていません。

そして、映画は類型的なままでは終わりません。この映画は、アクロバティックなストーリーテリングによって、類型的なラブストーリーから、新鮮な驚きと発見を生みだそうとしているのです。

3、前田敦子の魅力

それでも、何度か「凡庸な恋愛映画」になってしまいそうな瞬間があるのですが、それを救っているのが、ヒロインの繭子を演じる前田敦子です。

かなり過剰な「ぶりっこ演技」なのですが実にキュートで、映画の中の鈴木君だけでなく映画を見ている観客も、その魅力の虜にします。映画をご覧になった方にはお分かりの通り、このヒロインは「ぶりっこ」でなければならない必然性があり、前田敦子は見事にそれに応えています。

TVのトーク番組などで見る前田敦子本人は、どちらかというと、ぶりっことは真逆な、そっけない程ぶっきら棒なキャラクターなのですが、そのギャップも含めて、AKB48のエースだった「元トップアイドルならでは」の演技ではないでしょうか。


Tetra Pak® – Couple on beach with Tetra Classic® packages, 1960s / Tetra Pak

4、女は怖い?

映画「イニシエーション・ラブ」の感想で「女は怖い」という声が多く聞かれましたが、それはクライマックスで観客が感じる「驚き」から来るものです。落ち着いて思い返してみると、実は主人公の繭子は普通の女の子であり、その行動も「よくある」ものなのですが、語りのアクロバットにより、一見「悪女もの」のようになっているのです。

しかし、改めて考えてみると、いわゆる「悪女もの」映画のヒロインたちは本当に「悪」なのでしょうか?
彼女たちはなぜ魅力的なのでしょう?


A GI’s Dream Come True…Veronica Lake, one of the popular WWII Pin-Ups / roberthuffstutter

5、悪女もの映画はレジスタンス

「悪女もの」映画は非常に人気があり、ひとつのジャンルといって良いほど、様々なアプローチで作られていますが、改めて考えてみると不思議な感じがします。だって「悪男もの」というのはないですよね?

「悪女もの」のヒロインは、魅力と知恵を駆使して男たちを破滅させますが、私たちは、反感を覚えるより、その姿に惹きつけられカタルシスを覚えます。
それは、彼女たちの行動が、女性の前に長く立ちはだかって来た「男社会の壁に」風穴を開けるレジスタンスだからではないでしょうか?

そこで、そんな「悪女もの」映画からオススメの10本をご紹介したいと思います。

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