1、「この世界の片隅に」は時代の流れの歯止めとなるのか?
こうの史代原作、片渕須直監督の長編アニメーション「この世界の片隅に」は、大きな宣伝もなく公開されましたが、次第に評判を呼び、日本で最も権威が高いと言ってよい今年度「キネマ旬報ベストテン」の第1位に選ばれるまでになりました。
驚くほど丁寧に作られた誠実な作品で、厳しい制作条件の中で、このような精緻なアニメーションを作り上げたスタッフには敬意を表しますが、あまり私の琴線には触れなかったのも事実です。
時代や世界に抵抗せず日々を生きようとする庶民の姿を浮かび上がらせる作品があっても良いとは思うのですが、今の日本で「あの時代」を、そうしたアプローチで描くことを手放しで称賛したくない気がするのです。
それは、今、日本が再び戦争への道を歩もうとしているのではないかと危惧しているからです。そして「この世界の片隅に」が、そうした時代の流れに歯止めをかけようとする作品とは、私には思えなかったからなのです。
2、まるで「天災のように」
第二次世界大戦後の日本の大衆芸能は一貫して、戦争で日本人が受けた被害を「天災のように捉える」(加害者としての側面は意識から捨象する)スタンスで描いて来ました。
そして、その範囲内での表現は悲劇であるほど大衆から称賛されますが、それを逸脱して加害者の顔を覗かせたとたん、支持されなくなるのです。この流れは、近年むしろ強くなりつつあるという印象です。
実際、日本人の多くは、広島と長崎の原爆投下や東京大空襲を「天災のように」捉えて来た面があります。
そして今、福島第一原発事故も「天災のように」捉えたがっているのではないでしょうか?
しかし、どちらも天災ではないのです。(原発事故のきっかけは地震ですが、そのリスクは以前から指摘されていました)。ですから責任者は明確に存在するのです。
その明らかに存在する「時代に対する責任」から目を背けるために、私たちはこれらを「天災のように」思い込もうとするのでしょう。
原爆ドーム Atomic Bomb Dome / yto
呉の港 / *Yaco*
3、「抵抗」という文化のない国
「この世界の片隅に」を観ながら思い出していたのは、原発事故に遭った人々の証言を集めた「チェルノブイリの祈り」などの著作で知られる、ベラルーシのノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチが、福島県を訪れて原発事故の被災地を視察した後に漏らした感想でした。
「国というものは、人の命に全責任を負うことはしないのです。また、福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか」(東京新聞2016年11月29日)
「この世界の片隅に」の善良な庶民の姿が、私には、この「抵抗」という文化のない国の象徴のように思えたのです。
Chernobyl / Fi Dot
Chernobyl / Fi Dot
4、「いかにも善人風」な笑顔
「この世界の片隅に」で気になったのは、目を細めた「いかにも善人風」な笑顔が多用されていることで、原作通りなのかもしれませんが、マンガとアニメーションの表現は違う筈です。
例えば、目を細めて上を向いて料理は出来ません。手元を見るものでしょう。細かいと言われるかもしれませんが、違和感があります。
これは、単に絵の描き方の問題ではなくて「人間や世界をどう捉えて、どう表現するのか?」という思想の問題ではないかと思います。ですから「真剣に料理を楽しんでいる人間は一心不乱に手元を見つめているのであって、善人風の笑顔で目を細めたりしない」というのは大切なポイントだと考えるのです。
この作品は、驚異的な取材を基に作られた実証的なアニメーションの筈なのに、所々こうした類型的な表現が散見されるのです。それは、作者の時代に対する視線の反映なのではないでしょうか。
5、批評的視点の緩やかな拒絶
「この世界の片隅に」の登場人物が時代に批判的でないのは当然ですし、むしろ正しいと思うのです。当時、戦争に批判的な庶民なんて、殆どいなかったのですから。ただ、作り手は今を生きる現代の人間なのですから、作り手の「あの時代」に対する視線は、否定であれ肯定であれ、作品から浮かび上がって来るべきだと考えます。
この作品を評価する人は、作者の視線は作品から充分に感じられると思うのでしょう。しかし私は、作者(原作者・監督共に)は、時代に対する意見を表明することを周到に避けていると捉えました。
だからこそ、この作品はあの時代を否定する人にも、肯定する人にも、等しく受け入れられているのではないでしょうか?
「この世界の片隅に」から感じるのは、作者たちの「あの時代を追体験したい」という強烈な欲求です。しかし「客観性」を盾に、時代に対する批評的視点を持ち込むことを緩やかに拒絶しているとも感じられます。
あの時代の善良な庶民の人生を美しく描く「この世界の片隅に」は、本質から目を塞いで日々の日常だけを近視眼的に肯定するという視点の持ち方において、私には「がんばれ福島!食べて応援」と同じものに見えるのです。