月別アーカイブ: 2016年8月

演劇ユニット3.14chの新作「大型」鑑賞記

1、SF的なアイディアを通じて日常の違和感を描き出す

演劇ユニット3.14chの新作「大型」を観ました。3.14chは2010年に結成された演劇ユニットで、SF的なアイディアを通じて日常の違和感を描き出す作風です。「大型」は第九回公演ですが、私は過去作を観て感心していたので、今回も期待していました。しかし、今回は劇中の緊張感が持続せず、不覚にも何度か睡魔に襲われてしまいました。体調のせいではなかったと思います。

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2、2作品分の内容を一本に詰め込んでいる密度の濃さ

私が今までに観た劇団3.14chの「小型」と「宇宙船(再演)」です。
「小型」は、ある日急に小さくなってしまった男の物語で、カフカの「変身」やリチャード・マシスンの「縮みゆく人間」的な設定にも拘わらず、極めて日常的な「男女のズレ」を描く…と思いきや、後半はファンタジー的な世界に突入します。

「宇宙船」は、ロバート・ハインラインの「宇宙の孤児」やアーサー・C・クラークの「遥かなる地球の歌」で知られる、SFの代表的アイディアの一つである「世代宇宙船」に挑んだ作品ですが、このテーマは必然的に「世界」そのものを扱うことになります。

 

どちらの作品も情報量が多く、本来は2作品くらいの内容を一本に詰め込んでいる密度の濃さが魅力だったのですが、今回の「大型」は、むしろ情報量をそぎ落とし、殆どセリフの無い動きだけの世界を目指しているように見えました。
しかし、私が観た限りでは、残念ながら、それが成功しているとは思えなかったのです。

3、新作「大型」

劇団3.14chの新作「大型」は、夜のプールサイドで開かれている大麻パーティに始まり、レズビアンであることにより心に傷を負った主人公の女性が、深夜のプールで経験する精神的な旅を描いているのだと“思います”。

冒頭の大麻パーティのシーンからして、セリフで「説明」をするのではなく、間やタイミングで緊張感を出そうとしているので、物語が殆ど進行しないのですが、幻想シーンになると全くセリフがありません。
古代インドの衣装を身にまとったキャラクターによって、ボクシングのラウンドのように、何度もエロティシズムを感じさせるバトルが繰り返され、主人公はそれを目撃します。チベット仏教の「死者の書」がモチーフになっているらしいのですが、説明がないので、多くの観客は、わけが分からず置いて行かれてしまうのです。

4、観客には見えないもの

もっとも、劇中のテンションが持続していないのは、深夜のプールで繰り広げられる幻想のバトル・シーンにセリフがない事が原因ではないと思います。延々と同じようなアクションが繰り返され(作者からすると、それぞれ違う意味が込められている筈ですが、観客からはそう見えてしまうのです)、それに対する主人公のリアクションも「ただ怯える」だけで同じだからなのです。

ですから主人公の心の中で起こっているだろう「精神の変化」も分からず、主人公の「成長」なり「変化」なりが見えて来ません。だから、単調に感じてしまうのでしょう。

冒頭の大麻パーティで散りばめられた伏線らしきものが回収されず、放りっぱなしで終わるのにも、違和感がありました。ラストは、やはり主人公が現実に戻って終わるのがセオリーではないでしょうか?
作者は類型を避けたのかもしれませんが、観客にとっては、フラストレーションが溜まる結果になっていたと思います。

5、「類型」の意味

作劇における類型には、それなりの意味があり、敢えて類型に従った方が良い場合もあるはずです。例えば、SFやファンタジーでは「夢オチ」は「やってはいけないこと」だと言われています。

冴えないプログラマーが世界の救世主となる「マトリックス」がシリーズ化された時、多くのファンは「これって夢オチで終わるのかな?」と想像しました。しかし、当然と言うべきか、マトリックス3部作の主人公はアチラの世界で救世主のまま終わったのです。けれど、マトリックス・サーガのラストは、予想通りで類型的であったとしても、主人公が現実に戻る夢オチであるべきだったと思うのです。
マトリックス・サーガの「マトリックスの世界へ、行きっ放し」のラストは、多くの観客を納得させるものではありませんでした。

「夢オチはいけない」とは言っても、必ずしも類型が悪いのではなく、その扱い方が問題なのではないでしょうか?

6、役者と美術

主役の鵜沼ユカさんは大熱演だし魅力的でしたが、劇のクライマックスに分かりやすいカタルシスが用意されていないので、その熱演を観客が消化し昇華できないもどかしさも感じました。他にもかなり多くの役者がパフォーマンスを見せ、カーニバル的なムードを盛り上げますが、個々の役者に余りしどころがないのは、少し残念でした。

私は、小劇団の芝居を時々観るのですが、劇団3.14chは美術や映像効果のレベルが高いと、いつも感じていました。今回の「大型」もその点は力が入っていて、幻想的な世界を見せてくれます。


near Kawela Bay, HI, United States / izumoi

DSC03387 / GWP Photography

7、『真夜中のパーティ』に始まって『死霊の盆踊り』に終わる

私が「大型」を楽しめなかったのは、こうしたナレイティブでない演劇に対する素養がないせいもあったと思います。モダンアートが、素養がない人には落書きにしか見えないように。ただ、筋を追って内容を理解しようとする普通の観客が、内容に入って行ける取っ掛かりを、もう少し用意しても良かったのではないでしょうか?

余り演劇的素養のない私が観た、劇団3.14ch「大型」の感想は「『真夜中のパーティ』に始まって『死霊の盆踊り』に終わる」というものでした。

意欲作ではあると感じました。しかし、その意欲を受けとめられなかったもどかしさもあって、少し長く感想を書いてみたくなったのです。

上演中の作品に対して批判的な意見になってしまったかもしれませんが、ご寛恕下さい。

しかし、3.14chの一貫したテーマである「幻覚のような芝居を作りたい」には見事に挑んだ作品ではあると思います。
皆さんも、ご自分の眼で体験してみてはいかがでしょうか?

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異色の原爆映画「太陽を盗んだ男」

1、異色の原爆映画

1945年8月6日は広島に原爆が投下された日です。日本映画には今村昌平監督の「黒い雨」を始め原爆をテーマとした作品がいくつかありますが、決して多くはありません。一瞬にして10万人を超える命が奪われた、原爆という日本に余りにも深い傷を残したテーマであるにもかかわらず、と言うより「だからこそ」なのでしょうか?


原爆ドーム / daipresents
 
慰霊碑からみた原爆ドーム / n.kondo

1979年に異色の原爆映画が公開されました。長谷川和彦監督、沢田研二主演の「太陽を盗んだ男」です。

沢田研二演じる中学校の理科教師は、原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、たったひとりで原爆を開発して、日本政府を脅迫します。しかし、原爆は作ったものの、彼には日本政府を脅迫する「目的」がなく「野球のナイター中継を最後までやれ」とか「ローリング・ストーンズを来日させろ」(どちらも、当時の日本では実現できないことでした)といった「どうでもいい」事を要求するしかない、という奇想天外かつ皮肉なアイディアの作品でした。

2、観る者を圧倒するパワー

原案・脚本は、「ザ・ヤクザ」や「蜘蛛女のキス」で知られるレナード・シュレイダーで、英語でも日本語でも脚本の書ける人でした。
主演の沢田研二は、当時、まさにトップ・アイドル・スターで、初主演作が非常に過激なテーマの作品であることに、周囲の抵抗もあったと思いますが、本人の強い希望で実現しました。
長谷川和彦は、これが監督第2作。初監督作品「青春の殺人者」で鮮烈な登場をし、「太陽を盗んだ男」でも高い評価を得ますが、この作品で燃え尽きたかのように、以後、沈黙をしてしまいます。それも仕方がないのか?と思わせるほどの「密度の濃さ」がこの作品には込められています。

「太陽を盗んだ男」は、その挑戦的なテーマと作品に込められた熱量の大きさ、そしてツッコミどころ満載のキッチュさも含め、凄まじいパワーで今も観る者を圧倒します。
私は、定期的にこの映画を観る衝動にかられ、観終わった後は、しばらくの間は興奮が冷めません。

3、信じがたいゲリラ撮影

「太陽を盗んだ男」は、主人公がアパートの一室で原爆を作る過程や、菅原文太演じる刑事との攻防が、非常なリアリティで描かれる一方で、原子力発電所からのプルトニウム強奪や原爆を警察から奪還するといった重要なシーンがコミカルに処理されていて、当時からアンバランスさを指摘されていましたが、それすらも面白さに変えるエネルギーがありました。
そして、この作品には、バスジャック犯と警察による皇居前の銃撃シーンや女装した犯人の国会議事堂への潜入シーンなど、今ならあり得ないシーンのロケ撮影が連続します。

当時から「よく撮影が許可されものだ」と感心していましたが、実は全て無許可のゲリラ撮影で、逮捕されたスタッフも続出したそうです。

ちなみに皇居前でのゲリラ撮影では、監督の長谷川和彦が捕まると撮影が続行出来なくなってしまうので、助監督の相米慎二(!) やアルバイトの大学生(黒沢清!)が矢面に立ちました。もっとも、助監督の相米慎二も逃げてしまったので、警察に行ったのはアルバイトの黒沢清だったそうです。長谷川和彦、相米慎二、黒沢清、という名前の並びは、この作品の日本映画史における重要性を改めて感じさせます。


皇居 / Kentaro Ohno
 
Parliament of Japan / kazuletokyoite

4、映画史上最も美しいカーチェイス

「太陽を盗んだ男」の中で一番驚いたのは、他に車の全く走っていない、無人の首都高速で繰り広げられる犯人と警察のカーチェイス・シーンです。「一体どうやって撮ったのか?」と不思議でしたが、スタッフの車数台で首都高速の入口を塞ぎ「意図的に渋滞を起こして」撮ったゲリラ撮影だったそうです。今だったら、大事件になっているのではないかでしょうか?

しかし「太陽を盗んだ男」のカーチェイスは、勇ましくコミカルなのに、観ていると何故か寂しさに胸をしめつけられるような、印象的なシーンになっています。美しく撮られたカーチェイスのバックに、メランコリックで静かな曲を流した音楽演出が素晴らしく、映画史上で最も美しいカーチェイス・シーンではないかと思います。


on the highway 11 / midorisyu
 
i-phoneで銀座01 / midorisyu

5、主人公はテロリスト

「太陽を盗んだ男」が、今のアクション映画と最も違うのは、沢田研二の演じる「主人公がテロリスト」であることです。2016年にこの作品が映画化されるなら、主人公は菅原文太演じる刑事なったことでしょう。でも、1970年代当時は、これは普通でした。アクション映画の主人公は、多くの場合「体制に刃向かう者」か「体制から外れようとする者」で、ラストは主人公の破滅で終わったものです。

この作品も「目的なきテロリスト」である主人公は、破滅して行くのですが、ラストに「いや、戦い続けることこそが目的であり意味なのだ」という、さらに挑戦的なメッセージを観客に突きつけることで、70年代の反体制的エンタテインメントから一歩前に踏み出しています。

「太陽を盗んだ男」は、エンタテインメントとしても無類に面白い作品ですが、唯一の被爆国である日本の一個人が原爆を作り日本政府と対決する、というストーリーの持つアイロニーは、今こそリアリティを持って、私たちの胸に迫って来るのではないでしょうか?
一見、原爆を軽いエンタテインメントとして扱っているこの作品の監督である長谷川和彦は、「胎内被爆児」であり、「特別被爆者手帳」の保有者でもあるのです。


Vogtle nuclear power plant, Georgia, USA / BlatantWorld.com
 
Steam from Philippsburg nuclear power plant / dmytrok

6、インディペンデント・プロデューサー

「太陽を盗んだ男」は当時の日本映画の水準を超えた圧倒的な作品だと思いましたが、残念ながら興行的には成功しませんでした。私は初公開時に渋谷の劇場に駆けつけましたが、映画館はガラガラでした。しかし映画の中で、劇場のすぐ近くの東急本店が重要な舞台になるので、その「現実感」にドキドキしたものです。

「太陽を盗んだ男」を制作した山本又一朗は、30代になったばかりの、ほとんどキャリアのない、インディペンデントのプロデューサーでした。興行的に失敗したとはいえ、プロデュース第2作で、このような挑戦的な大作を作り上げたのは、やはり驚嘆すべき成果です。インディペンデントだからこそ、成し得たことなのかもしれません。

当時、斜陽になりかけた日本映画界に、角川春樹、山本又一朗、西崎義展といった若いプロデューサーが映画界の外から現れて、日本映画に新風を呼び込んでいました。

映画興行の専門家は、「太陽を盗んだ男」のような娯楽大作映画を興業的に成功させるには、その映画のクオリティだけでは不十分で、角川映画なみの型破りな宣伝力も必要だったと指摘しました。

角川書店の若きオーナーであった角川春樹が映画に進出した角川映画は、その圧倒的な宣伝も含めて、1970年代後半から1980年代にかけての日本映画をリードします。

次回は、そのお話をしたいと思います。

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