月別アーカイブ: 2014年6月

ロングパスはサッカーの背負い投げ

1、本場イングランドのサッカーは力技

サッカーの中継を見ていると「パワープレイ」という言葉を聞くことがありますね。
試合がロスタイムに入った頃に、解説者が「お、パワープレイに入りましたね」と呟いたりします。
パワープレイとは、試合終盤に劣勢となったチームが最後の手段として、身体の大きな選手を前線に張り付かせて、後ろからその選手めがけてロング・ボールを放り込み、何とか点を取ろうとする、まさに力技です。

現代の組織的なサッカーでは、「パワープレイ」は「後がなくなった時の、破れかぶれの戦法」みたいで、あまり良いイメージではありません。

しかし、このパワープレイこそが、サッカーの本場イングランドの伝統的なサッカー・スタイルなのです。

現代のサッカーのプレースタイルには、大きく二つの流れがあります。

それは、イングランドの伝統を受け継ぐスタイルと、イタリアやスペイン、ポルトガルなどの南欧の伝統を受け継ぐスタイルです。

2、サッカーの元祖、イングランド流サッカー

近代サッカーが確立したのは、19世紀イングランドのパブリックスクールでした。

イングランドのサッカーは学校のクラブ・スポーツとして、芝を張ったグラウンドでプレーされました。今のサッカー場と違ってもう少し深い芝ですから、ボールはあまり転がりません。
そこで、高くて長いパスの交換やプレースキックが基本になりました。また、芝がクッションになるので、多少ハードな肉体的接触も大丈夫でした。

その結果、イングランドのサッカーは、後方からロングパスを放り込み、ゴール前でフォワードとディフェンスが肉弾戦をしてゴールに蹴り込む。ファールになったら、フリーキックをする。という、パワープレイ的なサッカーになったのです。


50/50 / Matthew Wilkinson
 
IMG_0660b / Ronnie Macdonald

3、南欧流サッカーはパス・サッカー

イタリア、スペイン、ポルトガルなどの南欧のサッカーは、イングランドから伝わった近代サッカーとイタリアで古くから行われていたカルチョという球遊びが、結び付いて発展しました。

南欧での初期のサッカーは、港町の波止場や街中の広場で行われていました。
街中ですから場所は比較的狭く、石畳ですからボールは転がりやすい状態です。

そこで、細かく早いパスの交換が基本になりました。また、下は石ですから転んだら怪我をしてしまいます。
そこで、厳しい肉体的な接触は避けられ、相手をかわすためのフェイントやドリブルといった技術が発達しました。
その結果、南欧のサッカーは、テクニックを重視したパス・サッカーとなったのです。

4、サッカー、世界に広がる

サッカーは帝国主義と共に、19世紀後半にヨーロッパから全世界に広がっていきます。
そして、それぞれの国には、その宗主国のサッカー・スタイルが、そのまま移植されることになりました。

欧州と並んでサッカーの盛んな南米には、スペインやポルトガルからサッカーが伝わりましたから、ブラジルなどの南米のサッカーは南欧流のパス・サッカーになったのです。

一方、イギリスの植民地にはイングランド流のサッカーが伝わりました。
オーストラリアなどは、今でもイングランド流の伝統を残したサッカーをしています。

世界の国に伝えられたイングランド流や南欧流のサッカーは、それぞれの国の文化や風土の影響を受けながら、独自のサッカーを形作っていきます。


Ellis Park panorama / olmed0
 
IMG_6203 / wjarrettc

5、「現代サッカー」が選んだスタイル

1930年からサッカーのワールドカップが始まります。初期の大会では、参加国は本当にそれぞれ独自のスタイルのサッカーで、ぶつかり合っていました。

ところが、参加国が増えて国際交流が盛んになるにつれて、各国のサッカーは次第に同じような「現代サッカー」という一つのスタイルになっていきます。

それでは、「現代サッカー」は、イングランド流と南欧流の、どちらのサッカーに近いのでしょう?

そう、みなさんお分かりの通り、南欧流のサッカーなのです。

現代の組織的なサッカーは、南欧流のパス・サッカーが基本となっています。
サッカーの元祖である筈のイングランド流サッカーは、いつの間にか時代遅れで少数派になってしまったのです。

6、イングランド・スタイルは日本柔道

今のイングランド代表は、もちろん現代的なパス・サッカーをやっています。
しかし、イングランド代表が南欧流のパス・サッカーを取り入れたのはかなり遅く、1980年代が終わった頃でした。
それまでずっと、伝統的なイングランド流にこだわって来ましたが、それでは勝てないことがはっきりしたからです。

それでもイギリスの人達は、内心では「イングランド流こそ本物のサッカー」だと思っているのです。

柔道に置き換えてみれば、分かりやすいと思います。

日本の柔道は、今や世界中に広がり「世界のジュードー」になりました。
そして、日本の伝統的な柔道は、レスリングの影響を受けた「世界のジュードー」のなかで、少数派の時代遅れになりつつあると言われています。

しかし、私たちはやっぱり、投げ技を中心とした日本流の柔道が好きです。
特に、背負い投げのような大技で豪快な一本が決まると「これが柔道だよ!」と爽快感を覚えます。

そして、イギリス人にとってのサッカーも同じなのです。


Franz Beckenbauer & David Beckham / adifansnet
 
International friendly match / tpower1978

7、ロングパスはサッカーの背負い投げ

イギリス人は、見事なコンビネーションのパスワークで敵を幻惑するよりも、後方から一発のロングパスが、きれいに通った時に快哉を叫ぶのです。

華麗なドリブルでディフェンスをかわす姿を見た時よりも、豪快なフリーキックが決まった時に「これがサッカーだ!」と興奮するのです。

これで、ロングパスとフリーキックの名手だったデイヴィッド・ベッカムがイギリスのスーパースターだった理由がわかります。

彼は、柔道で言えば、古賀選手や野村選手のような「背負い投げの名人」なのです。

イギリス人が本当に好きな、伝統的なイングランド流サッカーの名手だからこそ、国民的なスターだったのです。

8、シンプル・イズ・ベスト

「どちらかと言えば少し古いタイプ」といわれた中村俊輔がイギリスで大きな成功を収めたのも、彼の優れたパスとフリーキックの能力が、イギリスのスタイルに上手くフィットし、そしてイギリスのサッカーファンから愛されたからなのです。

ベッカムの全盛時のプレーを見ると、非常にシンプルです。

私は、ベッカムの美しいロングパスが好きでしたが、日本のサッカーファンには、ベッカムのプレーの評判はあまり良くありませんでした。

「ベッカムって、いつもロングパスを出すかクロスを上げるか、だけでしょう。コンビネーションプレイもドリブルも無いし。確かにフリーキックは凄いけど、単調でつまらないよ」

しかし、ロンドンのパブでこの意見を披露したら、ビールのグラスを持った男性に肩を叩かれ、こう言われるかもしれません。

「坊や、わかってないな。それこそ、サッカーなんだよ!」

それでは最後に、「背負い投げの名手」デイヴィッド・ベッカムのプレーをお楽しみください。

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サッカーの才能の見分け方教えます!

1、「サッカーの才能の見分け方」

休日に散歩をしながら街を歩くと、サッカーボールで遊んでいる子供たちを見かけます。
私が子供の頃は、子供に人気のスポーツといえば何といっても野球でしたが、今ではサッカーが一番人気でしょう。

お父さんたちの中には、自分の息子にサッカーを仕込んで「いずれは長友選手や本田選手みたいに、海外のビッグクラブで…」なんて夢に見ている方もいらっしゃるのでは?
そんな、野心、じゃなくて夢に溢れるお父さんたちに朗報です。

本邦初公開!子供たちの「サッカーの才能の見分け方」をお話ししましょう!

これは国際的に権威のあるサッカーの専門家が言っている、ことではなく、私が勝手に思い込んでいることです。
なんだ…
あ、ちょっと待って!いちおう根拠はあるんですよ。
これは、ある二人の名サッカー選手のインタビューから思いついたことなのです。

その二人とは、あのスーパースター、デイヴィッド・ベッカム選手と日本の中村俊輔選手なのです。


555 / bil_kleb

contested soccer ball / woodleywonderworks

2、デイヴィッド・ベッカム

デイヴィッド・ベッカムについては、さすがに説明不要でしょう。
元イギリス代表で「世界一フリーキックが上手く、世界一ハンサム」と言われた、たぶん世界で最も有名なサッカー・プレーヤーです。

デイヴィッド・ベッカムは少年時代に、すでにサッカーの天才少年としてテレビの取材を受けていました。
以前、その映像がNHKで紹介されていたのですが、ベッカムは、やはり子供の頃から美少年でした。
そして、後年のトラブルメーカーの面影はまだない、初々しいベッカム少年は、テレビカメラに向かって少し頬を染めながら、でも誇らしげに「僕は他の誰よりも、ボールを遠くに飛ばせるんだよ!」と答えていました。


David Beckham / adifansnet

World Cup Qualifiers / tpower1978

3、中村俊輔

「持って生まれた天分」の大きさで言えば、中村俊輔は今までの日本選手の中で最高の選手かもしれません。
中村俊輔は2006年のワールドカップ・ドイツ大会の少し前に、確か外国人のインタビューを受けて、こう語っていました。

インタビュアー;
「中村選手、あなたは歴代の日本代表選手のなかでも、最も才能に恵まれていると思います」「ご自分でそれを自覚したことはありますか?」

中村俊輔;
「実を言うと、あります」「子供の頃から、なんで僕は他の子よりボールを遠くに飛ばせるんだろう?と、いつも不思議に思っていました」

4、ボールを遠くに飛ばせる

もう、お分かりでしょう。
「子供のときから、誰よりもボールを遠くに飛ばせる」これが、二人の名選手に共通していたのです。

「ボールを遠くに飛ばせる」
これって、単純なようでいて、意外に本質的なサッカーの才能なのではないでしょうか?
テクニックは練習で磨くことが出来ますが、ボールを飛ばす地力は、きっと生まれつきの部分が大きいのです。

昔、陸上部の先生に、「持久力は訓練でつけることができるが、スプリントは才能だ」と言われたことがあるのですが(だから私は、長距離を選びました)、陸上におけるスプリントの才能に近いのかもしれません。

そして、ベッカムと中村俊輔のプレースタイルには、共通点があります。
二人とも、フリーキックとロングパスの名手であることです。

5、ファンタジスタ

ここに、「中村俊輔 プレー集 -SHUNSUKE NAKAMURA -The Fantasista」という動画があります。

この動画を観ると、中村俊輔が中田英寿とはまた違ったタイプの、素晴らしいプレーヤーであることが分かります。

体の強くない中村俊輔は、激しいボディ・コンタクトを嫌い、余り走り回りませんでした。
そして、華麗なテクニックで相手を翻弄し、たった一本のパスやシュートで試合を決定づけてしまうのです。

海外のメディアは、中村俊輔のスタイルを「伝統的なゲームメーカー」「オールドタイプのファンタジスタ」と表現しました。

世界のサッカーでは、フィールド全体を走り回り、精力的に守備と攻撃をこなす中田英寿のようなプレー・スタイルがトレンドで、中村俊輔はむしろ少し古いタイプのプレーヤーだったのです。

中村俊輔に対しては「テクニックはあるけれど、守備をしようとせず運動量が少ないスタイルは、現代の欧州では通用しない」という批判的な意見もありました。

「伝統的」とか「オールドタイプ」という言葉には、そうした批判的な意味合いも含まれていたのです。

6、イギリスでの開花

中村俊輔は、2002年8月から2010年2月まで欧州でプレーしますが、イタリアやスペインでは、必ずしも十分な成功を収めたとは言えませんでした。
最も輝いていたのは、2005年8月から2009年6月まで在籍した、イギリスのスコティッシュ・プレミアリーグの強豪、セルティックでプレーした時代です。

特に2006年から2007年にかけてのシーズンでは、スコットランドPFA年間最優秀選手賞を受賞し、アジアの選手としてヨーロッパのリーグで初めてMVPを獲得したのです。

「オールドタイプのファンタジスタ」である中村俊輔は、なぜイギリスで花開いたのでしょう?

そして、フリーキックとロングパスの名手デイヴィッド・ベッカムは、なぜイギリスの国民的スターだったのでしょう?

それには理由があります。
次回は、そのお話をしたいと思います。

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ワールドカップと世代交代、その栄光と影

1、フランス大会と三浦知良

「オレ?オレなのか?」その瞬間、三浦知良選手は自分を指さしながら叫んでいました。

1997年11月16日、フランス・ワールドカップ最終予選、日本対イラン戦でのことです。日本が初めてのワールドカップ出場を果たすためには負けられないこの試合、イランに2対1と逆転されたまま後半18分を迎え、後がない状態でした。

その時、それまで日本の絶対的エースだった三浦知良は、試合途中で交代を命じられ、代わって入った城彰二が、後半31分に中田英寿のクロスボールをヘディングでゴールに突き刺し、2対2の同点に追いつきます。
そして、ロスタイム、中田英寿のシュートのこぼれ球を岡野雅行が押し込み、ついに日本は初のワールドカップ出場を決めたのです。

この歴史的試合の勝利に、日本人はテレビの前で歓喜しました。
そして同時に、意外な表情を浮かべながらピッチを去る三浦知良の姿に、日本代表における世代交代の瞬間を目撃したように感じたのです。

この試合で、日本代表の中心が若き司令塔、中田英寿に移ったのは明らかでした。

結局、日本人で初めてブラジルでプロサッカーの選手となり、Jリーグの発足当初から日本のサッカーのシンボルでもあった三浦知良は、フランスワールドカップの代表選手には、選出されませんでした。


FIFA WORLD CUP 2002 @Saitama / Noriko Puffy
 
International friendly match / tpower1978

2、栄光と影

1990年に23歳でブラジルから凱旋した三浦知良が、記者会見で「日本をワールドカップに連れていくために戻って来ました」と言ったのを覚えています。
日本のサッカーがワールドカップに出場するなんて、まだ「夢物語」としか思えなかった時代のことです。

4年に1度のサッカーの祭典であるワールドカップは、その規模ではオリンピックを超える世界最大のスポーツ・イベントです。
世界中にプロサッカーリーグが出来てサッカーがビッグビジネスになった現在でも、ナショナルチームに選出されることはサッカー選手の誇りであり、ワールドカップで自らの最高のパフォーマンスを見せる事こそが、全サッカー選手の夢なのです。

そんな、サッカー選手にとって特別なイベントであるワールドカップは、世界を代表する名選手たちの世代交代の場面でもあります。

そこには、太陽に手を広げるような栄光と、うつむくような影があります。

3、ドイツ大会と中田英寿

2006年ドイツ・ワールドカップにおけるジーコ監督率いる日本代表は、中盤のミッドフィルダーに中村俊輔、中田英寿、小野伸二、稲本潤一などの、20代の優れた人材を擁し、当時「日本史上最強」と謳われながら、結果は2敗1分けの惨敗に終わりました。

その敗因として間違いなく大きかったのは、ジーコ監督に攻撃力の要として信頼されていた中村俊輔が、大会直前に40度の高熱を発症したこと。
そして、年齢的にも立場的にもチームのリーダーとしてまとめ役になるべき中田英寿が、むしろ孤立し、チームが精神的にバラバラの状態だったことにある、といわれています。

中田英寿がチーム内で孤立してしまったのは、突出した海外での実績から特別扱いに近い待遇を受けながら、怪我で万全のパフォーマンスを発揮できない状態にあったことに加え、中田英寿の人を寄せ付けない性格とサッカーの為には妥協をしない直截的なもの言いが相まって、チームメイトの反発を受けてしまったことでした。

グループ・リーグ最後のブラジル戦に敗れた後、ピッチに倒れこんで動かなくなった中田英寿に声をかけたのは、わずかにキャプテンの宮本恒靖と外国人のコーチだけだったと言います。

この試合を最後に、日本人選手のヨーロッパ進出としてのパイオニアとなった中田英寿は、現役を引退することになります。


shunsuke_1280_1024 / adifansnet
 
World Cup Qualifiers / tpower1978

4、南アフリカ大会と中村俊輔

2010年の南アフリカ・ワールドカップでは、不振という下馬評を覆し、日本は自国開催以外の大会で初めてベスト16進出を果たしますが、その陰でもドラマは起きていました。

日本代表の中心として予選の序盤ではチームを牽引していた中村俊輔が、足首を痛めて次第に調子を落とし、本大会ではスターティング・メンバーから外されることになったのです。

入れ替わるように日本代表のエースとして現れたのが本田圭佑です。彼はデンマーク戦で目の覚めるようなフリーキックを決め、その名を世界に知らしめます。

フリーキックの名手であり、歴代の日本代表の中でも特に優れた才能を持つ中村俊輔は、一度も本来の姿をワールドカップ本大会で見せることなく、この大会で日本代表を引退することになります。

いつもは、試合後のインタヴューで最も明晰に試合を分析して見せる「評論家」でもあった中村俊輔ですが、南アフリカ大会が終わった時には、報道陣の前で「次の代表?ないよ、オレは…」と呟くと言葉が続かず、視線を落として歩き去りました。

5、ブラジル大会の始まり

そして今2014年のブラジル大会が始まりました。
日本は初戦のコートジボアール戦に2対1で敗れる厳しいスタートになりました。

日本は前半早いうちに、本田圭佑のゴールで先制点を上げますが、その後は追加点のチャンスを決められません。そして、後半は暑さでバテたのか足が止まって動けず、コートジボアールに連続して得点され逆転負けとなりました。

これは、ドイツ・ワールドカップの初戦、対オーストラリア戦にそっくりの、嫌な負け方です。

そして、今大会には、ドイツ・ワールドカップとの相似形を思わせることが、もう一つあります。
それは、エース本田圭佑選手の不調です。


KIRIN Challenge Cup / tpower1978
 
final goal / martin english (AUS)

6、ジーコの賭け

ドイツ大会では、当時のエース中村俊輔が本大会前に高熱を発症して、回復しないまま本大会を迎えました。
しかし、日本代表監督のジーコは、中村俊輔に「よほどの事がない限り、私はお前を外さない」と告げました。

この判断は裏目に出て、本大会を通じて中村俊輔の調子が出なかったことが、日本の敗因の一つだと言われています。

けれど、結果論だけで、ジーコ監督の判断を誤りだと決めつけることが出来るでしょうか?
日本が予選を突破する原動力が、中村俊輔だったことは確かでした。

ジーコは中村俊輔に賭け、そして負けたのです。

7、本田圭佑、そしてザッケローニの賭け

本田圭佑は、今大会の予選を、正に中心となって引っ張ってきましたが、昨年末にACミランに移籍してから明らかに調子を落とし、回復しないまま本大会を迎えました。

本田圭佑の状態を不安視する声がある中、ザッケローニ監督は「私は本田を信じる」と、彼を主軸に戦うことを宣言しました。
ザッケローニにもまた、本田圭佑に賭けたのです。

初戦のコートジボアール戦で、本田圭佑は見事なシュートを決め復調の兆しを見せましたが、やはり全盛時には程遠い、鈍い動きに終始しました。

日韓・ワールドカップの日本代表監督だったフィリップ・トルシエはこの試合について「本田圭佑が司令塔の役割ができなかったことが、日本の敗因のひとつだ」とコメントしています。

ワールドカップは始まったばかりです。
この大会で、私たちは、どんなドラマを見ることになるのでしょうか。

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本田圭佑の苦悩と中田英寿の苦闘

1、本田圭佑の苦悩

2013年12月、日本代表の本田圭佑がセリエAの名門ACミランに移籍し、サッカーにおけるエースナンバーといえる10番を付けたのは、大きなニュースになりました。

しかし、本田圭佑は思ったようなパフォーマンスを見せることが出来ず、イタリアのマスコミのバッシングに遭い、チーム内でも少し孤立気味の厳しい状況にあるようです。

やはり、現在低迷しているとはいえ、名門ACミランの10番を背負ったことによる内外のプレッシャーは、相当なものでしょう。

1年目の本田圭佑には、チームメイトからボールがなかなか回って来ませんでした。
これでは満足なプレーが出来るはずがない、と本田選手のファンもイライラしているようです。

けれどこの状況は、中田英寿のセリエA1年目と、とてもよく似ているのです。


En el aire / Jan S0L0
 
AC Milan ultras / olaszmelo

2、中田英寿にボールは来ない

セリエAのペルージャに移籍した中田英寿は、初戦にいきなり2得点を上げる鮮烈なデビューを果たしました。

それでも、1年目の中田英寿にボールは回ってきませんでした。

せっかく中田英寿がスペースに走り込んでもパスをしようとせずに、むざむざ敵に潰されるペルージャの選手たちを見ながら、私はテレビの前でイライラしていました。

しかし中田英寿は「信頼できるかどうか分からない選手に、ボールを渡さないのは当然の事」と、この状況を冷静に捉えていました。
「信頼を勝ち取って、自分にボールを回させるしかない」と。

3、中田英寿の苦闘

ペルージャ時代の1年目に中田英寿は10得点を上げています。それに対して2年目はシーズン途中にローマに移籍したとはいえ、3得点だけでした。
それでは中田英寿のプレーは、1年目の方が良かったのでしょうか?そうでは、ありません。本当に良かったのは2年目のプレーでした。

2年目のペルージャは完全に「中田英寿のチーム」になっていました。
チームメイトからの信頼を得た中田英寿は、司令塔としてゲームを自分の思い通りにコントロールして、本来の「シュートをさせる」役割に徹することが出来るようになったのです。

しかし、1年目の中田英寿は、孤独でした。
彼は自分自身でゴールを奪うことによって、チームの信頼も奪い取ろうと苦闘していたのです。
それが、決して倒れないという闘志をむき出しにしたプレーであり、1シーズン10得点という結果だったのです。

4、ASローマへの挑戦

ペルージャで見事な成功を収めた中田英寿は、2シーズン目の途中で名門ASローマへ移籍します。
この移籍は快挙でしたが、同時に不安視する声もありました。

というのも、ローマには中田英寿と同じポジションにスーパースター、フランチェスコ・トッティがいたからです。
ようやくペルージャが「中田英寿のチーム」になったばかりなのに、ポジションの保証されないビッグクラブへの移籍は止めた方がよい、という声もあったのです。

しかし、中田英寿はASローマでの挑戦を選びました。


Roma-Napoli / luigig
 
ChelseaASRoma-31 / thearcticblues

5、成功とジレンマ

ローマに移籍した中田英寿は、トッティが欠場すると代わりに司令塔を務めたのですが、この時のプレーは本当に素晴らしいものでした。

驚くべき視野の広さでロングパスやスルーパスを次々と決める中田英寿の姿は、ビッグクラブの一員となった喜びと自信に満ち溢れていました。

特に印象に残っているのは、試合後の街頭インタヴューで地元ローマのファンが「何であんな凄いロングパスができるんだろう。頭の後ろに目が付いているみたいだ。ローマは司令塔を、トッティからナカタに代えた方が良いんじゃないかな?」と呟いていたことです。

しかし、トッティも中田英寿とタイプは違いますが素晴らしいプレーヤーであり、しかもローマのみならずイタリアを代表するスーパースターです。

ローマが、トッティを外国人である中田英寿に代えることは、あり得なかったのです。

6、壁

そもそも、中田英寿はトッティと競わせるためにローマに呼ばれたのではありません。
守備的ミッドフィルダーであるボランチとして、ローマに新しい強さをもたらす役割を期待されていたのです。

しかし、慣れないボランチとして起用された中田英寿は、すぐに結果を出すことは出来ませんでした。
選手の層が厚く、常に勝利を求められるビッグクラブでは、「選手を育てる」とか「我慢して使う」という発想はありません。
「すぐに結果が出ない」ことは「レギュラーをつかみ取れない」ことを、意味していました。

その後も、トッティの代わりに司令塔で出ると素晴らしいプレーを見せるのですが、あくまでも代役ですから、出場の機会は次第に減っていくことになります。


Catania-Roma (semif.coppa Italia) / calciocatania
 
Catania-Roma (semif.coppa Italia) / calciocatania

7、本物の一流

現在も、本田圭佑選手がACミランで、本来の司令塔ではなく右サイドで起用されることに苦悩しています。

これについて、ACミランのOBで元イタリア代表のディフェンダーだったコスタクルタは、雑誌のインタヴューに答えて
「本物の一流と呼ばれる選手は、ポジションが少しばかり変わろうとも実力を余すことなく発揮できるものだが、そうではない選手は、やはり自らが最も望むポジションでプレーするより他はない」
「事の核心はポジションがどうとかいう次元にはない、というのが僕の考えだ」
と厳しいコメントを寄せています。

あれだけ見事なプレーを見せていた中田英寿も、名門ASローマにおいては「本物の一流」にはなり切れなかった、という事なのでしょうか。

ローマのカッペロ監督は中田英寿の出場機会が減ったことについて「ナカタには何の問題も無いんだ。しかし、うちにはトッティがいるからね…」と言葉少なに語っていました。

8、挑戦の終わり

ローマでの2年目には出場機会の減った中田英寿ですが、最後に決定的な仕事を残しました。

その年のセリエA優勝を賭けた、絶対に負けられない強豪ユヴェントスとの頂上決戦は、2点を取られたまま後半20分となり、敗色濃厚でした。

そこに、トッティと交代して途中出場した中田英寿は、見事なミドルシュートで2得点にからんでこの試合を同点に持ち込み、ローマの優勝に大きく貢献したのです。

当時ユヴェントスにいたジダンは「ローマはナカタに感謝するべきだ。彼のおかげでローマは優勝した」と話しています。

これが、ローマにおける中田英寿の最後の印象的な仕事になりました。
翌年、中田英寿はセリエAの中堅チーム・パルマに移籍します。
移籍金33億円のビッグ移籍でしたから、高い評価を得ての移籍だったことが分かります。

しかし、中田英寿のASローマでの挑戦は、ここで終わりました。

本田圭祐のACミランでの2年目の挑戦には何が待っているのでしょうか。

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決して倒れない意志、中田英寿

1、 史上最大のワンツー

その時、自陣の左サイドでボールを持った中田英寿は、右サイド前方に向かって大きなロングパスを蹴りました。余りに大きいのでカメラも追いきれません。
「どこに蹴ってんだ?パスミスか?」と思っていると、ボールの飛んだ先、ゴール近くの右サイドにはブラジル代表のカフーが走りこんでいます。

そして、パスを受けたカフーが中央にセンタリングを上げると、驚いたことにゴール前に中田英寿が飛び込んで、見事なボレーシュートを決めたのです!

フィールド全体の3分の2は使った、こんなバカでかいワンツーを初めて目にしました。

2000年のセリエA、ローマ対ウディネーゼ戦のことです。この時、中田英寿はローマの司令塔で出場していたのです。


FLAMENGO 2 X 1 GOIÁS / Digo_Souza
 
celebrations after 1st half goal / martin english (AUS)

2、 全国民がサッカー評論家になる季節

いよいよワールドカップ・ブラジル大会が始まります。
ブラジルでは、政府に対する国民の「ワールドカップどころではない」という不満が吹き荒れて大変な状況のようです。(これは、日本も全く他人事ではないですね)

とは言え、やっぱり4年に一度のお祭りです。すべての日本人がサッカー評論家になる季節がやってきたのです。
そこで、私もその尻馬に乗ってサッカーについて書いてみたいと思います。

サッカーに詳しい方から見ると「何言ってやがんだ」という面もあると思いますが、そこは「4年に一度のお祭りの賑やかし」ということで、大目に見て頂けると嬉しいです。
もっとも、私が書くからには、昔話になってしまうのですが…。

3、甦った、中田英寿「映像追っかけ」の頃

そもそも、私がサッカーについて書こうと思ったきっかけは、最近youtubeで

「中田英寿 プレー集 -HIDETOSHI NAKATA The Legend-」

という動画を観たからです。2012年7月11日 に公開されているので、もう2年ほど経っていますから、すでにご覧になっている方も多いかも知れませんが、私はつい最近、偶然みつけたのです。

この動画は編集、音楽ともになかなか見事な出来映えで、動画を見つけた日は、繰り返し繰り返し何度も見てしまいました。

引退して旅人になってしまってからは興味が無くなってしまいましたが、私は現役時代の中田英寿選手のファンでした。
中田英寿は、1998年7月に当時世界最高のリーグだったセリエAのペルージャに21歳で移籍、強豪ユヴェントスとの開幕戦でいきなり2ゴールを上げるという衝撃的デビューを飾りました。
それにショックを受けて以来、私はセリエAでの中田英寿の「映像追っかけ」をするようになったのです。

そして、この動画は、当時私が深夜に衛星TVで、夢中になって中田英寿の試合を観ていたころの興奮を思い出させてくれたのです。

4、決して倒れない意志

通常この手のサッカーの名場面を集めた動画は、シュート・シーンを中心に構成されていることが多いのですが、それでは、中田英寿のプレーの魅力は判りません。

ところが、この動画はドリブルによるボールキープやスルーパスのシーンを数多く紹介していて、全盛時の中田英寿のプレーをリアルタイムで見たことが無い人達も、そのプレーの凄さの一端を見ることが出来ます。

全盛時の中田英寿の凄さは、プレーのスピードと判断の速さ、そして簡単には倒されない体幹の強さであり、驚くべき視野の広さで繰り出されるスルーパスやロングパスでした。
特に、一度ボールを持つと、ラストパスやシュートに持ち込むまで絶対に倒れようとしないプレーは、驚嘆すべきものでした。

当時の彼のプレーを見ていると「ファールというルール」を知らないんじゃないか?と思うほどです。

現役時代の中田英寿が倒されてファールをアピールする場面を見たことがありません。それどころか、アウェーの試合でも中田英寿が倒れると必ずファールの笛が吹かれました。

通常はホームタウン・デシジョンのためアウェーの選手はなかなかファールを採ってもらえないので、これは珍しいことなのですが、中田英寿の場合「誰がどう見てもファール」の時にしか倒れようとしなかったので、審判員も笛を吹かざるを得ないのです。

はっきり言って、こんなプレーを見せる選手は、欧州のトップ・プロにだって、いませんでした。


DV863708 / tunisiafun
 
Football at Fenway – Red Bleachers / Eric Kilby

5、世界最高峰の壁

しかし、中田英寿の本当の全盛期は意外に短くて、セリエAのペルージャとローマに在籍した1998年~2000年の3年間だったと思います。
ペルージャの2シーズン目の途中でローマに移籍した1999年は特に素晴らしかった。

もちろん、中田英寿は一貫して優れたサッカー選手でしたが、この3年間のプレーは飛び抜けて素晴らしく、見るものを夢中にさせました。

中田英寿はペルージャで、最初のシーズンに10ゴールを上げる目覚ましい活躍を見せ、2シーズン目の途中に名門ASローマへの移籍を果たします。ローマの監督だったファビオ・カペッロが、中田の獲得を強く希望したのです。

当時の日本はフランス大会でワールドカップに初出場したばかりで、しかも3戦全敗という結果でした。
そんな日本のサッカーが国際的に全く評価されていない時代に、21歳の選手がセリエAに行ったことすら大ニュースでした。しかも、1年目から見事な実績を上げ、2年を待たずしてビッグクラブからのオファーを獲得したのですから、これは本当に大変なことだったのです。

中田英寿の前途はさらに輝いているように思われました。

しかし、監督に熱望されて移籍し、しかも全盛期の素晴らしいプレーを見せていたにも関わらず、中田英寿のローマ移籍は完全な成功とは言えませんでした。

「全盛期なのに成功ではない」これが、当時世界最高峰セリエAの壁だったのです。

この続きは、次回にお話ししたいと思います。

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タイタニックは吊り橋理論

1、初めて泣いた「タイタニック」

1997年12月、世界最大のヒットとなった「タイタニック」を女の子で満員の映画館で観ながら、私はボロボロ泣いていました。

恋愛映画を観て泣いてしまったのは、初めての経験でした。
涙が止まる前に明るくなり始めた劇場で、私は泣いていることが周りバレないかと焦っていましたが、前の席にいるカップルの男も泣いていたので少し安心しました。
劇場内を見回すと、けっこう泣いている男性もいます。

その時、私は気が付きました「この作品は恋愛映画における、吊り橋理論の実践ではないだろうか?」と。


The Titanic / State Library of Queensland, Australia

Cruise Ship HDR – 52 / Kabacchi

2、吊り橋理論

「吊り橋理論」をご存知でしょうか?近年はかなり有名になった学説なので、知っている方も多いと思います。

吊り橋理論とは、人は生理的な興奮と恋愛という感情を混同してしまうという心理学の考え方です。
対岸にいる人を見つめながら吊り橋を渡っていると、いつの間にか吊り橋の向こう側にいる人を好きになってしまう、というのです。
吊り橋が怖くてドキドキしているという生理的現象を、対岸にいる人が好きでドキドキしている恋愛感情だと、脳が勘違いしてしまうのです。

本当かよ?と思いますが、これはカナダの心理学者が1974年に実証実験に基づいて発表した学説で、ほぼ正しいと考えられています。

3、衝撃の「サブリミナル・マインド」

私が吊り橋理論を知ったのは「サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ」(下條 信輔:中公新書)という本からでした。
これは、認知科学者である著者の、東大における心理学の講義録をまとめた本なのですが、人間の感情のかなりの部分が、じつは主体的な思考などではなく、生理的物理的反応に過ぎない、という事実を解き明かした衝撃の本なのです。

この本を読んでいると、それまで確実なものだと思っていた「自我」や「自意識」といったものが、真夏の道路に落としたアイスクリームのように溶けてゆく感じがします。
私たちは自分たちで思っている以上に、「考える葦」ではなく「考えない機械」なのだ、という現実を突きつけられます。

講義録なので読みやすく、しかも知的興奮にあふれた一冊なので、ぜひ読んでみて下さい。

4、アクション映画「タイタニック」

映画「タイタニック」は、豪華客船タイタニック沈没の悲劇と主役二人の悲恋を重ね合わせたドラマです。タイタニックの処女航海のように、一夜だけ輝きそして失われた二人の愛に、世界中の観客が涙を流しました。
恋愛映画の人気投票をしたら、今でもかなりの上位にランクされるのではないでしょうか?

ところが、改めて「タイタニック」を観てみるとレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの恋愛描写は、いかにも型どおりな上に、ろくに描かれていないのです。
映画の大部分は、沈みゆくタイタニックから何とか脱出しようとする二人のサスペンスとアクションで占められています。

監督は「ターミネーター」や「エイリアン2」でヒットメイカーとなったジェームズ・キャメロンですから、サスペンスとアクションはお手のものです。浸水した客室から二人が何とか逃げ出そうとするあたりはものすごい緊張感で、何度観てもハラハラドキドキします。

5、吊り橋理論による恋愛映画

そう、私たちは、主役二人のサスペンスとアクションにドキドキしている内に、いつの間にか二人のラヴロマンスにドキドキしていると、勘違いさせられてしまっていたのです。

「タイタニック」を上映している映画館では、「男が泣いている」光景がよく見られました。 恋愛映画にカップルはつきものですが、大抵は女性だけが泣いて、男性の方は優しく肩を抱いたりしているものです。
ところが「タイタニック」では男も一緒に鼻水を垂らしたりしていて、その後のデートプランの障害にならないかと、心配になったものです。

私もそうですが、男は一般に「恋愛ドラマで泣く」ことには、かなり高い心理的障壁があるものなのです。
この「タイタニック」の男性観客に対する破壊力も、吊り橋理論で説明することができます。

本当は「恋愛ドラマ」に心を揺さぶられていたのではなく、「サスペンスとアクション」に心を揺さぶられていたので、男性にとっても抵抗感が少なかったのです。


Pondside / mrhayata

谷瀬の吊橋 – Suspension bridge of Tanize // 2010.07.28 – 06 / Tamago Moffle

6、アクション監督によるラヴロマンス

ジェームズ・キャメロンが、吊り橋理論を意識していたとは思いません。

ですが「アクションは得意だがドラマは苦手」だと評されていたキャメロン監督が初めて手掛けるラヴロマンスの作り方としては、「決死のアクションとロマンスを同時に描く」というのは、実に上手い戦略だったと思います。

「だから、泣いてもしょうがないんだ!」と自分に言い聞かせながら、私は明るくなった映画館で、ティッシュを取り出して、さかんに鼻水をかんでいました。
隣からの視線が、なんとなく冷めているように感じたのは、気のせいでしょう。

その日は私もデートだったのですが、二人で喫茶店で軽い食事をした後は、それぞれ真っ直ぐ家に帰りました。

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タイムトラベル・ファンタジーの原点

1、リチャード・マシスン異色の名作

タイムトラベル・ファンタジー「ある日どこかで」(小説原題:Bid Time Return)は、モダンホラーの元祖リチャード・マシスンにとっては、ちょっと異色の名作です。

この小説は1976年度の世界幻想小説大賞を受賞しているのですが、日本ではすぐには翻訳されませんでした。

まず1980年に映画化「ある日どこかで」(映画原題:Somewhere In Time)が公開され、かなり経って2002年に原作が翻訳されました。
それまでのホラー作家マシスンのイメージと、かけ離れていたからでしょう。

旧市街旧市街 / PlatonM

2、タイムトラベル・ファンタジー映画の原点

タイム・トラベルとラヴロマンスを融合した作品なんて、今では、それこそ腐るほどありますが、映画においては「ある日どこかで」が原点といって良いでしょう。
というより、その後のタイムトラベル・ファンタジー映画の多くは、直接または間接に、この作品の影響を受けているのです。

1980年代の後半から大量に発生したタイム・トラベル映画の出発点は、一般的には1985年公開の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だと思われていますが、そのさらに源流には「ある日どこかで」があったのです。

例えば、大林宣彦が原田知世主演で「時をかける少女」を撮った時に、スタッフに「こんな映画にしたい」と参考に見せたのが「ある日どこかで」でした。

「ある日どこかで」は今ではカルト的な作品になっていますが、ファンタジーとはいえ、こんなストレートなラヴストーリーがカルト作になるのも、珍しいことです。

カルト・ムービーの多くは、それまでの常識をくつがえすような強烈な価値観やイメージを提示することによって、熱心な信者に支持されカルトになるのですが、この作品はむしろ、シンプルにオーソドックスでノスタルジックであることによって、カルトになっています。

ところで、タイム・トラベルを描いた映画はそれまでにも沢山ありました。
その中で「ある日どこかで」は何が違ったのでしょうか?

3、思考実験としてのタイム・トラベル

タイム・トラベルというアイディアが最初に登場したのは、19世紀のSF作家H・Gウェルズの「タイム・マシン」ですが、そこで描かれた時間旅行は超未来への旅でした。


Boston Future / Infrogmation
 
Alec Ross and Emily Banks at the AMCHAM reception in Auckland, August 31, 2012 / US Embassy New Zealand

H・Gウェルズは「すべてのSFの父」といって良いほど、様々なSF的アイディアを発明した作家ですが、歴史家であると共に進歩的な社会思想家でもありましたので、彼にとってのSFとはエンタテインメントというより、人類や社会を考察するための道具だったのです。

ですからH・Gウェルズにとっては「タイム・トラベル」も「未来社会はどうなるのか?」「もしも、あの時歴史が変わっていたら(もし、ヒットラーが殺されていたら…、もし、ケネディが暗殺されなかったら…)どうなっていたか?」といった、思考実験のためのアイディアでした。

その後、さまざまな作家によってタイム・トラベルが描かれましたが、その多くは、やはり未来社会への旅や過去の歴史的事件への遭遇(「戦国自衛隊」のパターンですね)などの、「思考実験としてのSF」でした。

4、ノスタルジーとしてのタイム・トラベル

ところが、「ある日どこかで」はそんなSF的アイディアであるタイム・トラベルを「古き良き時代へのノスタルジーを実現するための道具」にしました。
主人公は「過酷で汚い現代よりも、古き良き過去で生きたい」という誰の心にも潜む、ノスタルジックな願望をタイム・トラベルによって叶えるのです。

SFというより、ロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」のようなファンタジーの味わいなのですが、タイム・トラベルという知的アイディアを加えることで、懐古的ファンタジーに「心理的なリアリティ」の厚みが増したのです。
これは、一つの発明でした。

その後、雨後の筍のように発生する「主人公がタイムスリップして懐かしい過去を再体験する」タイムトラベル・ファンタジーの、これは走りでした。

しかし、このアイディアは「ある日どこかで」のオリジナルではないのです。

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R0011627 / sun_summer
 
スペイン / PlatonM

5、ジャック・フィニィの世界

小説の世界には、「ある日どこかで」のさらにルーツが存在します。それはジャック・フィニィという作家の作品世界です。

ジャック・フィニィは1950年代から70年代にかけて活躍した、ミステリとSFとファンタジーの境界線上で、独自の奇妙な味わいの世界を描いた作家です。
実はSFホラー「ボディ・スナッチャーズ」の原作者でもあるのですが、最も有名かつ重要なのは、タイムトラベル・ファンタジーの作家としてなのです。

ジャック・フィニィは短編集「ゲイルズバーグの春を愛す」(1960)や長編「ふりだしに戻る」(1970)などで独自の懐古的で耽美的なタイムトラベル・ファンタジーの世界を作り出し、正にカルト的な存在となりました。

ジャック・フィニィのタイムトラベル・ファンタジーは世界中に多くのフォロワーを生み、日本でも、広瀬正の「マイナス・ゼロ」や小林信彦の「イエスタデイ・ワンス・モア」などが有名ですが、それこそ「一つのジャンルを作った」といっても良いほどです。

リチャード・マシスンは、映画「ある日どこかで」の中で、主人公にタイム・トラベルの方法を教える先生を「フィニィ教授」と名付けて、ジャック・フィニィにオマージュを捧げています。

「ある日どこかで」は、ジャック・フィニィ的世界を最も見事に映像化して見せた作品です。
映画「ある日どこかで」に感動した人は、ぜひジャック・フィニィの小説世界にも触れてみてください。

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いつかどこかで「ある日どこかで」

1、「タイタニック」の元ネタ?

その時私は、ジェームズ・キャメロンの超大ヒット作「タイタニック」を映画館で観ながら「あれ?この感じは以前に観たことがあるぞ?」と、泣いていることが隣の女子高生3人組にバレないように願いながら、考えていました。


THE WORLD / mah_japan

Hikawa Maru / yukop

「タイタニック」のオープニングは、現代で老女となったヒロインの回想から始まります。そして、ラストでは死に逝く二人が幻想の中で結ばれつつ終わります。ラストシーンでは、ディカプリオ演じるヒーローが天国の門で、手を差し出してヒロインを迎えます。
「タイタニック」みたいに船が沈んだりはしないので、内容的には直接関係ないのですが、この導入部とラストがそっくりな映画が存在します。

その映画は「ある日どこかで」という、全くヒットしなかった映画でした。

画像ある日

2、ある日どこかで

映画「ある日どこかで」(原題:Somewhere In Time)は、 監督ヤノット・シュワルツ、主演はクリストファー・リーブとジェーン・シーモア、そして原作・脚本はモダンホラーの元祖リチャード・マシスンで、1980年に公開されました。

ストーリーは劇作家志望の処女作の上演パーティーから始まります。主人公の青年はパーティーで見知らぬ老女に「帰ってきて」と呼びかけられます。数年後、作家となった主人公は昔の面影を残すグランド・ホテルを訪れて、ロビーに飾ってある20世紀初期の古い女優の写真に恋をします。
そして女優の年老いた姿こそ、あの日の老女だと知った主人公は、その女優に会うためにタイム・トラベルを決意するのです。

主演のクリストファー・リーブは「スーパーマン」の次に殺到するオファーを振り切って、この作品に出演しました。

ヒロインを演じたジェーン・シーモアは元ボンド・ガールというだけで、その後はパッとしていませんでしたが、この作品から徐々に女優として評価されていきます。
のちにTVドラマ「ドクタークイン」で西部開拓時代の女医を演じて、アメリカでも国民的なスターになりました。
オールドファッションでありながら、現代的な性格のドクタークインのキャラクターは「ある日どこかで」のヒロインの延長線上にあるといえます。

しかし、今でこそ彼らのキャリアにとって重要な作品と考えられていますが、当時は二人ともこの映画に出演したことを後悔していたのではないでしょうか?

3、興行的大失敗

実はこの作品、公開当時はアメリカでも日本でも大失敗でした。
批評は酷評、映画館はがらがら、日本での上映も一週間で終わってしまいました。

理由はあまりにも時代とずれていたからです。

当時は、スターウォーズやスーパーマンがすでに公開され、ハリウッドが徐々にエンタテインメントへの回帰を始めてはいましたが、まだまだニューシネマの香りが残っている時代でした。
恋愛映画も、あくまでもシリアスで苦いドラマが主流で、真面目な聾唖学校の女教師が、夜は別人のような男漁りをして破滅する「ミスターグッドバーを探して」や、夫の浮気から離婚してシングルマザーとなってしまった主婦が、女性としての自立に目覚めてゆく「結婚しない女」などが大ヒットしていました。
(ちなみに、両方とも非常に優れた映画です)

そんな時代に公開された、時を超えた純愛を描く「ある日どこかで」は、あまりにも陳腐で古臭いと思われたのです。

4、カルトムービーへ

しかし、スタッフの狙いは、あえて古臭いラヴロマンスをファンタジーの形を採って復活させることにあったのです。

実際、これだけ(良くも悪くも)純度の高いラヴロマンスも珍しいでしょう。
2日間で終わる主役2人のロマンス以外の要素は、いっさい存在しません。2人がなぜ惹かれあったのかについてもほとんど描かれず「運命としか言いようがない」といった感じの描きかたです。

しかし、徹底して余分な要素を排除した結果、ラヴストーリーとしての完成度は高くなっていて、脚本・演出・音楽・映像そして演技、全てにおいて今観てもほぼ完璧な出来です。
特に印象派のようなタッチで捉えられた20世紀初頭のグランド・ホテルの景観やジョン・バリーの音楽は素晴らしい美しさです。

そして、この映画は公開後に口コミで徐々に人気を高め、今でも熱心なファンサイトが運営されるほどカルト的な作品になっています。


Lovers walking Donjon of Edo Castle / 江戸城天守台を歩く恋人たち / Dakiny

5、いつかどこかで「ある日どこかで」

「ある日どこかで」は公開当時は失敗しましたが、その後の多くの作品に影響を与えました。そして、その中で最もメジャーな作品が、ジェームズ・キャメロンの「タイタニック」なのです。

「タイタニック」と「ある日どこかで」は、導入部とラストを現代からの回想で挟み込む構成がそっくりです。
特にラストシーンは、男女の位置関係が逆転していますが、ほとんど同じといって良いほどです。
「タイタニック」はジェームズ・キャメロンが初めて作ったラヴロマンスでしたから、当然、過去の名作をお手本にしたでしょう。

けれど、ラヴロマンスの名作なんて、世の中に星の数だけあります。幾らでもあります。
それなのに「今回の作品は、初めてラヴロマンスに挑戦しよう!」と決意した時に、どちらかと言えばマイナーなファンタジー作品である「ある日どこかで」を引用してしまうジェームズ・キャメロンは、やっぱりオタクだなぁ…と思うのです。

これからも、いつかどこかで「ある日どこかで」に影響をうけた作品に出合うかもしれません。

というのも、「ある日どこかで」が与えた影響は、単にラヴロマンスというのではなく「タイムトラヴェル・ファンタジー」というジャンルを映画の中に作ってしまったことにあるからです。

次回は、そのお話をしたいと思います。

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伝説の男がモダンホラーの夜明けを生んだ

1、「ゾンビ」との出会い

1979年3月、ジョージ・ロメロ監督の「ゾンビ」(原題:Dawn of the Dead)という映画が日本で公開されました。マスコミの扱いは、春休み向けB級ホラーのひとつ、といったバカにした感じでした。

ゾンビ

「ゾンビ」は、未だに映画やTVドラマ、ゲームなどで新作が作られ続けているゾンビ物エンタテインメントの、すべての原点と言える作品です。
今では名作扱いされていますが、公開当時はこの作品の本質がホラーというより人類の終末を描いたSFである事が理解されず、批評家たちにゲテモノとして黙殺されました。

しかし、多くの少年たちが映画館の片隅で「これは今までのホラー映画とは違う何か新しい世界だ!」と興奮していました。

そして映画「ゾンビ」は、明らかにリチャード・マシスンの小説「地球最後の男(アイ・アム・レジェンド)」がなければ生まれなかった作品でした。

2、「アイ・アム・レジェンド」

マシスンの死亡を伝えるニュースで、リチャード・マシスンが「映画『アイ・アム・レジェンド』の原作者」と紹介されていたのは、少し複雑な心境でした。
「アイ・アム・レジェンド」(2007年)はマシスンの代表作のひとつ「地球最後の男(アイ・アム・レジェンド)」をウィル・スミス主演で映画化した作品です。しかし、これが、原作の精神を完全に裏切ったちょっと困った映画だったのです…。

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小説「地球最後の男」は、吸血鬼に支配された地球で最後の人類となった主人公が、生き延びるために孤独に吸血鬼狩りを続けるのですが、この設定は東西冷戦期におけるアメリカ人の共産主義に対する不安のメタファーになっています。

そして、ラストには「いまや地球では吸血鬼たちこそが新しい人類であり、彼らを殺し続ける自分の方が怪物になってしまったのだ」と、気づかされてしまう衝撃の展開となります。
当然のように信じていた正義や正当性がいつの間にか逆転して、自分が「少数派の悪」になったことを気づかされるのです。

ここで、原題「アイ・アム・レジェンド(私は伝説)」の意味が皮肉に浮かび上がってきます。

ホラーのアイテムを使って、まさにSFの神髄である価値観の相対化を鮮やかに実現させた、奇跡のような作品でした。

3、映画化の難しさ

ところが、映画「アイ・アム・レジェンド」では、ウィル・スミス演じる主人公がラストで人類を救う正義の「伝説のヒーロー」になってしまうのです!
「私は伝説」の意味が逆転してしまっています。

ハリウッドはどうしてもラストをハッピーエンドにしたがる悪癖がありますが、この作品をハッピーエンドにしてしまうと、作品の持つ本質的な意味が失われてしまうのです。
映画の中盤までは原作のムードを生かして良くできていただけに、困ってしまいました。

もっとも、「地球最後の男」の映画化は一度も成功していないと思います。
というのも、ラストで主人公が自身の存在の意味についてコペルニクス的転回をする部分は主人公の内省(心の中の動き)なので、客観的に描写しなければならない映画には向いていません。

そして、このラストの逆転がないと、ただの吸血鬼ホラーになってしまいますので、そもそも映画化に向いていない作品だといえます。

しかし、それでも「地球最後の男」が何度も映画化にチャレンジされるのはなぜでしょう。


終末思想 / nappa

world’s end / shoothead

4、ホラーとSFのクロスオーバー

映画化には失敗している「地球最後の男(アイ・アム・レジェンド)」ですが、この小説はその後の多くのモダンホラーの原点になりました。
なぜなら、「地球最後の男(アイ・アム・レジェンド)」はホラーとアクションと終末SFを合体させた、初めての作品でもあるからなのです。

人類滅亡をテーマにした終末SFはそれまでもありましたが、天変地異や核戦争による滅亡を、悲劇的で静かなムードに描いた作品がほとんどでした。
ところが、「地球最後の男」における人類滅亡の原因は「吸血鬼」であり、主人公は絶望的な状況の中で、生存のために吸血鬼との戦いを繰り広げます。

終末SFは生真面目で辛気臭い作品が多かったので、この作品のホラーとSFとアクションがクロスオーバーしたような世界観は非常に魅力的で、直接の映画化以外にも、数多くの作品に影響を与えていきます。
特にゲームの世界に与えた影響は、絶大なものがあります。

5、モダン・ホラーの夜明け

そして、その世界観のリアルな映像化に、最初に成功したのがジョージ・ロメロ監督の「ゾンビ」(原題:Dawn of the Dead)なのです。

「ゾンビ」は文字通りゾンビに支配された世界で、生き残った主人公たちのサバイバルが描かれますが、サバイバルの先に全く救いが見えない終末観が「地球最後の男(アイ・アム・レジェンド)」を思わせます。
そして、ゾンビとの血みどろの戦いの末に、ゾンビ達の群れが個性と主張を失った現代の大衆と二重写しになってきます。これは、現代社会における私たちのサバイバルそのものなのです。

少年時代に「ゾンビ」と出会って衝撃を受け、「スーパー8」や「桐島、部活やめるってよ」の登場人物のように自主制作ゾンビ映画を撮っていた少年たちが、大人になり、クリエイターとなる時代となって、「ゾンビ」の影響は花開きました。

映画・小説・ゲーム・コミック等すべてのメディアにおいて、まさにゾンビのようにフォロワーを産み出し増殖して、モダンホラーというジャンルをエンタテインメントのメインストリームに押し上げたのです。

映画「ゾンビ」こそ、正にモダンホラーの夜明けであり、その夜明けをもたらした光が、マシスンの「地球最後の男(アイアムレジェンド)」だったのです。

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