1、角川映画40周年
今、大ヒットしている「シン・ゴジラ」を観に行った時、冒頭でスクリーンに「角川映画40周年記念映画」という言葉が映し出されました。今年は角川映画が始まって40周年だそうで、7月末から9月2日にかけて、昭和時代の角川映画の回顧上映も行われていました。
昭和時代の角川映画ということは、「角川春樹時代の角川映画」を意味します。角川春樹プロデュースによる角川映画は、初めてメディアミックス戦略を持ち込み、日本映画に新風を吹き込みました。1980年代に青春を過ごした映画ファンにとって、非常に重要なムーブメントだったのです。
photo / 陈从峰
京都 / densetsunopanda
2、日本初のメディアミックス戦略
角川書店の御曹司だった角川春樹がメディアミックス戦略に注目したのは、米国のベストセラー小説「ある愛の詩」の翻訳出版を(周囲の反対を押し切って)手掛けて成功したのがきっかけです。「ある愛の詩」は、原作小説の発売と映画の公開がほぼ同時に行われ、小説、映画、音楽の三位一体の大宣伝によって世界的ブームを巻き起こした、本格的なメディアミックス戦略を取り入れた、世界的にも最初の作品だったのです。
角川映画は、巨匠市川崑監督が横溝正史のミステリーをオールスターキャストで映画化した「犬神家の一族」(1976)で始まります。この作品の大ヒットで、当時すでに忘れられつつあった横溝正史のブームが起こり、再びベストセラー作家として復活しました。
本格ミステリーの古典をオールスターキャストで一流監督によって映画化する、という「犬神家の一族」の方法論は、シドニー・ルメット監督「オリエント急行殺人事件」が成功したことに、ヒントを得たものでしょう。角川春樹は、世界の映画の動向に目を向け、それをいち早く日本に取り入れようとしていました。
3、角川ブランドの誕生と「角川商法」
「角川映画」というブランド名が誕生したのは「人間の証明」(1977)からです。
「人間の証明」は角川映画が全く新しいムーブメントであると証明しました。従来の常識を破るメディアミックス戦略を駆使した宣伝は、大ブームを起こし「読んでから観るか?観てから読むか?」というキャッチコピーは流行語となりました。
さらに、エアポート・シリーズなどでハリウッドの中堅スターだったジョージ・ケネディの招聘とニューヨークでの本格的ロケ撮影、そしてジョー山中の主題歌、それら全てが新しかったのです。ただし、作品の評価そのものは、今ひとつでした。
徹底した宣伝攻勢で社会的ブームを巻き起こし作品をヒットさせる方法論は「宣伝ばかりで、作品の中身が伴っていない」と、旧来の日本映画界やマスコミからの反発を招き「角川商法」と揶揄されました。
しかし、角川映画によって、子供たちが学校で、再び映画をトレンドとして話題にするようになりました。当時すでに斜陽だった映画がエンタテインメントのトップに返り咲いたのです。
4、映画製作についてのコペルニクス的転換
高倉健は、「人間の証明」の頃は、他の映画人と同様に「角川商法」に批判的でしたが、次作「野性の証明」(1978)への出演をきっかけに角川映画支持に「転向」しました。理由は、ケータリングなどが充実したリッチな撮影現場にショックを受けたからです。
「これが成立するなら、今までの日本映画は何をやっていたのかと思う」。角川映画は、予算の使い方が従来の日本映画とは違ったのです。
それまでの日本映画では、撮影現場や宣伝に使うお金はなるべく節約しました。そんなお金があるなら、その分を映画のクオリティを上げるために費やすことこそ正しい、と考えられて来たのです。しかし、映画の素人だった角川春樹は、「撮影現場の環境から宣伝までを含めて『映画』だ」、という発想でした。これは、日本の映画人にとってコペルニクス的転換だったのです。
5、角川映画の功績
角川映画の基本戦略は、角川書店で出版する小説を映画化して相乗効果を狙うものでしたが、音楽にも力を入れていました。「人間の証明」のテーマ曲を大ヒットさせたジョー山中を始めとして、ロック・ポップス系の実力派ミュージシャンを起用してヒット曲を連発しました。斜陽になっていた映画界からヒット曲が生まれるのは、久しぶりだったのです。
角川映画が起用するミュージシャン、そして音楽の使い方は、当時の若者に、それまでの日本映画とは明らかに違うセンスを感じさせました。
角川映画は、若者にとっての文化的トレンドになるには「音楽」がいかに大切かを再認識させてくれました。
1970年代後半は、年に1作か2作のペースで大作を発表していた角川映画ですが、1980年代に入ると精力的にプログラムピクチュアを量産するようになります。
当時、斜陽だった大手の映画会社は、新人監督の採用を行っていず、映画監督を目指す若手がデビューする道はロマンポルノ等しかありませんでした。角川春樹はそうしたメインストリームから外れた場所で頭角を現した、相米慎二、根岸吉太郎、崔洋一、森田芳光といった若手監督たちを、エンタテインメントの大作に積極的に起用して行きます。これは、角川映画の残した非常に大きな功績でした。
6、戦略の存在
角川春樹がプロデューサーとして成功した要因は、単に時流に乗るだけではなく、明快な戦略があったことです。例えば、1980年代前半は「スター・ウォーズ」の大ヒットで、宇宙SFやファンタジー映画ブームが巻き起こり、世界中で多くのSF・ファンタジー映画が作られていました。日本でも、東宝の「惑星大戦争」や東映の「宇宙からのメッセージ」のような「スター・ウォーズ」のエピゴーネンが制作されています。しかし、SFXや撮影規模ではどうしてもアメリカの本家に敵わず、安っぽい「類似品」になってしまいます。
その時、角川春樹はSF映画ブームに正面からぶつかるのではなく「ファンタジー風の伝奇時代劇」という切り口で、山田風太郎の「魔界転生」(1981)を沢田研二主演、深作欣二監督で映画化し成功させました。これは、非常にクレバーだったと思います。
また、角川映画は当時日本を席巻していたアニメブームにも参戦しますが、少し大人向けでハイブロウなアニメを提供しようという明確な戦略のもと、「幻魔大戦」(1983)や「カムイの剣」(1985)などの異色作を世に送り出しました。
7、自ら映画監督に
角川春樹は、資金調達と調整役に徹する日本型プロデューサーというより、映画制作に積極的に関与して行くハリウッド型プロデューサーでしたが、1982年の「汚れた英雄」で遂に映画監督に乗り出し、次第に自らも積極的に映画を監督するようになって行きます。
角川春樹には、1982年の「汚れた英雄」に始まり2009年の「笑う警官」まで7作の監督作品がありますが、映画作家としての側面がキチンと批評されていない感じがします。ご本人の激しいキャラクターとは裏腹に、アップよりロングの画面が、動き回るキャメラより静止画が好きな人で、画面の構築力はあるがドラマ演出は苦手な人、という印象があります。
特に「キャバレー」(1986)と「天と地と」(1990)は角川映画にとって勝負作と言って良い作品であり、それを角川春樹自身が監督したことがプラスだったのかは、難しいところです。
8、角川春樹時代の終焉
1990年の大作「天と地と」は興行収入92億円を上げましたが、同時に、以前から批判を受けていた、大量の前売り券を関連企業に購入させて興行収入を維持する「前売り券商法」の破綻が顕在化した作品でもありました。
この頃から、強権的な角川春樹と反対派が対立する角川書店のお家騒動が起こります。そして1993年、角川春樹が薬物所持により逮捕されることによって、「角川春樹による角川映画」の時代は終焉を迎えるのです。
角川春樹時代の角川映画には当時から毀誉褒貶がありましたが、斜陽を迎え衰退しつつあった日本映画に新風を吹き込み活性化したことは確かであり、1980年代の日本映画を角川映画というムーブメントを抜きに語ることは出来ません。
その後の日本のエンタテインメント全体に与えた影響も、非常に大きなものがあったと思うのです。