月別アーカイブ: 2014年9月

日本のヴァラエティを生んだ男、井原高忠

1、日本のヴァラエティの父

2014年9月14日、日本テレビのディレクターやプロデューサーとして活躍した井原高忠が、米国ジョージア州アトランタの病院で亡くなりました。85歳でした。

今では、井原高忠といっても、ご存じない方が多いのではないでしょうか?
しかし、井原高忠は、日本のTVのヴァラエティ番組の父と言って良い人なのです。

トップアイドルがホストを務め、歌と踊りとコントを見せるショウ番組「九ちゃん!」、ナンセンスなショートコント集というスタイルに挑んだ「巨泉X前武のゲバゲバ90分!」、大人のための情報番組「11PM」、日本初の公開オーディション番組「スター誕生!」、そして「24時間テレビ」。

現在のテレビの音楽番組とヴァラエティを語るときに、井原高忠の功績を避けて通ることはできません。

JAZZ: Cassandra Wilson 7 / Professor Bop

kmarling_111312-0940 / usfpasj

2、創成期の日本テレビへの入社

1929年に東京に生まれた井原高忠は、戦後の日本に津波のように流れ込んだアメリカ文化、ポップスやミュージカル、そしてコメディ映画の洗礼を受けて育ちました。

1950年代初頭には、学生として慶応大学に通いながら、当時日本で空前の人気となっていた、ジャズ・コンサートブームの中で、ベーシストとして活躍します。
ジャズ・ブームは一瞬の花火のように急激にしぼみ、53年には終わってしまいますが、この年、日本初の民放テレビ局、日本テレビが放送を開始します。
そして、井原高忠は1954年に新卒の第1期社員として日本テレビに入社するのです。

このジャズ・ブームは日本のショウビジネスに大きな影響を与えました。
TV放送開始と同時にスターとなったタレントたちは、江利チエミのような歌手だけでなく、フランキー堺やクレイジーキャッツといったコメディアンも、ジャズ・ブーム出身のミュージシャンでした。

そして、当時次々と創業した渡辺プロを初めとする芸能プロダクションや、創成期だったTV局のスタッフの多くも、ジャズ・ブーム出身であり、TV放送の開始と共に爆発的に広がってゆく、日本のショウビジネスを創り、支えて行ったのです。


jazz man / sebastien letellier

Jazz en Vitoria 08 / Guillermo VA

3、本物のショウを日本で

井原高忠が目指したのは、アメリカの本格的なショウ番組を日本に移植することでした。
プロフェッショナルな歌とダンスとコメディアンによる笑いが、隙のない構成で繰り広げられる、洗練されたヴァラエティ・ショウこそが、彼の理想でした。

1960年代の彼の仕事は、正にその実践です。

坂本九をホストにフィーチャーした公開ショウ番組「九ちゃん!」は「ダニーケイ・ショウ」、大ヒットした「巨泉X前武のゲバゲバ90分!」は「ラーフ・イン」、そして「24時間テレビ」は「レーバーデイ・テレソン」。

彼の作品の多くは、アメリカのTV番組にお手本がありました。
しかし、アメリカのショウビジネスを理想としていた井原高忠にとって、それは単なる「モノマネ」ではなく、日本で「本物のショウビジネス」に近づくための道だったのです。

4、渡辺プロとの戦い

しかし、1970年代に入ると、井原高忠に大きな事件が訪れます。
それは、渡辺プロとの戦いです。

渡辺プロは当時最大の芸能プロダクションで、「渡辺プロのタレントがいなければ、音楽番組やヴァラエティ番組は作れない」と言われていました。
全盛時の渡辺プロが、どのくらい凄かったかというと、今のジャニーズとバーニングと吉本興業とAKBが一緒になったようなプロダクションが、存在したと思ってください。
正に芸能界のドンで、TV局の編成に口を出すほどの圧倒的な影響力を誇っていました。

しかし、井原高忠は、渡辺プロの横暴な要求に反旗を翻し「もう、おたくのタレントはいりません」と啖呵を切りました。
その結果、日本テレビは渡辺プロのタレントが使えなくなってしまったのです。
それは、当時のスターのほとんど全部が、日本テレビには出ないことを意味しました。


GC Musical The Boyfriend 8 / Larry Ziffle

Musical #Legaldade50 / Cintia Barenho

5、苦肉の策「金曜10時!うわさのチャンネル‼」

そこで、スターがいなくても面白い番組で対抗しなければ、と作られたのが「金曜10時!うわさのチャンネル‼」でした。

女性歌手の和田アキ子にコメディを演じさせて大人気となり、彼女の「ゴッド姉ちゃん」というキャラクターはこの番組で確立します。

その他にも、プロレスラーのデストロイヤーや現役のボクシングの世界チャンピオンだったガッツ石松をコメディアンとして起用したり、局アナの徳光和夫にタレントをやらせたり、デビュー当時のまだ怪しかったタモリがイグアナの真似をしたり、ごった煮的な、なんでもありの番組でした。

それまでの常識を破る、素人の起用や型破りな内容は、渡辺プロのタレントが使えなくなってしまった為の「苦肉の策」だったのです。

最高時には視聴率が30%を超える人気番組になりましたが、現在のお笑い系のグズグズな「日本式ヴァラエティ」は、この番組が元になっています。

6、ヴァラエティじゃない「日本式ヴァラエティ」

本来「ヴァラエティ」とは、歌がありダンスがあり、笑いがあり、様々な要素が詰まってヴァラエティに溢れているから「ヴァラエティ・ショウ」だったハズです。

しかし、「金曜10時!うわさのチャンネル‼」以後の日本式「ヴァラエティ」は、ヴァラエティとは名ばかりの、決まった型やセオリーの無い、カオス的世界になって行きます。

企画とタレントのブッキングという枠組み作りが番組作りの全てで、台本には「あとはアドリブよろしく」等と書いてあるだけの、緩やかな構成の「ヴァラエティ」は、世界にも珍しい日本独特のものです。


THE iDOLM@STER / kodomut

AKB48 Art Club Exhibition / Dick Thomas Johnson

7、アイドル・ブームを生んだ「スター誕生!」

当時芸能界に君臨していた渡辺プロとの戦いは余りに無謀に見えましたが、井原高忠にはひとつの勝算がありました。
1971年に始まった、日本初の公開オーディション番組「スター誕生!」です。
渡辺プロのタレントがダメなら、自分たちでスターを作れば良い!と、考えたのです。

「スター誕生!」からは、山口百恵、桜田淳子、森昌子、岩崎宏美、ピンクレディー、小泉今日子、中森明菜など、その後の「アイドル・ブーム」を担う、錚々たるスターを輩出しました。

しかし、渡辺プロは「スター誕生!」に参加していませんでしたから、これら新しい時代のアイドルは一人も渡辺プロへ行かず、他の新興プロダクションに所属することになりました。

その結果、渡辺プロは、70年代に始まり現在のAKBまで続く日本独自の「アイドル・ブーム」から、微妙に乗り遅れてゆくことになります。

8、日本のオリジナルな大衆文化

1960年代に圧倒的なパワーで日本の芸能界に君臨した渡辺プロは、70年代に「アイドルの時代」が始まると、すれ違うように衰退して行きます。
その陰には、井原高忠が仕掛けた、日本テレビ対渡辺プロの戦いのドラマがありました。
今の「お笑いヴァラエティ」も「アイドル・ブーム」も、その戦いから生まれたのです。

そして、この二つは、アメリカのショウビジネスの輸入品ではありませんでした。
「訓練されたプロフェッショナルによる、完成されたショウ」ではなく、むしろ「素人っぽさ」や「偶然によるハプニング」が生み出すリアリティが、大衆にもてはやされました。

日本のテレビが独自に生んだ、オリジナルな「大衆文化」だったのです。


Dance studio rehearsal / Felix Padrosa Photography

PotG12.12 (85 of 142) / MrAnathema

9、早すぎるリタイア

「50歳になったら会社を辞める」と公言していた井原高忠は、1980年の51歳の誕生日に、日本テレビを退職してしまいます。
51歳は、当時でもまだ働き盛りで、むしろようやく現場を離れて、これから経営陣へと出世していく時期でしょう。

早すぎるリタイアは、当時日本テレビが完全に読売新聞の傘下に入り、自由な社風が失われつつあった事が、理由の一つだとも言われています。

しかし、井原高忠は、結果として彼が生み出すことになった日本独自の「お笑いヴァラエティ」や「アイドル・ブーム」などの「素人っぽさを面白がるショウビジネス」に、結局は馴染めず、未来を感じられなかったのではないでしょうか?

10、本物のショウビジネスの国へ

井原高忠にとって、本物のショウビジネスは、やはり「ブロードウェイ」であり「ハリウッド」だったのです。
時代が許せば、伝統的な、歌とダンスとコメディアンの「ヴァラエティ・ショウ」を続けて行きたかったのかもしれません。

日本テレビを退職した井原高忠は、1985年に日本を去り、アメリカ合衆国の永住権を得てハワイのホノルルに移住。1990年には米国籍を取得します。
そして彼が生涯の最後を過ごしたのは「本物のショウビジネスの国」アメリカ本土のジョージア州アトランタだったのです。

(文中敬称略しました)

ブックストア ウディ本舗

SF、ミステリ、映画の本などを中心としたネット古書店です。ノンフィクションにも力を入れています。

http://store.south-sign.com/

良心の映画人、リチャード・アッテンボロー

1、リチャード・アッテンボローの死

2014年8月24日、「ガンジー」(1982)でアカデミー賞監督賞を受賞した、イギリスの映画監督兼俳優リチャード・アッテンボロー氏が亡くなりました。90歳でした。


Richard Attenborough / theglobalpanorama

今、リチャード・アッテンボローと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、俳優としてスティーブン・スピルバーグの「ジュラシック・パーク」(1993)に、実業家ハモンドの役で出演した姿ではないでしょうか?

当時、リチャード・アッテンボローは俳優としては、ほぼ引退した状態だったのですが、スティーブン・スピルバーグは、敢えてこの役をリチャード・アッテンボローに依頼しました。

スティーブン・スピルバーグは、しばしば、尊敬する映画人を、自分の映画に役者として登場させて来たのです。

2、尊敬する映画人

スピルバーグの初期の傑作「未知との遭遇」(1977)には、フランスのUFO学者ラコーム博士役として、映画監督のフランソワ・トリュフォーが出演していました。

学生時代のスピルバーグは、トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)に心酔し、トリュフォーを父親のように考え、私淑していました。
トリュフォーの演じるラコーム博士は、「未知との遭遇」という映画全体を包み込む、まるで父親のような存在として描かれています。

そして「ジュラシック・パーク」では、ジュラシック・パークの創始者である富豪ハモンドをリチャード・アッテンボローが演じています。
マイケル・クライトンの原作小説では、ハモンドは強欲な実業家であり、利益のために自然を改造しようとする悪人です。

しかし、スピルバーグの映画「ジュラシック・パーク」におけるハモンドは「童心を忘れず、理想を追求するあまり行き過ぎてしまった人物」として好意的に描かれ、「憎めない祖父」のようなキャラクターに変わっています。

スピルバーグは、映画人として、リチャード・アッテンボローを尊敬していたのです。


World War One 1st Aero Squadron / San Diego Air & Space Museum Archives

3、「反戦と平和」の映画作家

1923年生まれのリチャード・アッテンボローは、1942年から映画俳優となり、数多くの作品にバイプレーヤーとして出演しています。
特に「大脱走」(1963)における、脱走の計画を指揮する脱走王の役が有名です。

アッテンボローは、1960年代の終わりから映画監督にも乗り出し、多作ではありませんが、ひとつひとつじっくり作り上げるスタイルで、約30年間に12本の映画を残しました。

映画監督としてのリチャード・アッテンボローは、第1作の「素晴らしき戦争」(1969)から「反戦と平和」という思想が、一貫して揺るぎませんでした。

「素晴らしき戦争」は、第一次世界大戦が勃発したヨーロッパを舞台に、ミュージカルの手法で反戦を描いた問題作です。

興行的には成功しませんでしたが、第1作から完成された作風で、高い評価を得ました。

4、平和への祈り

イギリス人であるリチャード・アッテンボローは、1980年代に、帝国主義時代の英国の負の歴史を総括するように、人種問題をテーマにした映画を作ります。
「ガンジー」(1982)と「遠い夜明け」(1987)です。

1970年代の南アフリカ共和国を舞台にした「遠い夜明け」(1987)は、アパルトヘイト政策が未だ終わっていない時代に、リアルタイムで、南アフリカ共和国を告発した映画でした。

新人俳優だったデンゼル・ワシントン主演で、アパルトヘイト政権に殺害された、著名な黒人解放活動家スティーヴ・ビコを描いた作品です。

当時は黒人の反体制運動が一番激化している時期だったので、南アフリカ共和国で公開された時には、右翼的な白人勢力によって、映画館が爆破される事件が多発しました。

そして、やはり代表作は、「インド独立運動の父」である「偉大なる魂」マハトマ・ガンジーの人生を描いて、アカデミー賞で作品賞、監督賞など8部門を受賞した「ガンジー」(1982)でしょう。

南アフリカ共和国のアパルトヘイトに接して人種問題に目覚めた、ガンジーの青年時代から始まり、インド人解放のため大英帝国に立ち向かい、そして暗殺されるまでの静かなる戦いの生涯を「アラビアのロレンス」のような壮大なスケールで描いた、伝記映画です。

主演のイギリス人俳優ベン・キングズレーは、インド人の血を引く当時無名の青年でしたが、入神の演技でガンジーに成り切り、アカデミー主演男優賞を受賞しました。

5、遠すぎた橋

私にとってのリチャード・アッテンボローと言えば、まず1977年の「遠すぎた橋」を思い出します。

「遠すぎた橋」は、第二次世界大戦後期に行われ連合軍最大の激戦となったマーケット・ガーデン作戦を描いた、米英合作の戦争映画です。


TBF (Avengers) flying in formation over Norfolk / Marion Doss

イギリスとアメリカのオールスターキャストを集めて、まだCGなんて影も形も無い時代に、当時の金額で90億円!(今の価値に直すと250億円くらいでしょうか?)の巨費を投じて、大物量作戦で第二次世界大戦を再現しています。
戦争超大作として大宣伝が繰り広げられ、男の子たちは期待に胸を膨らませて、映画の公開を待ったものです。

ところが蓋を開けてみると、完全な「反戦・厭戦」映画で、「楽しいアクション大作」を期待して観に行った子供たちは、皆ビックリしてしまいました。

「記録映画か?」と思う程の人海戦術で描かれる戦闘場面は、どちらが勝っていてどちらが負けているのか良く分からない、混沌とした状況でした。
そして、官僚的な上層部の無責任な命令の下に、ヨーロッパの街が破壊され、兵たちは虚しく死んで行きます。

男の子が戦争映画に期待する爽快なゲーム性とは、真逆の映画だったのです。

6、戦争の実相

太平洋戦争で実際に従軍し中国へも出征した1925年生まれの作家、田中小実昌は、「遠すぎた橋」に描かれた「戦争の様相」を非常にリアルだと高く評価していました。

リチャード・アッテンボローは1923年生まれ。やはり青春時代に戦争が「目の前の現実」だった世代です。

「戦闘や戦争は、将棋の勝負ではない。戦争、戦闘と言えば、かならず勝ち負けがあるように思っているのは、戦争物語にダマされているのだ。実際には、そんなふうではない、とこの映画『遠すぎた橋』は、はっきり言っている。」(田中小実昌)


Bastogne Historic Walk 2011 / archangel 12
 
Jewish civilians / Marion Doss

7、正直な映画

リチャード・アッテンボローは、映画史に残るような才能の煌めきを見せたり、独創的なスタイルを発明したりはしませんでしたが、常に誠実に映画に向き合っていました。

太平洋戦争における日本軍の捕虜収容所を描いた、大島渚の「戦場のメリークリスマス」(1983)が公開された当時、原作を書いたイギリス人作家、サー・ロレンス・ヴァン・デル・ポストが来日しました。

ヴァン・デル・ポストは、いわゆる「ハリウッド的な商業映画」には人間の真実が描けていない、と非常に否定的でしたが、映画評論家小野耕世との対談で、こんな会話を交わしています。

(小野)
「リチャード・アッテンボローの『ガンジー』はご覧になりましたか?」

(ヴァン・デル・ポスト)
「未だ観ていない。アッテンボローは良く知っているよ。彼はマジメで良い男だ」
「しかし、ガンジーは世界に大きな謎を投げかけた人物だ。その問い掛けに、答えられるものだろうか?」
「ガンジーの上っ面を撫でただけの映画に、なっていやしないかね?」

(小野)
「『戦場のメリークリスマス』のような深みには欠けるかも知れませんね」
「しかし、誠実につくられた、正直な映画(honest movie)です」

(ヴァン・デル・ポスト)
「正直な映画(honest movie)。それなら分かる…とても良く分かるよ」

リチャード・アッテンボローは、常に誠実な態度で「正直な映画」を作り続けた作家でした。

ブックストア ウディ本舗

SF、ミステリ、映画の本などを中心としたネット古書店です。ノンフィクションにも力を入れています。

http://store.south-sign.com/

宇宙戦艦ヤマトに乗船できなかったワケ

1、ゆ、許せん!

「ゆ、許せん!」中学生になったばかりの私はそう叫んで、テレビのスイッチを切ってしまいました。
その時テレビには、「宇宙戦艦ヤマト」が何度目かの再放送中で、主人公の古代進とヒロインの森雪がヤマトのデッキで会話をしているシーンが映っていたのです。

大和ミュージアム
大和ミュージアム / Norio.NAKAYAMA

NGC2246_2010-12-18_0002_SFBD / jacksonlu

2、宇宙戦艦ヤマト、ハリウッドで実写化!

先ごろ、1974年からテレビ放送されたSFアニメ「宇宙戦艦ヤマト」がハリウッドで実写映画化される、という驚きの発表がありました。
ハリウッド版のタイトルは「STAR BLAZERS」。
これは「宇宙戦艦ヤマト」がアメリカでTV放映されていた時の番組名です。

「宇宙戦艦ヤマト」は、ご存知のように、ガミラス星人の侵略によって放射能で汚染され、滅亡の危機に瀕している地球を救うために、宇宙戦艦ヤマトが放射能除去装置を求めてイスカンダルへと旅立つドラマです。

しかし、「宇宙戦艦ヤマト」をアメリカ人が映画化するというニュースには、多くの人が、どこか違和感を感じたのではないでしょうか?

3、アメリカ製の日本軍礼賛?

「宇宙戦艦ヤマト」は、宇宙を舞台にしたSFではありますが、その背後には、いわゆる「戦中派」であったスタッフ達にとっての、太平洋戦争に対する怨念と憧憬が流れていたのです。

地球を救うための宇宙戦艦ヤマトの戦いは、太平洋戦争末期に無念のうちに沖縄近海に沈んだ戦艦大和の復讐戦でもありました。

そのため、テレビ放映当時から「軍国主義の賛美ではないのか?」との批判も浴びていました。
しかし、背景にある「戦中派の軍国主義に対するロマンティシズム」といったものを完全に排除してしまうと、ヤマトの本質的な魅力も損なわれてしまう、というアンビバレントが有るのです。

そんな、「敗戦国」日本人の軍国主義時代へのノスタルジーを含んだ作品を、「戦勝国」アメリカ人が作るのです。

果たして、ハリウッドでアメリカ人が作る「ヤマト」は、どんな映画になるのでしょうか?


alley karasukojima / Norio.NAKAYAMA
 
imgp6774 / Matoken

4、アニメブームに乗り遅れるな?

私は、世代的にはギリギリ「宇宙戦艦ヤマト」世代だといえます。

ハイティーンが中心となったいわゆるアニメブームは、1977年の劇場版「宇宙戦艦ヤマト」を皮切りに、「松本零士アニメブーム」という形で始まりました。
それまでは完全に幼児向けだったアニメーションに、中学生から大学生までを中心とした若者たちが、つめかけるようになったのです。

しかし、私はどうもその波に乗れないでいました。
それは宇宙戦艦ヤマトに対して「ゆ、許せん!」というほどの怒りを抱いていたからです。

こう書くと「ヤマトの軍国主義礼賛が許せなかったのか?」と思う人もいるかも知れませんが、当時は子供でしたから、そんなことは考えていませんでした。

私が怒っていたのは、ヤマトにおける宇宙空間の描写がデタラメだったからなのです。
しかし、その怒りが「ゆ、許せん!」とまでなったのは、私自身のちょっとしたトラウマが原因になっていました。

4、科学考証への疑問

東宝の「ゴジラ」シリーズを初めとする怪獣映画や円谷プロの「ウルトラマン」シリーズ等、それまでも日本の実写にはSF的映像があふれていました。
けれど、科学考証がデタラメな作品が多く、当時の大人のSFファンからの評価は芳しいものではありませんでした。

こちらは小学生でしたから、喜んで見まくっていたのですが、宇宙空間に上下があったり、空気があったり、重力があったり、子供心にも「これは、なんか変じゃないか?」という描写が満載でした。


Voyage dans la Lune / striatic

MOC-023 LEGO Q Spaceship – Front Quarter / andertoons

5、友達との論争

そして、確か小学5年生頃のことだったと思います。私は友達と「日本SF映像の科学考証」について論争になりました。

その友達は男3人兄弟の末っ子でしたから、お兄さんの影響もあったのだと思いますが、ある時「日本のSF映画なんてダメだよ、デタラメな描写ばっかりじゃないか!」と吐き捨てるように言い始めたのです。

わたしもその点については疑問を感じていたのですが、当時の私は基本的に大人や社会というものを信じている真面目な子供でしたので、こう反論しました。
「待って、確かに日本のSF映画の描写はおかしい。でも、作っているのは大人でプロだよ。いくらなんでも、僕ら小学生が知っている程度のことを知らないハズがないよ。きっと、ワザとやっているんだよ」

「うーん。だとすると、あのデタラメに見えるのは何なんだろう?」
「きっと、僕らの知らない裏設定とかがあるんだと思う。もう少し大きくなったら分かるよ」
「そうだね。そうかも知れない」

論争は、私の勝ちでした。

6、裏切り(^o^)

ところが、大人になるまでもなく、私は徐々に恐ろしい真相に気が付き始めました。
あのデタラメに見えた宇宙空間の描写は、ただの「子供だまし」のデタラメであることが分かってしまったのです!

なまじ、友達を言い負かしてしまっただけに、この裏切り(笑)は私の子供心を傷つけました。
この頃から私は、大人や体制というものを信じない子供になって行った気がします。(^o^)

7、日本SF映画への屈折と期待

一方で、少し大きくなったので、日本実写SF映像のデタラメ描写には、現実的で実際的な事情があることも分かって来ました。

限られた予算の中で、スタジオの天井から糸で釣ったミニチュアで宇宙空間を表現しようとするために、地球の物理法則に縛られざるを得ない、という大人の事情も理解し始めたわけです。
その結果、ますます日本の実写SF映像に対する期待は、しぼんでしまいました。

しかし、私は日本のSFアニメには未だ可能性を見ていました。
アニメは絵ですから、正確な宇宙を描いてもお金がたくさん掛かる訳ではありません。アニメは大人の事情に縛られず、正確な科学考証ができるハズです。


SRS-22 Von Clausewitz / pasukaru76

HMS Nova Scotia / pasukaru76

8、ヤマトよ何故に

「宇宙戦艦ヤマト」は最初の放送時には人気が出ませんでしたが、「今までと違うSFアニメが始まった」と子供たちの間では噂になって、再放送によって少しずつブームになって行きました。
そこで私も、熱心なヤマトファンになった友達に勧められて、再放送の時にチャンネルを合わせてみたのです。

ところが!
アニメなのに、宇宙空間に上下があるのです!
無重力のハズの宇宙空間で、物が下に落ちるのです!
吹きさらし(?)の宇宙空間で、古代進と森雪が、ヘルメットもしないで会話をしているのです!

私は「ゆ、許せん!」とテレビのスイッチをぶち切り、以後アニメブームと距離を置くようになってしまったのです。

私が、日本のSF映像に帰還するのには、「機動戦士ガンダム」の登場を待たなければなりませんでした。

ブックストア ウディ本舗

SF、ミステリ、映画の本などを中心としたネット古書店です。ノンフィクションにも力を入れています。

http://store.south-sign.com/