月別アーカイブ: 2017年1月

「抵抗」という文化のない国の美しい詩「この世界の片隅に」

1、「この世界の片隅に」は時代の流れの歯止めとなるのか?

こうの史代原作、片渕須直監督の長編アニメーション「この世界の片隅に」は、大きな宣伝もなく公開されましたが、次第に評判を呼び、日本で最も権威が高いと言ってよい今年度「キネマ旬報ベストテン」の第1位に選ばれるまでになりました。

驚くほど丁寧に作られた誠実な作品で、厳しい制作条件の中で、このような精緻なアニメーションを作り上げたスタッフには敬意を表しますが、あまり私の琴線には触れなかったのも事実です。

時代や世界に抵抗せず日々を生きようとする庶民の姿を浮かび上がらせる作品があっても良いとは思うのですが、今の日本で「あの時代」を、そうしたアプローチで描くことを手放しで称賛したくない気がするのです。

それは、今、日本が再び戦争への道を歩もうとしているのではないかと危惧しているからです。そして「この世界の片隅に」が、そうした時代の流れに歯止めをかけようとする作品とは、私には思えなかったからなのです。

2、まるで「天災のように」

第二次世界大戦後の日本の大衆芸能は一貫して、戦争で日本人が受けた被害を「天災のように捉える」(加害者としての側面は意識から捨象する)スタンスで描いて来ました。
そして、その範囲内での表現は悲劇であるほど大衆から称賛されますが、それを逸脱して加害者の顔を覗かせたとたん、支持されなくなるのです。この流れは、近年むしろ強くなりつつあるという印象です。

実際、日本人の多くは、広島と長崎の原爆投下や東京大空襲を「天災のように」捉えて来た面があります。
そして今、福島第一原発事故も「天災のように」捉えたがっているのではないでしょうか?

しかし、どちらも天災ではないのです。(原発事故のきっかけは地震ですが、そのリスクは以前から指摘されていました)。ですから責任者は明確に存在するのです。

その明らかに存在する「時代に対する責任」から目を背けるために、私たちはこれらを「天災のように」思い込もうとするのでしょう。

原爆ドーム Atomic Bomb Dome / yto
 
呉の港 / *Yaco*

3、「抵抗」という文化のない国

「この世界の片隅に」を観ながら思い出していたのは、原発事故に遭った人々の証言を集めた「チェルノブイリの祈り」などの著作で知られる、ベラルーシのノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチが、福島県を訪れて原発事故の被災地を視察した後に漏らした感想でした。

「国というものは、人の命に全責任を負うことはしないのです。また、福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか」(東京新聞2016年11月29日)

「この世界の片隅に」の善良な庶民の姿が、私には、この「抵抗」という文化のない国の象徴のように思えたのです。

Chernobyl / Fi Dot
 
Chernobyl / Fi Dot

4、「いかにも善人風」な笑顔

「この世界の片隅に」で気になったのは、目を細めた「いかにも善人風」な笑顔が多用されていることで、原作通りなのかもしれませんが、マンガとアニメーションの表現は違う筈です。
例えば、目を細めて上を向いて料理は出来ません。手元を見るものでしょう。細かいと言われるかもしれませんが、違和感があります。

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これは、単に絵の描き方の問題ではなくて「人間や世界をどう捉えて、どう表現するのか?」という思想の問題ではないかと思います。ですから「真剣に料理を楽しんでいる人間は一心不乱に手元を見つめているのであって、善人風の笑顔で目を細めたりしない」というのは大切なポイントだと考えるのです。

この作品は、驚異的な取材を基に作られた実証的なアニメーションの筈なのに、所々こうした類型的な表現が散見されるのです。それは、作者の時代に対する視線の反映なのではないでしょうか。

 

5、批評的視点の緩やかな拒絶

「この世界の片隅に」の登場人物が時代に批判的でないのは当然ですし、むしろ正しいと思うのです。当時、戦争に批判的な庶民なんて、殆どいなかったのですから。ただ、作り手は今を生きる現代の人間なのですから、作り手の「あの時代」に対する視線は、否定であれ肯定であれ、作品から浮かび上がって来るべきだと考えます。

この作品を評価する人は、作者の視線は作品から充分に感じられると思うのでしょう。しかし私は、作者(原作者・監督共に)は、時代に対する意見を表明することを周到に避けていると捉えました。

だからこそ、この作品はあの時代を否定する人にも、肯定する人にも、等しく受け入れられているのではないでしょうか?

「この世界の片隅に」から感じるのは、作者たちの「あの時代を追体験したい」という強烈な欲求です。しかし「客観性」を盾に、時代に対する批評的視点を持ち込むことを緩やかに拒絶しているとも感じられます。

あの時代の善良な庶民の人生を美しく描く「この世界の片隅に」は、本質から目を塞いで日々の日常だけを近視眼的に肯定するという視点の持ち方において、私には「がんばれ福島!食べて応援」と同じものに見えるのです。

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「デビュー作が2つある作家」スティーヴン・スピルバーグ

1、「2つのデビュー作」

「その作家の本質は処女作に現れる」と言われますが、その意味では、スティーヴン・スピルバーグは「デビュー作が2つある」作家です。

スピルバーグの監督第1作というと、一般的には「激突!」だと思われています。アメリカの荒野で主人公がひたすら巨大なトラックに追い掛けられる「激突!」は、シンプルな設定と鮮烈なイメージで、世界中でヒットし、映画作家スピルバーグの出発点となりました。しかし、実は「激突!」は、余りの出来の良さに海外では劇場公開されましたが、スピルバーグがいくつも撮っていたTVムービーの1本だったのです。

「激突!」で高い評価を得たスピルバーグには初の劇場映画のチャンスが訪れます。そこで彼は、以前から気になっていた実在の事件の新聞記事の切り抜きを取りだし、それを監督第1作に選びました。それが「The Sugarland Express」です。

この作品は、日本では「激突!」のヒットにあやかろうと、勝手に「続・激突!カージャック」というタイトルで公開されてしまったので「激突」の続編と思ってしまっている人も多いのですが、全く違う内容なのです。そして、これこそスピルバーグ自身の企画による、真の「映画第1作」なのです。


Steven Spielberg / G155

Steven Spielberg / WEBN-TV

2、続・激突!カージャック

「続・激突!カージャック(The Sugarland Express)」は、前科のせいで親権を奪われてしまった若い夫婦が子供を取り戻そうと暴走し、成り行きでパトカーをハイジャックしてしまう顛末を描いた、コミカルでほろ苦い映画です。タイトルのSugarlandとは、里親に引き取られた子供がいる土地の名前なのですが、同時に自己中心的な「正義」にかられて社会から外れてしまう若い夫婦の無邪気な幼児性を象徴してもいます。

スティーヴン・スピルバーグは、「ジョーズ」を出発点とする80年代的なブロックバスター・エンタテインメントで「ニューシネマの時代」を終わらせた作家と捉えられていますが、彼の映画監督第1作は、間違いなくニューシネマの系譜に連なる作品だったのです。

むしろ、スピルバーグの本質は、自ら企画した「続・激突!カージャック(The Sugarland Express)」にあるのではないでしょうか?これは作家としてのスピルバーグを論じる時に、重要なポイントではないかと思います。

3、「幼児的なアウトロー」にこだわるニューシネマ作家

「続・激突! カージャック」の「幼児的な人間が夢を追って無計画に暴走し、人生を破壊してしまう」というテーマは「未知との遭遇」にも引き継がれています。
「未知との遭遇」の主人公ロイ・ニアリーは、偶然目撃したUFOの真実を追い求めて仕事も家族も捨てて暴走してしまいます。もっとも「未知との遭遇」では、珍しく最後に幻想が現実に打ち勝って終わるのですが。

他にも、レオナルド・ディカプリオが実在の天才詐欺師を演じた「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、当時「なぜ、スピルバーグがこの映画を撮ったのか?」と言われましたが、「続・激突! カージャック」以来の「幼児的なアウトローの暴走による悲喜劇」と考えれば、見事にスピルバーグ的なテーマの映画なのです。

スティーヴン・スピルバーグには「幼児的なアウトローにこだわるニューシネマ作家」の側面があるのです。

4、雇われ仕事では天才

しかし、雇われ仕事である「激突!」は彼の輝かしき第1作として未だに語られ続けている(スピルバーグの最高傑作であるという人すらいます)のに対して、自らの企画である「続・激突 カージャック」は、ほぼ忘れられてしまっています。

確かに「激突!」は「ジョーズ」「ジュラシック・パーク」「宇宙戦争」などスピルバーグ作品で繰り返される「巨大な何かに追いかけられる恐怖」というモチーフが登場した非常に重要な作品です。

スティーヴン・スピルバーグのエンタテインメント作品には、「巨大な何かに追いかけられる恐怖」というモチーフへの執着が生み出す「子供の見た悪夢の現実化」のような雰囲気があり、単なる娯楽を超えた禍々しさを感じさせる瞬間があります。

しかしその天才性は、雇われ監督として、エンタテインメント作品で職人技を発揮するときにこそ現れるのです。

5、「2つのデビュー作」に対する挑戦

一方、スピルバーグ作品には社会派の人間ドラマも多いのですが、そうした真面目な作品に挑むたびに、常に「褒められたいのか」「アカデミー賞が欲しいのか」といった揶揄にさらされ続けて来ました。しかし、彼には「続・激突!カージャック」から一貫して「社会のメインストリームから外れた人間のドラマ」への指向があったのです。

スティーヴン・スピルバーグは驚くべき多作家で、娯楽作品から社会派の人間ドラマまで、ハイレベルな作品を作り続けて来ました。そのバイタリティの源泉は、彼の出発点である「激突!」と「続・激突!カージャック」という「2つのデビュー作」に対する評価の、奇妙なアンバランスにあるのではないでしょうか?

スティーヴン・スピルバーグは、雇われ仕事である「激突!」で偶然に発揮したエンタテインメント作家としての才能は高く評価しながら、自ら選んだ「続・激突!カージャック」を始めとする人間ドラマ路線は奇妙に軽視し続ける世間の評価に、挑戦し続けているようにも見えるのです。

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「未知との遭遇」の主人公はなぜ電気工なのか?

1、大衆は切り落とされる枝葉なのか

社会現象と言えるほど大ヒットした「シン・ゴジラ」は、「もしゴジラが出現したら、日本政府はどう対応するのか?」をシミュレーションしていますので、ドラマの主役は国を動かす官僚と政治家たちであり、ゴジラに蹂躙される大衆の姿はほとんど描かれていません。

余分な枝葉を切り落としてテーマを集中して語るためには正しい方法だと思うのですが、「私たち大衆は切り落とされる枝葉なのか」という違和感を覚えないでもありません。

「シン・ゴジラ」の後半、ゴジラを退治するために外国からの核攻撃の危機にさらされた東京を、若手官僚たちの奮闘が救う「プロジェクトX」のような展開を眺めながら、私は改めてエンタテインメント作家としての「スティーヴン・スピルバーグの特殊性」に思いを馳せていました。


雑踏 / Norisa1

Underline / nSeika

2、スティーヴン・スピルバーグの特殊性

スティーヴン・スピルバーグはSF映画の主人公をエリートにしたがらないのです。彼のスペクタクル的SF作品の主人公は、多くの場合、私たちと同じ一般人です。人類と宇宙人の平和なファースト・コンタクトを描く「未知との遭遇」の主人公リチャード・ドレイファスは電気工ですし、それとは真逆の、宇宙人による悪夢のような地球侵略を描く「宇宙戦争」の主人公トム・クルーズは港湾労働者です。

彼らは市井の人間として、訳も分からず地球規模の事件に巻き込まれ、翻弄されて行きます。スピルバーグのSF映画は常に庶民のドラマなのです。

しかし、これはSF映画の作り方としてはむしろイレギュラーなのであり、スティーヴン・スピルバーグの特殊性を表しているのです。

3、SFの主人公はエリート

SFは、個としての人間の愛や苦悩ではなく人類や世界の運命のような大きなテーマを扱うので、エリートの科学者や官僚を主人公にすることが多く、特にディザスターSFにはその傾向が強くなります。「地球の危機」の進行状況を観客に知らせるには、危機に立ち向かっている政府に近いエリートを主人公にした方が観客に状況を説明しやすく、ドラマも作りやすいからで、これは作劇上の要請なのです。

ディザスターSFの主人公を庶民にしてしまうと「世界がどんな危機に襲われ、それに人類がどう立ち向かったのか」を描くことを難しくしてしまいます。作品のテーマを効率的に語る武器を放棄することになる訳です。

にもかかわらず、スピルバーグが庶民を主人公にし続けるのは、明らかに意図的なのです。

4、「未知との遭遇」での変更

「未知との遭遇」の脚本は、最初「タクシー・ドライバー」のポール・シュレーダーが書いたのですが、そこでの主人公はUFO問題を調査するために米国で実際に設置された「プロジェクト・ブルーブック」に携わるFBIのエージェントでした。しかし、スティーヴン・スピルバーグは「エリートを主人公にしたくない」と言って、自ら電気工に変更してしまったのです。

これは、人類の異星人とのファースト・コンタクトという大事件を俯瞰して論理的に描くためには、明らかに「作劇上は上手くない」変更です。
そしてスピルバーグの描く主人公の電気工は、自分が何に巻き込まれているのかわからないまま、巨大な波に振り回され、人生を破壊されて行くことになるのです。

そこまでして、スピルバーグにはなぜ主人公を庶民にすることにこだわったのでしょうか?


Star trails / Brian Tomlinson

Portrait / Tyrone Daryl

5、SFポピュリスト

かつて70年代のSFブームの頃、作家の開高健が「SF小説の主人公には個性的なキャラクターが少ない」と批判をしたことがあったのですが、それに対して小松左京は、「人類」や「文明」といった巨視的なテーマを描くSF小説の主人公はいわば「人類の代表」なのでフラットなキャラクターの方が良いのだ、という趣旨の反論をしていました。

この小松左京の反論は説得力があったのですが、確かにSFは、いかにもエリートでしかも余り個性的ではないキャラクターが主人公になることが多いのです。それは巨視的なテーマを効果的に語る方法論だったのでしょう。しかし、SFが本来的に有する啓蒙思想と相まって、いわゆる「エリート主義」に陥りやすい傾向があるのではないでしょうか。

そして、スティーヴン・スピルバーグ作品の背後には明らかに反エリート主義が感じられ、大衆を先導するエリートではなく、巨大な運命に翻弄される庶民の目線からSFを語ろうとする「SFポピュリスト」の趣があります。

実は、主人公を社会のメインストリームから少し外れた人間にするのは、スティーヴン・スピルバーグの監督第1作の映画からのこだわりなのです。

次回はそのお話をしたいと思います。

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「シン・ゴジラ」はSFの相対主義に倒されたのか

1、2016年を代表する日本映画

庵野秀明の脚本・監督による「シン・ゴジラ」は事前の予想を覆す50億円を超える大ヒットになり、年末には国民的番組「紅白歌合戦」の幕間劇にまで登場する、2016年を代表する日本映画となりました。

「エヴァンゲリオンのクリエーター、庵野秀明がゴジラを撮った」という刺激的なニュースに興奮していた私は「シン・ゴジラ」を公開初日に観に行きましたが、映画の公開初日に駆け付けたのは久しぶりのことです。

2、リアルなシミュレーション・ドラマ

「シン・ゴジラ」は「ゴジラのような破滅的な災害に直面した時に、日本はどう立ち向かうのか?」という視点で政府や自衛隊の対応をリアルにシミュレーションした見応えのある作品でした。特に、この手のエンタテインメント映画につきものの安っぽい人情ドラマや色恋沙汰を排したストイックな展開は挑戦的です。
装飾的な(本来なら観客サービスである筈の)ドラマを全て削ぎ落とし「日本対怪獣」だけを真面目に描いたこんな歪な作品が、社会現象になる程ヒットしている事実は、日本映画に多くの示唆を与えている気がします。

映像的にもさすが庵野秀明というべきで、中盤のゴジラが東京を崩壊させるシーンの凄まじさは(アニメ的ではありますが)素晴らしく、その「美しいカタストロフ」に陶然となってしまうほどです。

しかし、私の感想は「絶賛」という訳ではありませんでした。

ここでのゴジラは、明らかに東北大震災とそれに伴って発生した福島第一原発事故のメタファーになっているのですが、リアルに取り組んでいるだけに、日本の現状を考えてしまって素直には楽しめないところがあるのです。


都庁 / shibainu
 
東京タワー / Kentaro Ohno

3、官僚と政治家が日本を救う

この作品では官僚と政治家が日本を救います。明らかに3.11を連想させるゴジラ災害(放射能災害)に襲われ壊滅した東京で、ゴジラに立ち向かう若き官僚たちが「日本は、まだまだ大丈夫だ!」と確認し合う(恐らく)感動的なシーンがあるのですが、居心地の悪さに困惑しました。私が今の日本を「まだまだ大丈夫」とは思えないからでしょう。
日本が3.11の巨大な原発事故に直面したあの時、日本の政治家と官僚はこんなに頼もしく(というより「公平」で)立派だったのでしょうか?

一方で、国会を取り巻く市民のデモが一瞬映るのですが、太鼓を鳴らしながら「ゴジラを殺せ!」と連呼しているようでした。明らかに反原発や反安保のデモを連想させようとしていますが、暴力的で浅薄な描き方には「これが作者の市民デモに対するイメージなのか?」と違和感を覚えました。

4、優秀なエリートに導かれる衆愚

この作品は、「ゴジラ災害に日本というシステムがいかに対応するのか?」についてのシミュレーション映画という側面があるので、主役はシステムを動かす官僚と政治家であり、災害に巻き込まれる「大衆」の描写は意識的に避けています。ドラマの緊迫感を高めるという意味では、その意図は分かるのですが、わずかに散見される大衆の描写からは、「優秀なエリートに導かれる衆愚」といった「大衆蔑視」の匂いが感じられる気がしてしまうのです。

また、放射能に汚染された東京の復興について「除染」といった言葉が連発されるのにも抵抗があります。原発の過酷事故による放射能汚染に対して、除染に実質的な効果がないことは、チェルノブイリ原発事故を経験したロシア(ソ連)が証明してしまっています。残念ながら除染は賽の河原で石を積むような虚しい作業なのです。現実には、福島原発事故にかかわる「除染」は、原発周辺産業の救済のための公共事業になってしまっているのではないでしょうか?
日本の「システム」の描き方にしても、理想的な部分のみを美化している側面があると思うのです。

それは、おそらく意識的なものはなくエンタテインメント作品だからなのですが、「シン・ゴジラ」が図らずもエンタテインメントを超えた領域に踏み込んでしまったからこそ、気になるのでしょう。しかし、それは「太平洋戦争と原爆のメタファー」であった初代ゴジラに再び挑戦する宿命でもあるのです。


CIMG0251.JPG / xtcbz
 
CIMG0118.JPG / xtcbz

5、「シン・ゴジラ」が纏うニュートラルな衣装の限界

「シン・ゴジラ」が象徴する問題は、余りにも「今の日本」に直接的に結びついているため、どうしても政治的な見方をされてしまいますが、後半の展開を見ても、じつは日本のオーソドックスな怪獣映画のフォーマットに則った作品で、「伝統的な怪獣映画を徹底的にリアルに描いたらどうなるのか?」という実験だったことが分かります。従って、政治的な側面についてはニュートラルなスタンスを保とうとしています。

しかし、「表現」が3.11のような問題に触れてしまったときに、完全にニュートラルでいることは無理なのではないでしょうか?そこでニュートラルであり続けることは、たとえ作者が意図しなかったとしても、現状の体制を肯定する立場になって行きます。議論で「私は右でも左でもありませんが」と前置きする人が必ず右寄りの結論に行き着くように。

表現は自由ですから、右寄りであっても左寄りであっても構わないわけですが、(意識的であるか否かにかかわらず)ニュートラルな衣装を纏いながら一方に誘導する表現を、私は好みません。
その意味で、「シン・ゴジラ」は最近のテレビに蔓延している「日本スゴイ」と合唱する情報系バラエティ番組と通じるものを感じます。それが、2016年末のNHK紅白歌合戦登場にまで繋がっているのでしょう。

6、「視点の相対化」はSFの武器なのか

SFの特質の一つは「視点の相対化」だと言われますが、私は、SFというジャンルの衰退は「相対主義の堕落」にあるのではないかと考えています。宇宙や未来といった超現実的な設定を駆使するSFの武器は、従来の常識に盲従しない相対主義にあると言われて来ました。

私たちの常識をまったく違った視点から覆し新たな価値観を提示すべきSFの相対主義は、本来なら自らにも刃を向ける危険な「諸刃の剣」だった筈です。
ところがSFは次第に現実と戦うことを避け、やがて「すべては相対的なんだから」と言いながら、現状を無批判に肯定する姿勢の言い訳へと堕落して行ったように感じられるのです。少なくとも、私がSFから距離を置くようになったのは、そのためです。

そして、リベラルな人からは「右翼的だ」と言われ、保守的な人からは「左翼的だ」と言われる「シン・ゴジラ」の持つ相対性も、そうした堕落した相対主義の延長線上にあるのではないでしょうか。
ラストの「ヤシオリ作戦」に倒れたゴジラの姿は「視点の相対化」という衣装に絡みつかれて凍り付いてしまっている日本SFの姿そのもののように、私には見えたのです。

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