月別アーカイブ: 2014年8月

「カリオストロの城」の城主は江戸川乱歩だった

1、その時計塔には見覚えがあった

ヨーロッパのレトロな古城を舞台に繰り広げられる冒険物語である「ルパン三世・カリオストロの城」を観ている間、私は夢中になりながらも、ある違和感を抱いていました。
財宝の謎が隠された巨大な時計塔、主人公になつく犬と美しい令嬢。そして主人公は謎を解くために時計塔の内部へ潜り込み、さらに地下世界への探検に乗り出す…。

「この話って、どこかで読んだことあるぞ?」

「カリオストロの城」のいくつかのシチュエーションに私はデジャブを感じていたのです。
それは、江戸川乱歩の「幽霊塔」という作品です。
この小説は、少年時代の私が夢中になった作品の一つだったのです。


Schloss Hohenschwangau (Fussen, German) / t-mizo

Castel Roncolo / Goldmund100

2、ミステリ入門の定番「少年探偵団」

私が子供の頃は、ポプラ社から出ていた江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズでミステリに入るのが定番でした。

 

「少年探偵団」は、江戸川乱歩が子供向けに書いたミステリ・シリーズで、毎回、変装の名人である犯罪王、しかし多分に愉快犯的でもある「怪人二十面相」と、小林少年をリーダーとする「少年探偵団」が対決します。
たいていの場合、怪人二十面相の前に少年探偵団は窮地に陥るのですが、最後に名探偵・明智小五郎が登場して解決してくれます。

現在の「名探偵コナン」にも続く「子供が大人の犯罪者と対決する」ミステリの基本パターンを創り上げたシリーズです。
(名探偵コナンは「少年探偵こそが名探偵で、明智小五郎役の大人は能無し」と、ひっくり返している訳です。)

1936年に第1作が発表された時から国民的な大人気で、70年代頃までは、ミステリ好きの子供はみんな、ポプラ社から出ていた少年探偵団・シリーズを読んでいました。

もっとも、シリーズが進むに従って同じようなパターンの話しが続くので、10巻目あたりで飽き始めて来て、シャーロック・ホームズなどの海外のミステリへと移って行くのも、また定番でありました。

そして、ちょうど「少年探偵団」シリーズから離れて海外ミステリに移行する間のエアポケットみたいな時期に、小学生の私は、講談社から出ていた「少年版・江戸川乱歩選集」と出会ったのです。

Furukawa Gardens
Furukawa Gardens / kanegen

3、本当に子供向けなのか?「少年版・江戸川乱歩選集」

「少年版・江戸川乱歩選集」は、江戸川乱歩の大人向けミステリの中から「蜘蛛男」「一寸法師」「幽鬼の塔」「幽霊塔」「人間豹」「三角館の恐怖」の全6編を少年向けにリライトした、箱入りでちょっと豪華な感じの異色シリーズでした。

このシリーズは本当に異色で、作品のラインナップ自体が江戸川乱歩作品の中でもかなりエロティック&バイオレンスなのですが、リライトといっても文章を少し読みやすくしているだけで、ぜんぜん子供向けになっていないのです。

しかも、装丁がそれに輪をかけていて、カバーアートが幻魔大戦シリーズ等の妖しいイラストで有名な生頼範義、挿絵もそれぞれ大人向けの挿絵画家で、「お寿司から子供向けにワサビを抜くどころか、足してるだろ?」な結果になっていました。

当然のことながら(?)私はこのシリーズが大いに気に入り、近所の友達にも貸してあげたのですが、友達よりも友達のお父さんがハマってしまい「子供向けにこんなの出していいのぉ?」といいながら読んでいました。
(残念ながら、このシリーズは、現在では入手が難しくなっています)

4、江戸川乱歩の「幽霊塔」

けれど、私が一番大好きだった「幽霊塔」は、シリーズの中ではおとなしい作品で、直接的な描写の刺激ではなく、ムードで怖さを出している作品でした。

 

時計塔のある古い西洋屋敷を舞台にした、巨大な時計塔と地下迷路の奥に隠された財宝を巡るミステリアスなドラマで、推理小説というより怪奇的な雰囲気の冒険小説でした。
というのも、この作品は、アリス・マリエル・ウィリアムソンの『灰色の女』(A Woman in Grey)を江戸川乱歩が翻案した作品だったので、オリジナルな乱歩作品とは少しムードが違ったのです。

正確にいえば、ウィリアムソンが1898年に発表した小説を黒岩涙香が1899年に日本向けに翻案し、それを子供の頃に愛読していた江戸川乱歩が1937年にさらにリライトした、というちょっと複雑な成り立ちの作品です。

私は「幽霊塔」に夢中になってしまい、文字どおり「表紙が破れるまで」何度も何度も読み返しました。

特に、主人公が財宝の謎を解くために、ひとり時計塔を探る冒険に乗り出すクライマックスのミステリアスなムードが大好きでした。
ですから、「ルパン三世・カリオストロの城」の時計塔と落とし穴の下の死屍累々たる地下室を見た時に、すぐに「幽霊塔」を思い出したのです。


tunnel / angeloangelo

mgmt:weekend wars / visualpanic

5、「カリオストロの城」のルーツ

宮崎駿は、アニメーション評論家おかだえみことの対談の中で「カリオストロの城」の元ネタが、モーリス・ルブランによるアルセーヌ・ルパン・シリーズの「緑の目の令嬢」と江戸川乱歩の「幽霊塔」であることを明かしています。
宮崎駿も子供の時に、江戸川乱歩の「幽霊塔」に夢中になっていたのです。

ウィリアムソンが19世紀に書いた「灰色の女」が、その後も何人もの手で何度も語り直されて来たのです。

本当に優れたストーリーは時代を超えて生き延びてゆく、という良い例でしょう。

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アニメーション「作家」宮崎駿との遭遇

1、アニメは「作品」じゃなかった

前回のコラムの最後に「私は、まだ宮崎駿に『出会って』はいませんでした」と書きましたが、それは、私が「ルパン三世・カリオストロの城」の面白さに驚きながらも、「宮崎駿の作品」とは認識していなかった、という意味です。

当時は、それが普通でした。
アニメーションを誰が作っているのか?なんて誰も気にしていませんでしたし、実写映画と同列に作品として評論されることも、ほとんどありませんでした。

アニメは「作品」なんかじゃない。
それが、世間一般の扱いだったのです。

Akihabara Street

2、アニメ時代前夜

1970年代の終わりから1980年代にかけて思春期を迎えた私たちは、アニメーションをサブカルチャーとして扱うようになった最初の世代です。

それまでアニメを無自覚に「お楽しみ」として享受していた少年が、自意識を持ってテーマを研究したり主人公に自我を投影したりする立派な(オタク)青少年になる時代がやって来たのです。
初めて研究やカルトの対象となるアニメーションが登場した時代でもありました。

しかし「ルパン三世・カリオストロの城」が公開された1979年は、そんなアニメ・サブカルチャー時代は、まだ始まっていませんでした。

3、「アニメのスタッフなんて、らららら・・・」(吉田拓郎「人間なんて」風に)

その頃、アニメーションは作家主義的な見方がされていなくて、実写映画のように監督やスタッフで評価されるという事が全くありませんでした。

要するに「どうせ子供向けでしょう」と、芸術作品としては、まともな扱いを受けていなかったのです。

ですから、アニメ「火の鳥」は「手塚治虫の『火の鳥』」だし、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」は「松本零士の『宇宙戦艦ヤマト』」でした。
アニメーションの監督や脚本が誰か?などは問題にされず、原作者の名前だけで評価され、宣伝されていたのです。

今の、アニメ版「ドラえもん」みたいな感じだと思ってください。
あれも「藤子F不二雄の『ドラえもん』」と認識されてますよね。
ディズニー・アニメですら「ディズニー」というブランドだけで語られ、だれが作ったか?では語られませんでした。

一部の古くからのアニメーション愛好家を除いて、アニメーションのスタッフなんて、まるで注目されていなかったのです。


蒲田キネマ通り商店街入り口 / torisan3500

Keikyu Kamata Station, Tokyo / 305 Seahill

4、アニメーション「作家」宮崎駿との出会い

「ルパン三世・カリオストロの城」を観た私が思ったのも、「ルパン・シリーズってこんなに凄いのか!」という事でした。
そこで、「カリオストロ」は映画二作目ですから、私はルパン三世の映画版第一作がどうしても観たくなり、情報誌ぴあをチェックして蒲田の名画座に飛んで行きました。

ところが、蒲田の薄暗い名画座で観た映画「ルパン三世」第一作(「ルパン対複製人間」編)は「カリオストロの城」ではありませんでした。

「ルパン三世」の第一作は、当時のSFブームの影響を受けて、当時話題になったばかりのクローン人間をアイディアに取り入れる等、かなり、時流を意識した作品でした。
決してつまらない作品ではなく、むしろストーリーは面白かったのですが、残念ながら「カリオストロの城」で感じた、あの驚きは再現されなかったのです。

「ルパン三世カリオストロの城」で私が驚き魅了されたのは、ストーリーもさることながら、その映像でした。

スクリーンの向こうに空間が実在し、世界が広がっているとしか思えないほどのアクチュアリティがあったのです。

しかし、ルパン三世第一作(「ルパン対複製人間」)の画面の中には、空間は広がっていませんでした。
あくまでも平面的な「絵」だったのです。

ここに来て、私はようやく「これはルパン・シリーズが凄いのではなく、『カリオストロの城』を作ったスタッフが凄いのではないか?」
「監督にクレジットされている、あの宮崎ってヤツが凄いのでは?」と気が付くに至ったのです。

私が「宮崎駿」というアニメーション作家に「出会った」瞬間でした。

5、夜明け前が一番暗い?

宮崎駿の「ルパン三世・カリオストロの城」に大きな衝撃を受けた私は、周りの友人たちにさっそく「カリオストロ」の凄さを吹聴しましたが、残念ながら全く相手にされませんでした。
「え?お前、まだ、そんなもん観てるの?」
「ルパンなら、テレビでやってるじゃん」

それまで、友人たちの間で「背伸びをした映画少年」だった私は、「いまだにアニメに夢中なお子様」に格下げになった気がしました。

実は、この年、1979年に、私はもう一つ似たような経験をしていました。
それは、以前このブログの「伝説の男がモダン・ホラーの夜明けを生んだ」で採り上げた、ジョージ・ロメロ監督の「ゾンビ」が、3月に公開された時です。

この映画にも強烈なショックを受けた私は、その感動を、なんとか友人に伝えようとしました。
私 「この前、スゴイ映画を観て感動したんだ!」
友人「へえ!?何て映画?」
私 「ゾンビ!」
友人「・・・」
私 「・・・」

日本アニメとモダン・ホラーのターニングポイントとなる名作が公開された1979年は、日本のサブカルチャーにとって重要な年になったのですが、図らずもそれに嵌ってしまった少年にとっては、苦難の年でもありました。

しかし、「カリオストロの城」や「ゾンビ」の素晴らしさが周りに理解されなかったことは、かえって私に、それらの作品の「新しさ」への確信を深めさせることになったのです。

6、アニメ時代の夜明け

宮崎駿を「発見」することによって、それまで映画ファンとしてアニメーション(特に日本のアニメ)を一段低く見ていた、私の偏見は打ち壊されました。

むしろ、世間一般では、まだまだバカにされていたアニメの中に「作家性」や「テーマ性」を見つけ出すことに、優越感を感じるようになりました。(つまり、オタク化した訳ですが…)

監督デビュー作「カリオストロの城」の興行的失敗により、宮崎駿は1984年に「風の谷のナウシカ」を発表するまで、5年間の長い不遇期間を過ごします。
しかし、その80年代前半に、私にとってのカルチャー・ヒーローだったのが、宮崎駿と「機動戦士ガンダム」の富野由悠季でした。

富野由悠季との出会いについては、また回を改めて、お話ししたいと思います。

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画面の向こうには世界が広がっていた

1、そこには世界が広がっていた

1979年12月某日の午後。
私はその時、渋谷の道玄坂なのにガラガラの映画館の中で、強いショックを受けていました。
なぜなら、何の予備知識も無く、初めて宮崎駿の「ルパン三世・カリオストロの城」を観たからです。それは衝撃的な映像体験でした。

「スクリーンの向こうに空間が広がっている」のです。

決してリアルではなくマンガ的な絵柄なのに、画面の向こうに空間が、世界が存在しているとしか思えないのです。
特にカーチェイスのシーンなどは「これは絵じゃなくて空間を丸ごと捉えているんじゃないか?」という程の実在感があったのです。
日本のアニメだけでなくディズニー等を含めても、アニメーションで、こんな印象を持った作品は初めてでした。

もっとも、私が「カリオストロの城」を観たきっかけは全くの偶然。ただの「時間潰し」でしかありませんでした。

PhoTones Works #3846
PhoTones Works #3846 / PhoTones_TAKUMA

2、「日本アニメの時代」の終わり

少し、昔話しにお付き合いください。

私は、このブログで何度か宮崎駿とスタジオジブリを取り上げていますが、やはり、昨年9月の宮崎駿の引退会見、そして今年8月のスタジオジブリの映画制作部門解体の発表に「一つの時代の終わりが来たのだ」という印象を持ったからです。

それは、「日本アニメの時代」が終わろうとしているのではないか?という感慨なのです。

私は、少年時代に「宇宙戦艦ヤマト」に始まった、いわゆる「アニメ・ブーム」の直撃を受けた世代です。

正直に言うと「エヴァンゲリオン」以後の最近のアニメには、なんとなく馴染めず、余り観ていませんので、本当のアニメファンではないのだと思いますが、それでも「日本アニメの成長と共に自分たちも成長して来た」という思いを持っています。

特に宮崎駿には、強い思い入れがあります。
多くの人は、風の谷のナウシカ以後に、ある程度名声やイメージが確立してから宮崎駿という名前を知ったはずですが、私にとっては、世間で評判になる前に「自分で発見」した作家なのです。

「自分で発見」とはどういう事かというと、1979年12月某日、本当に偶然に「ルパン三世・カリオストロの城」を観てしまったのです。

3、時代遅れのルパン三世

「カリオストロの城」が劇場公開された頃の状況をお話しすると、ルパン三世の映画版第二作目である「カリオストロの城」は、宇宙戦艦ヤマトを発端に始まったSFアニメブームからは少し外れってしまっていて、注目を集めていないし、全くお客も入っていませんでした。

「ルパン三世」はTVシリーズの第2シーズンが放映中でしたが、SFブームに目を惹かれている少年たちにとっては、ちょっと「時代遅れの終わった作品」といったイメージだったのです。

一方、当時の私はすでにいっぱしの映画ファン気取りの少年で、ヤマトに熱中する同級生を横目に、塾をサボっては、夜の名画座に通っていました。
上映が終わる頃には、誰もいなくなる寂しい映画館で、ウディ・アレンに初めて出会った「ボギー!俺も男だ」や、ロック界のスーパースター、デヴィッド・ボウイの初主演作で、てっきりSFかと思ったら奇妙な芸術映画で目が点になった、ニコラス・ローグ監督の「地球に落ちてきた男」等を観ながら「この歳で今さらアニメでもないだろう」なんてカッコつけていたのです。

4、1979年の渋谷道玄坂

現在、道玄坂の109の横にシネコンがありますが、当時はそこに映画館が3つありました。
メインは渋谷東宝という座席が1000席くらいある大劇場。大作映画専門の劇場で、「スターウォーズ」や「地獄の黙示録」といった超大作を、ここの巨大スクリーンで観ました。
渋谷東宝の上には渋谷スカラ座という500席くらいの中劇場が、地下にはパレス座という300席くらいの小劇場がありました。

渋谷東宝とスカラ座はなかなか良い映画館でしたが、パレス座はスクリーンの位置が非常に低くて、前の席が小柄な女の子でも頭が邪魔になって画面が見づらい、というかなり問題のある映画館だったので、なるべく近づかないようにしていました。
(映画館なのに、スクリーンがよく見えないってのはマズイでしょう)


渋谷駅前 / sekido

Shibuya,Tokyo / t-miki

5、1979年12月某日

その日私は、友人と渋谷で待ち合わせをしていました。
待ち合わせ時間は午後3時ころだったのですが、本屋で買い物をしたくて早めに出かけたところ、予想に反して2時間以上時間が余ってしまいました。そこで、「映画でも見るか」となったのです。

当日、渋谷東宝では「007ムーンレイカー」を、渋谷スカラ座では「戦国自衛隊」を上映していました。両方とも、その冬の大ヒット作品で、私はすでに2回ずつ観ていました。

「さすがに3回観る気はしないなぁ…」という私の目の前に、パレス座でひっそりと上映される「カリオストロの城」があったのです。
「パレス座は気が進まないけれど、どうせ時間潰しだし、ルパンだから一応退屈しないかも」と、私は映画館に入りました。お客は、私を入れても10人いませんでした。

そして…
その日、ちゃんと友達に会ったのかどうか、私は覚えていません。
覚えているのは、その後3日間連続してパレス座に通いつめて「カリオストロの城」を繰り返し観たことです。

6、衝撃の向こう

何の予備知識も期待もなく観た「カリオストロの城」の面白さは衝撃的でした。
それまでのアニメーションに対する先入観や偏見は完全に破壊されました。
当時の日本映画はもちろん、アメリカ映画をも越えた完璧なエンターテインメントが、そこにあったのです。

しかし、その時には、私はまだ宮崎駿に「出会って」はいなかったのです。

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スタジオジブリの分岐点「ゲド戦記事件」

1、「ゲド戦記」アニメ化の驚き

2006年7月に、スタジオジブリの長編アニメーションの新作として「ゲド戦記」が公開されました。
この映画の制作が発表された時は、二つの大きな驚きを持って迎えられました。

ひとつは、2001年に公開された「ロード・オブ・ザ・リング」と「ハリー・ポッター賢者の石」の世界的大ヒットで巻き起こったファンタジー映画ブームの中で、ハリウッドも映画化を切望していた「ゲド戦記」の映画化権を、日本のスタジオジブリが獲得したことです。

もうひとつは、監督が宮崎駿ではなく、その息子の宮崎吾朗だったことです。

2、アーシュラ・K・ル・グインの「ゲド戦記」

「ゲド戦記(Earthsea)シリーズ」は、1968年に第1作が発表された、アーシュラ・K・ル・グインによるファンタジー小説で、J・R・Rトールキンの「指輪物語」、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」と共に、世界3大ファンタジー小説とも呼ばれています。

アーシュラ・K・ル・グインは、「闇の左手」(1969年)や「所有せざる人々」(1975年)など、アメリカが「政治の季節」だった1970年代に代表作の多くを書いた作家です。
ジェンダーや人種問題、そして政治体制についての考察を、SFやファンタジーに大胆かつ精緻に取り込んだ作風で、SF作家としてのみならず、現代アメリカにおける重要な作家の一人と考えられています。

ル・グインは、SFという文学形式を利用して、人類の文明と文化を探究しようとしました。
その作品は、社会性を前面に押し出していますが、決して堅苦しく教条的なだけではなく叙情性も豊かで、テーマに対する誠実な態度が、今も古びることなく私たちの心に迫って来ます。

「ゲド戦記」は、多くの島々が浮かぶ海の世界アースシーを舞台に、魔法使いゲドを狂言回しにして、太古の言葉の魔力が世界を支配するアースシーの光と闇を描く、ル・グインの代表的シリーズです。

ファンタジーと言っても、「指輪物語」のようなスペクタクルや「ハリーポッター」のようなエンタテインメントの要素はなく、実在するかのようにリアルに描写された異世界の中で、非常に内省的なドラマが展開されます。

3、宮崎駿と「ゲド戦記」

宮崎駿は、いつも枕元に置いてすぐに読めるようにしていたほど「ゲド戦記」を愛読していました。
彼の作品は、細かい設定というよりも、物の見方や考え方の点で「ゲド戦記」から大きな影響を受けています。

特に「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」そして「千と千尋の神隠し」には、「ゲド戦記」の影響が色濃く伺えます。

宮崎駿は、「風の谷のナウシカ」を作る前の1980年代初頭に「ゲド戦記」のアニメ化をル・グインに申し込み、断られていました。
当時のル・グインは宮崎駿を知らず、「アニメと言えばディズニーみたいなもの」と考えていたのです。

その後、「となりのトトロ」で宮崎作品に出会ったル・グインは、その作風と思想に大きな共感を覚えることになります。
そして2003年に、今度はル・グインの方から、翻訳家の清水真砂子を通じて、正式に宮崎駿にアニメ化を依頼して来たのです。

しかし、宮崎駿は「20年前なら良かったのだが、その後に『ゲド戦記』の影響を受けた作品を多く作ってきたので、今さら『ゲド戦記』を新たな意欲を持って作ることは出来ない」と、ル・グインからのオファーを断りました。


浜辺Ⅰ / nontaw
 
Sahara / veroyama

4、映画化強行

ル・グインは、「宮崎駿に作って欲しい」と依頼して来たのですから、話はここで終わるはずでした。

しかし、スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫は、「宮崎駿は断ったが、ジブリは断っていない」という詭弁的なロジックで、映画化の話を進めました。
しかも、鈴木敏夫が宮崎駿の代わりに監督として立てたのは、それまでアニメーションを全く作った事がない素人の息子、宮崎吾朗だったのです。

当然、宮崎駿は反対し、ル・グインも当惑し難色を示しましたが、鈴木敏夫が両者を説得する形で、映画化は強行されました。

ル・グインには「宮崎駿はもう新作を作らないし、ゲド戦記の脚本には彼が責任を持つ」と説得しましたが、結局それは事実ではなく、ル・グインを騙す形となってしまいました。

その結果は、どうだったでしょう?

「ゲド戦記」の日本での興行収入は75億円とまずまずでしたが、海外には殆ど売れませんでした。

そして、日本でも海外でも、批評は最悪でした。
好意的な評価でも「素人が初めて作ったにしては良く出来ている」というレベルで、名作「ゲド戦記」の映画化としては哀しいものでした。


三鷹の森 ジブリ美術館 / Kentaro Ohno
 
05-08-12_10-51 / yuiseki

5、世界マーケットへの進出

鈴木敏夫プロデューサーは何故、ゲド戦記のアニメ化を強行し、しかも監督を、経験が全くない素人である宮崎吾朗に任せようと考えたのでしょう?

スタジオジブリは一つの岐路に立っていました。それは、世界マーケットの進出に成功するかどうかでした。

当時のジブリは「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」の大成功で、興行的にも作品の評価でも、頂点に達していましたが、それと同時に組織も膨れ上がり、劇場公開時の収入だけで利益を出すためには、100億円近い売り上げが必要になっていました。

しかし、日本国内だけで100億円の興行収入を常に上げるのは、簡単なことではありません。
ジブリが生き延びるためには、日本だけでなく、世界マーケットに進出する他に道はなかったのです。

ジブリの作品の芸術的な評価は、世界でも非常に高まっていましたが、世界における興行では、文化の壁もあって成功していませんでした。

6、苦い思惑

そんな時に舞い込んできた、世界的な名作ファンタジー「ゲド戦記」の映画化は、世界進出への格好のチャンスでした。
宮崎駿監督の「ゲド戦記」となれば、間違いなく世界的なヒットを期待できる商品になった筈ですから、鈴木敏夫プロデューサーとしても、諦めきれなかったのでしょう。

監督を宮崎吾朗にしようとしたのも、素人の宮崎吾朗を立てて見切り発車で「ゲド戦記」の制作を始めてしまえば、観るに見かねた宮崎駿が口を突っ込んで、結局は「宮崎駿の『ゲド戦記』」になる、と目論んでいたのではないでしょうか?

実際に、「魔女の宅急便」や「ハウルの動く城」は、最初は若手の監督を立ててスタートしましたが、途中で制作が頓挫し、結果的に宮崎駿が引き取って完成させているのです。

しかし、「ゲド戦記」では宮崎駿と宮崎吾朗の親子関係が想像以上に拗れていたため、鈴木敏夫プロデューサーの思惑は、外れてしまったのでしょう。

アーシュラ・K・ル・グインは、アニメ「ゲド戦記」の出来について「原作はキャラクターやアイディアを生かすための元ネタでしかない」「原作だけでなく、その読者に対しても驚くほど失礼だ」と、明確に否定しました。

そして、映画化を巡るトラブルについては「もうこんな事は、忘れてしまいたい程です」と回想しています。

7、迷走の始まり

私は、作家アーシュラ・K・ル・グインの信者ではありませんが、それでもル・グインとゲド戦記は、もっと敬意を払われてしかるべき作家であり作品だったと思うのです。

プロデューサーの鈴木敏夫が取った行動には、ル・グインへの尊敬の念が感じられませんでした。

かつて、宮崎駿は「ゲド戦記」を、最も影響を受けた本だと公言していました。
そして、アニメ化を依頼しに来た時のル・グインも、宮崎駿に対して共感と敬意を持っていた筈です。

しかし、今のル・グインに残っている宮崎駿への感情は、不信感と不快感だけでしょう。
二人の優れた作家にとって、これは、とても不幸な結末ではないでしょうか?

そして、スタジオジブリの世界マーケット進出戦略も、残念ながら失敗に終わりました。
ここから、スタジオジブリの運営は迷走を始めます。

今回の「スタジオジブリ制作部門解体」という挫折の出発点は、この「ゲド戦記事件」にあったのではないかと思うのです。

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クールジャパンという幻想の終焉

1、スタジオジブリ解散の衝撃

2014年8月5日に、日本エンタテインメント業界にとって衝撃的な報道が流れました。
「スタジオジブリ」代表取締役の鈴木敏夫プロデューサーが、いったん映画制作部門を解体し、今後は版権管理などの事業だけを継続するという方針を発表したのです。

スタジオジブリは、日本人なら子供から老人まで誰でも知っているだけでなく、良心的でレベルの高い作品を提供するアニメーション・スタジオとして、ディズニーに並ぶほどのブランドイメージを確立しています。

そのスタジオジブリが、アニメ制作から撤退するというのは、正に衝撃的なニュースとして日本全国を駆け巡りました。

ニュースに対する余りの反響の大きさから、3日後の8月8日には、鈴木敏夫プロデューサーが改めて取材に応じて「人員は縮小するが、映画作りをやめることはない」と、ジブリそのものの解散は否定しました。

しかし、映画工房としてのジブリを解体し職能集団を解雇するのは事実なのです。
200人以上とされるスタジオジブリ所属のアニメーターには制作部門の解散を伝え、すでに人員整理に取りかかっていたのです。


Studio Ghibli / Dick Thomas Johnson
 
三鷹の森 ジブリ美術館 / Kentaro Ohno

2、「映画工房」ジブリの解体

スタジオジブリは、企画から原動画、美術、撮影そして録音まで、アニメ制作過程の全てを一つのスタジオで、しかも高いレベルで行うことができた稀有な工房でした。
このような完成された映画工房を一度解体してしまうと、簡単には同じレベルの組織を再現することは出来ません。

失うものは余りに大きいと言えるでしょう。

スタジオジブリは今後、映画制作の都度スタッフを集める一般的な方式に切り替えるのでしょうが、アニメーターは熟練した職人であると同時にアーティストでもあります。
単なる労働者のように、簡単に入れ替えの利く存在ではありません。

ジブリの経営陣は考えが甘いのではないでしょうか?
今のジブリは、宮崎駿の存在がなくても高いレベルを維持できる工房に、ようやく育った所だった筈です。

3、ジブリ解体のもう一つの意味

スタジオジブリの映画制作部門解体には、もう一つ大きな意味があります。
それは、日本で唯一まともな労働環境を提供していたアニメスタジオが、維持できなくなったという事実なのです。

ジブリは、日本のアニメスタジオとしては例外的に、アニメーターを社員として雇用し固定給を支払うシステムを採っていました。

そのため、ジブリの人件費は年間20億円を超え、1作品の制作にかかる費用は約50億円にも上るのだそうです。
このシステムを維持するためには、映画1本あたり100億円以上の興行収入を上げ、さらに毎年のように映画を公開する必要があるのですが、宮崎駿の引退によりそれが困難になったことが、今回の制作部門解体の原因であると言われています。

私は、常々「アニメーターの労働環境を改善しなければ、日本のアニメに未来など無い」と考えて来ましたので、これは象徴的な出来事なのです。


Comic Market 78 2nd day_003 / TAKA@P.P.R.S
 
Akihabara / 秋葉原 #08 / marumeganechan

4、アニメーター哀史

アニメ大国と言われながら、日本のアニメ制作現場の労働環境は、極端な長時間労働と低賃金で、人材離れが進むどころか、新たな人材流入が困難なほど劣悪な状況なのです。

アニメーターのほとんどは、アニメ制作会社から動画1枚いくらという出来高制で仕事を請け負うフリーランスです。しかも、その収入は驚くほど低いのです。

例えば大学の美術系の学部を出て、新卒でアニメの制作現場に入ったある青年の場合、週6日勤務で、朝10時から早くて夜8時、遅ければ徹夜の毎日にもかかわらず、収入は、初任給が8,000円、5か月目で3万円だったというのです。
この収入ではもちろん生活など出来ませんし、労働時間が長くてアルバイトで収入を補うことも出来ません。

ですから、アニメーター志望の若者の多くは、最初から「アニメで稼ぐ」ことは諦めています。
20代は親の協力などを得て「青春の記念」としてアニメ制作現場で働きますが、30代を迎える頃になると、アニメを諦め「正業」へと転職して行くしかないのです。

それでも、「アニメーションを作りたい」という熱意のある若者は、新しくやって来ます。
そうした若者たちの夢と熱意を食いつぶしながら維持されているのが、今のアニメ業界なのです。

仮に、参加したアニメ作品が大ヒットして莫大な収益をあげても、ほとんどのアニメーターには何も還元されません。
しかし、「アニメーションという商品」の質と魅力を作り上げているのは、現場のアニメーターなのです。

このような業界に、未来があるでしょうか?

5、「クールジャパン推進」という虚構

日本政府は2010年「クールジャパン」を政策として掲げ、300億円を出資してクールジャパン機構(海外需要開拓支援機構)を設立しました。経済産業省は、「クールジャパンの推進」すなわちアニメやゲームなどの日本文化の世界市場を拡大し、2020年にはマンガやアニメなどの海外売上高で3兆円の獲得を目指すと宣言しました。

しかし、その実態は、どうなのでしょうか?

経済産業省が予算を出すのは、例えば、シンガポールで「クールジャパン展」を開催して、美術展やファッションショーの費用として15億円を拠出するなど、制作の現場とは関係のない箱モノやイベントだけなのです。

驚いたことに、日本のフリーのアニメーターや演出家の賃金は、この20年間上がっていないのです。
これには、人件費の安い韓国や中国、東南アジアの市場と競争しなければならない、という現実もあります。
日本のほとんどのアニメ制作会社は、原画や動画の多くを海外に外注しているので、賃金を上げるどころか、仕事が減りつつある現状があるのです。

2007年10月に、このようなアニメ制作現場の労働環境を改善しようと、アニメーターや演出家たちによる「日本アニメーター・演出協会(JAniCA)」が設立されました。
アニメ業界でこうした団体ができるのは初めてで、賃金アップや残業代の支給を業界に訴え始めています。

日本政府は、このような活動こそ援助すべきなのですが、そうした素振りは全く見せません。
それどころか「ポップカルチャー、マンガ、アニメーションを推進する」と言って置きながら、むしろ、マンガやアニメに対する表現規制の動きを強め、制作現場の不信感を増大させています。


Laputa / Focx Photography
 
Sunset,夕日 / Naoki Ishii

6、「クールジャパンという幻想」の終焉

「マンガ・アニメ文化は日本が世界に誇るべきもの」であり「日本の貿易資源とすべきだ」。政治家もマスコミも、このようなキレイごとのキャッチフレーズを唱えます。

もし、日本が本当にアニメーションの振興に力を入れるというなら、アニメ制作現場の劣悪な環境を改善し、新しい、熱意と才能のある若者が「夢と未来を託せる」業界にすることから始めなければならなかったのです。

宮崎駿は、早くから、このようなアニメ業界の劣悪な労働環境を批判し、改善を訴えていました。
スタジオジブリで、異例の固定給制に踏み切ったのも、そうした状況に対する挑戦だったのです。
そして今、その挑戦は敗北という形で終わろうとしています。

今回のスタジオジブリの制作部門解体によって、アニメーター達は解雇され、管理職だけが残ります。

マンガに例えると判りやすいでしょう。
人気連載マンガの売上が落ちて来た結果、編集者だけが残って、マンガ家はクビになるのです。
しかし出版社は「連載マンガはやめません。必要なら他のマンガ家を雇います」と言っているワケです。
果たして、面白いマンガを、続けられるのでしょうか?

これは「クールジャパンという幻想」の終焉の始まりなのです。

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ホームズがいっぱい(パスティーシュの楽しき世界)

1、ピーター・オトゥールのホームズは蜜の味

私にとっての幻のホームズ役者ピーター・オトゥールは1970年代の中頃に大病で死にかけて、そこから奇跡の復帰を遂げるのですが、急に老けこんでしまいました。
俳優活動は精力的に再開したのですが、まだ40代なのにお爺さんみたいで、シャーロック・ホームズという感じではなくなってしまったのです。

Peter O'Toole

しかし、それでも私はピーター・オトゥールのホームズが諦め切れませんでした。
原作どおりのホームズを演じるのは難しくなっていましたが、まだ「蜜の味」を映画化する手があるじゃないか!と考えていたのです。

「蜜の味-ホームズ隠退後の事件」とは、H・F・ハードによる引退して田舎に隠居したホームズの遭遇した事件を描く、いわゆるホームズ・パスティーシュ物の有名作なのです。
この作品でのホームズは隠居している老人なので、老けてしまったピーター・オトゥールでも、十分演じられるハズだ!と考えたワケです。

残念ながら、そんな企画はもちろん存在せず、ピーター・オトゥールはホームズを演じることなく亡くなってしまいましたが…。

London Snow 09
London Snow 09 / Paolo Camera

London / ChrisYunker

2、ホームズがいっぱい

名探偵の原点ともいえるシャーロック・ホームズは、とにかく活躍が幅広くて多彩な名探偵です。
彼が戦ったのは、宿敵モリアーティ教授だけではありません。
学生の頃から、エジプトの魔術を信仰する秘密組織相手にインディ・ジョーンズばりの活躍を見せると、やがては有名な怪盗アルセーヌ・ルパンと対決し、さらには、吸血鬼ドラキュラや火星人とも戦いました。そして遂には、ネス湖のネッシーの謎まで解いてしまうのです。

もっとも、原作者のコナン・ドイル自身は、そんなエピソードを書いてはいません。

これらは皆、後年にホームズのキャラクターを使って他の作家たちが創作したパスティーシュ(模作)なのです。

2クリホームズ

3、ホームズ物パスティーシュの世界

シャーロック・ホームズのパスティーシュは、それだけで一つのジャンルになってしまうほど大量につくられています。シャーロック・ホームズ物の映画などは、原作の映像化よりパスティーシュの方が多いくらいです。

歴史上の実在の人物を使って、作家が想像力を働かせて独自の物語を創ることは良くありますが、ホームズのようなフィクションの登場人物を利用して、これだけ多様なストーリーが語られている例は、他にありません。

シャーロック・ホームズという本来は架空のキャラクターが、歴史上の人物のように「誰でも知っている」存在で、なおかつ魅力的だからこそ、多くの作家の創作意欲を掻き立てるのでしょう。

お馴染みの名探偵ホームズを、いかにユニークなシチュエーションに置くか?
そして、どんな意外な人物と絡ませるか?によって、ホームズ物のパスティーシュの面白さが決まると言えます。

4、ルパン対ホームズ

最も有名なパスティーシュは「ルパン対ホームズ」でしょう。
フランスとイギリスを代表する怪盗と名探偵の正に夢の対決で、ミステリ好きな子供の必読書でした。

ルパンとホームズの追いつ追われつの展開に、子供の私は夢中になって読みましたが、何といっても書いたのがルパン・シリーズの作者モーリス・ルブランなので、かなりアルセーヌ・ルパンに贔屓していて、あくまでもホームズは引き立て役として描かれています。

ハッキリ言って「ルパン最高!」という乗りの作品で、ホームズ・ファンの子供としては「もう少しホームズの見せ場が欲しいなぁ」と釈然としない感想を抱いたものですが、やはり、シャーロッキアンの人達には評判が良くないようです。
楽しい小説なんですけどね。ルパン・ファンには、もちろんおススメです。

1ルパン対

5、ようこそパスティーシュの世界へ

ホームズ物のパスティーシュの作品群は、色々な所に無理やりホームズを出そうとするので珍妙なアイディアが多くて楽しい世界なのですが、あまりにも大量の作品があるので、とても全てを網羅することはできません。

そこで、代表的な作品をいくつかご紹介します。

・「シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険」(ニコラス・メイヤー:立風書房、扶桑社)

ワトスン博士はシャーロック・ホームズのコカイン中毒を治すために、彼を「精神分析」という新たな精神療法を考案したウィーンの学者、ジグムント・フロイト博士に診てもらおうとしますが、その過程でホームズの宿敵モリアーティ教授についての驚くべき謎も明らかになります。

ホームズ・パスティーシュにおけるエポック・メイキングな作品です。この作品の大ヒットによって、ホームズ物のパスティーシュが、世界中で一気に増えました。

ニコラス・メイヤーは、続編の「ウエスト・エンドの恐怖」という作品も書いています。
この作品は、ロンドンの演劇界を舞台に、バーナード・ショーやオスカー・ワイルドといった19世紀末における英国演劇界の重鎮たちの中で起きる殺人事件に、ホームズが巻き込まれます。

どちらも優れたパスティーシュ小説なのですが、現在は入手が難しくなっているのが残念です。

「シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険」は映画化され、「シャーロック・ホームズの素敵な挑戦」(監督ハーバート・ロス)という邦題で公開されています。
これは見事な映画化で、ホームズ映画のベスト3に入る秀作になっています。
こちらはDVDが出ていますので、ご覧になることが出来ます。

・「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(島田荘司:集英社)

日本の本格推理作家、島田荘司による異色作で、ロンドンに留学中の夏目漱石がミイラの登場する超自然的な事件に遭遇し、シャーロック・ホームズと推理合戦をする作品です。

この作品がユニークなのは、物語が「ワトソン博士による語り」と「夏目漱石による語り」に分かれ、一つの事件がワトソンと漱石という二人の別々の視点によって、交互に描かれていることです。
同じはずの人物や状況が、両者の語りによって微妙にずれている事が、作品の面白さと膨らみを増しています。

読後感も爽やかで、世界のホームズ物のパスティーシュの中でも、上位に来る作品でしょう。

・名探偵ホームズ/黒馬車の影(監督:ボブ・クラーク)

19世紀のロンドンに暗躍し、今だ未解決のままで終わっている「歴史上最初の連続殺人鬼、切り裂きジャック」の謎にホームズが挑む、ホームズ物映画の傑作です。

シャーロック・ホームズを演じるのは「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐などで有名なクリストファー・プラマー、ワトソン博士はジェームズ・メイスン、とキャストも超一流です。
霧のロンドンで切り裂きジャックを追うホームズとワトソンは、政界の闇と秘密結社謎、さらには英国王室の深部にまで入り込み、やがて驚くべき真相にたどり着きます。

数あるホームズ物の映画の中でも、決定版といって良い一本でしょう。

まだまだ、変わったホームズ作品が沢山あります。
あなたも、賑やかで広大なホームズ物のパスティーシュの世界に、ぜひ足を踏み入れてみて下さい。
23新ホーム

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ピーター・オトゥール、ロレンスの呪縛と幻のホームズ

1、アラビアのロレンス

ピーター・オトゥールと言えば、何といっても「アラビアのロレンス」でしょう。
画像ロレンス

 

 

1962年に映画デビュー2年目にして「アラビアのロレンス」の主役に抜擢されると、その余りのはまり役ぶりに、ピーター・オトゥール=ロレンスというイメージが世界的に定着してしまいました。

同時代の「名作」の多くが、その歴史的意義は別にして、いささか色褪せ古びてしまっているのに対して、「アラビアのロレンス」は未だに、当時と変わらぬ輝きとインパクトを保ち続けている、稀有な作品の一つです。

そして、ピーター・オトゥールがロレンスを演じた事は、「アラビアのロレンス」がそこまでの「名作」となるのに、欠くことの出来ない要素でした。 革命家であると同時にロマンチストでもあるオトゥールのロレンスは、単なる映画の主役を超えてひとつのアイコンになっています。

たった1本の映画で、ここまで強烈に自己のイメージを確立させてしまった役者も、珍しいのではないでしょうか?

Peter O'Toole died today at the age of 81

2、ロレンスの呪縛

しかし、これはピーター・オトゥールにとっては不幸でした。

彼は、生涯アラビアのロレンスのイメージに縛られ、そこから抜け出そうともがき、それが叶わぬまま老いていったからです。
ピーター・オトゥールは、1970年代に入ってアルコール依存症から大病を患い、一時期は医者も見放すほど死の淵を彷徨います。
その後、70年代後半に見事に復活を遂げたのですが、40代という役者にとって一番充実している筈の時期にアルコールに溺れて死にかけた事実は、ロレンスの呪縛と無関係ではなかったでしょう。

私は、子供の頃からピーター・オトゥールの大ファンでした。70年代にテレビでオトゥールを観てファンになったのですが、その頃のオトゥールがロレンスの影から抜け出せずに苦しんでいると知り、子供ながらに心を痛めていました。

そして少年の私は、彼がシャーロック・ホームズを演じさえすれば、ロレンスを超えるはまり役となり、ロレンスのイメージから完全に脱却できるはずだ、と思い込んでいたのです。

3、ビリー・ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」

シャーロック・ホームズの映画の中で最も有名で成功した作品の一つは、1970年に公開された、名匠ビリー・ワイルダー監督による「シャーロック・ホームズの冒険」でしょう。

原作にないストーリーを、ワイルダーが脚本家IAL・ダイアモンドと共に書き下ろしたオリジナル・シナリオです。
ネス湖の怪物まで出て来る一見奇想天外なストーリーですが、知的ツイストといいウィットといい、ミステリの楽しさに満ちた見事な作品です。

シャーロック・ホームズの冒険 (ビリー・ワイルダー監督)

シャーロック・ホームズの冒険
(ビリー・ワイルダー監督)

 

 

 

未だ観ていない方には是非ともおススメなのですが、「ホームズはピーター・オトゥールに限る!」と勝手に決めていた少年時代の私は、ホームズを演じた役者に不満で、せっかく良くできた映画なのに、素直に楽しめませんでした。

シャーロック・ホームズ役を演じたのはロバート・スティーブンスで、良い役者なのですが、子供の私は生意気にも「キレがないんだよな、キレが」「こんなホームズ選ぶなんて、ワイルダーも分かってねえな」などと毒づいていたのでした。

4、幻のピーター・オトゥール版ホームズ

ところが後に私は、映画評論家石上三登志の「地球のための紳士録」というエッセイ集を読んで、この作品におけるビリー・ワイルダーの当初のキャスティング案が「シャーロック・ホームズ=ピーター・オトゥール、ワトソン博士=ピーター・セラーズ」であったことを知ったのです!

この事実を知った時の衝撃は、未だに忘れられません。
実際には、予算の関係でスターが使えなかったらしいのですが、あの映画のホームズをピーター・オトゥールが、ワトソンをピーター・セラーズが演じていたとしたら…。

いつのまにか世界最高のホームズ映画が生まれかけ、そして夢に消えていたのです。

ピーター・オトゥールのホームズはもちろん、ピーター・セラーズのワトソンって最高のキャスティングではないでしょうか?
ピーター・セラーズは「ピンクパンサー・シリーズ」等で有名なコメディ俳優です。

自分が主演する時は思いっきりハチャメチャな怪演ですが、脇役に回ると抑えた渋い、それでいて不思議なユーモアを見せてくれるので、少しエキセントリックなオトゥールが演じるホームズの相手役、ワトソン博士にもピッタリなのです。
(最近WOWWOWで「博士の異常な愛情」を放映していて、久しぶりに観直したのですが、主演で一人三役のピーター・セラーズの演技には改めて爆笑しました。正に狂気!こんなワトソン博士だったら大変ですね(^o^))

5、呪縛からの解放

私は、もしビリー・ワイルダー監督によるピーター・オトゥール版「シャーロック・ホームズの冒険」が実現していたら、彼のその後の俳優人生はどうなっていただろう?と思いを馳せてしまいます。

間違いなくホームズはロレンスを超えるはまり役となったでしょう。
それによって、ピーター・オトゥールは「『アラビアのロレンスの』だけのオトゥール」ではなくなった筈です。

そして、アラビアのロレンスもシャーロック・ホームズも、「俳優ピーター・オトゥールが演じる役の一つ」として見て貰えるようになり、彼を苦しめていた「ロレンスの呪縛」から解き放たれたのではないか?と夢想してしまうのです。

Peter O'Toole - CINE REVUE (France) 18 May 1972

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全てのミステリファンの心の中に「自分にとってのホームズ」が

1、世界一有名な名探偵

世界で最も有名な名探偵といえば、なんと言ってもシャーロック・ホームズでしょう。
ミステリ好きになる人は、少年少女時代に「シャーロック・ホームズ体験」を持っています。
子供がミステリという分野に興味を持ち始めると、通過儀礼のように「ミステリの基本中の基本」としてシャーロック・ホームズに出会います。

21ホームズ

 

そして、ミステリ好きの子供達は、みんなホームズとワトソンの名コンビを通じて名探偵とミステリの面白さに目覚め、そこから少しずつ自分の好みのミステリを発見して行くのです。

世界で最も有名な名探偵であるシャーロック・ホームズは、未だに新作が作られるほど何度も映像化され、様々な俳優がホームズを演じて来ました。

ですから、たいていのミステリ好きには、「自分にとってのホームズ」とでも言うべき役者がいるのです。

2、ホームズ役者の元祖、ベイジル・ラスボーン

シャーロック・ホームズを演じて有名な人と言えば、1930年代から40年代にかけて多くのホームズ映画に主演して、アメリカでは今でも「最高のホームズ役者」と言われるベイジル・ラスボーンがいます。

世界中で誰でも知っているくらい有名な、ホームズの名セリフに「初歩的なことだよ、ワトソン君。(Elementary, my dear Watson.)」というのがあります。
最近も、このセリフをタイトルにした「エレメンタリー、ホームズ&ワトソンinNY.(Elementary)」という米国製のホームズ・ドラマが作られている程です。

ところが、このセリフはコナン・ドイルの原作小説には出てこないのです。
ベイジル・ラスボーンが映画の中でこのセリフを何度も使ったために、いつの間にか世界中でホームズの代名詞になってしまったのです。

実は、ラスボーンが主演したホームズ映画の公開時期がちょうど第二次世界大戦中だったために、日本では1本も劇場公開されませんでした。
にもかかわらず、日本人でも普通に「初歩的なことだよ、ワトソン君」をホームズの名セリフとして知っているのですから、ラスボーンの影響力がいかに大きかったか判るでしょう。

3、自分にとってのホームズ

多くの場合、子供の頃に初めて見たホームズ役者が「自分にとってのホームズ役者」になります。やはり第一印象の強さは、なかなか消せないものです。

近年、シャーロック・ホームズ役者としてイメージが強いのは、やはりジェレミー・ブレッドでしょう。
1980年代から90年代にかけて、コナン・ドイルの原典に忠実な形で完全ドラマ化したグラナダTV版の「シャーロック・ホームズの冒険」でホームズに出会った世代の人達にとっては、「ジェレミー・ブレッドこそホームズ」なのだと思います。

そして、これからホームズに出会う子供たちにとっては、一番新しい、現代のロンドンに見事にホームズを甦らせた「ベネディクト・カンバーバッチこそがシャーロック・ホームズ」となるはずです。

私は、その他にも、ロバート・スティーブンス、クリストファー・プラマー、ロバート・ダウニーJr、そして本場英国のシャーロッキアンの協会が正統なホームズ役者として認めたピーター・カッシングなど、本当にたくさんの役者がホームズを演じたのを観てきました。

しかし、これらの人達の中に、「私にとってのホームズ役者」はいませんでした。
何故なら、私もやはり少年時代に「最高のホームズ役者」に出会っていたからです。

その役者とは、ピーター・オトゥールです。

4、ピーター・オトゥールこそホームズ

ピーター・オトゥールは、2013年12月14日に亡くなった、イギリスの名優です。

ロレンス

ピーター・オトゥールと言えば、一般的には「アラビアのロレンス」でしょうが、私にとっては、彼こそ「私にとってのシャーロック・ホームズ」なのです。
もっとも、ピーター・オトゥールは、一度もシャーロック・ホームズを演じた事はありません。
しかし、私にとっては、間違いなく彼こそ最高のシャーロック・ホームズ役者であり、未だ観ぬピーター・オトゥール主演のホームズ映画こそ彼の幻の代表作なのです。

5、ピーター・オトゥールとの出会い

私が、初めてピーター・オトゥールを見たのは、小学生の時にテレビ放映された「おしゃれ泥棒」でした。

「おしゃれ泥棒」はオードリー・ヘプバーン主演のロマンティック・コメディです。大物の贋作家の娘であるヘプバーンが、美術館に飾られている父親が作った贋作が科学鑑定にかけられることを知り、父親を探っている美術探偵のオトゥールと一緒に美術館から贋作を盗み出そうとするドタバタを、正におしゃれに描いた楽しい作品です。

監督は「ローマの休日」の巨匠ウィリアム・ワイラーで、再びオードリー・ヘプバーンを主演にロマンティック・コメディに挑んだわけです。(挑んだ、なんて力の入った感じではなく、軽く作っていますが・・・)

しかし、小学生だった私は、オードリーはどうでもよくって、美術探偵(しかしてその実態は・・・)をキザでクールに演じたピーター・オトゥールの方に目が釘づけになってしまいました。

当時の私は、ちょうどコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを読み始めた頃で、当然のことながらホームズに夢中になっていました。そして、「おしゃれ泥棒」を放映しているテレビ画面の中に、私は「現実化し肉体化した」ホームズを見つけたのです。

画像おしゃれ

 

6、ホームズ発見

私のイメージするホームズは、キザで知的なヒーローであると同時に、神経質で狂的な面を持った近寄りがたい人物でした。

そして、ピーター・オトゥールのホームズをイメージしてみると正に完璧なのです。
「おしゃれ泥棒」のオトゥールに鹿打帽をかぶせてパイプを持たせたら、そのままホームズになってしまいます。

「ここに、シャーロック・ホームズがいる!」

私は「おしゃれ泥棒」を観てから、コナン・ドイルのホームズを読んでもピーター・オトゥール以外の外見をイメージすることが出来なくなってしまいました。
そして、「いつかピーター・オトゥールにホームズを演じて欲しい」と想い続けて来たのです。

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7、ピーター・オトゥールのまだ観ぬ代表作

ですから、私にとっては、ピーター・オトゥールの代表作と言えば「アラビアのロレンス」ではなく「おしゃれ泥棒」でした。というより、「おしゃれ泥棒」の向こうに見える、まだ観ぬシャーロック・ホームズ映画こそ代表作だったのです。

しかし。ピーター・オトゥールは、シャーロック・ホームズを演じることなく81歳の生涯を終えました。
私がピーター・オトゥールの訃報を聞いたときに、最初に感じたのは「ついに、私にとっての理想のホームズを観ることは叶わなかった」という寂しさでした。

ところが、私の夢だったピーター・オトゥールによるホームズ映画は、実現しかけていたのです!
オトゥール1

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