「シン・ゴジラ」はSFの相対主義に倒されたのか


1、2016年を代表する日本映画

庵野秀明の脚本・監督による「シン・ゴジラ」は事前の予想を覆す50億円を超える大ヒットになり、年末には国民的番組「紅白歌合戦」の幕間劇にまで登場する、2016年を代表する日本映画となりました。

「エヴァンゲリオンのクリエーター、庵野秀明がゴジラを撮った」という刺激的なニュースに興奮していた私は「シン・ゴジラ」を公開初日に観に行きましたが、映画の公開初日に駆け付けたのは久しぶりのことです。

2、リアルなシミュレーション・ドラマ

「シン・ゴジラ」は「ゴジラのような破滅的な災害に直面した時に、日本はどう立ち向かうのか?」という視点で政府や自衛隊の対応をリアルにシミュレーションした見応えのある作品でした。特に、この手のエンタテインメント映画につきものの安っぽい人情ドラマや色恋沙汰を排したストイックな展開は挑戦的です。
装飾的な(本来なら観客サービスである筈の)ドラマを全て削ぎ落とし「日本対怪獣」だけを真面目に描いたこんな歪な作品が、社会現象になる程ヒットしている事実は、日本映画に多くの示唆を与えている気がします。

映像的にもさすが庵野秀明というべきで、中盤のゴジラが東京を崩壊させるシーンの凄まじさは(アニメ的ではありますが)素晴らしく、その「美しいカタストロフ」に陶然となってしまうほどです。

しかし、私の感想は「絶賛」という訳ではありませんでした。

ここでのゴジラは、明らかに東北大震災とそれに伴って発生した福島第一原発事故のメタファーになっているのですが、リアルに取り組んでいるだけに、日本の現状を考えてしまって素直には楽しめないところがあるのです。


都庁 / shibainu
 
東京タワー / Kentaro Ohno

3、官僚と政治家が日本を救う

この作品では官僚と政治家が日本を救います。明らかに3.11を連想させるゴジラ災害(放射能災害)に襲われ壊滅した東京で、ゴジラに立ち向かう若き官僚たちが「日本は、まだまだ大丈夫だ!」と確認し合う(恐らく)感動的なシーンがあるのですが、居心地の悪さに困惑しました。私が今の日本を「まだまだ大丈夫」とは思えないからでしょう。
日本が3.11の巨大な原発事故に直面したあの時、日本の政治家と官僚はこんなに頼もしく(というより「公平」で)立派だったのでしょうか?

一方で、国会を取り巻く市民のデモが一瞬映るのですが、太鼓を鳴らしながら「ゴジラを殺せ!」と連呼しているようでした。明らかに反原発や反安保のデモを連想させようとしていますが、暴力的で浅薄な描き方には「これが作者の市民デモに対するイメージなのか?」と違和感を覚えました。

4、優秀なエリートに導かれる衆愚

この作品は、「ゴジラ災害に日本というシステムがいかに対応するのか?」についてのシミュレーション映画という側面があるので、主役はシステムを動かす官僚と政治家であり、災害に巻き込まれる「大衆」の描写は意識的に避けています。ドラマの緊迫感を高めるという意味では、その意図は分かるのですが、わずかに散見される大衆の描写からは、「優秀なエリートに導かれる衆愚」といった「大衆蔑視」の匂いが感じられる気がしてしまうのです。

また、放射能に汚染された東京の復興について「除染」といった言葉が連発されるのにも抵抗があります。原発の過酷事故による放射能汚染に対して、除染に実質的な効果がないことは、チェルノブイリ原発事故を経験したロシア(ソ連)が証明してしまっています。残念ながら除染は賽の河原で石を積むような虚しい作業なのです。現実には、福島原発事故にかかわる「除染」は、原発周辺産業の救済のための公共事業になってしまっているのではないでしょうか?
日本の「システム」の描き方にしても、理想的な部分のみを美化している側面があると思うのです。

それは、おそらく意識的なものはなくエンタテインメント作品だからなのですが、「シン・ゴジラ」が図らずもエンタテインメントを超えた領域に踏み込んでしまったからこそ、気になるのでしょう。しかし、それは「太平洋戦争と原爆のメタファー」であった初代ゴジラに再び挑戦する宿命でもあるのです。


CIMG0251.JPG / xtcbz
 
CIMG0118.JPG / xtcbz

5、「シン・ゴジラ」が纏うニュートラルな衣装の限界

「シン・ゴジラ」が象徴する問題は、余りにも「今の日本」に直接的に結びついているため、どうしても政治的な見方をされてしまいますが、後半の展開を見ても、じつは日本のオーソドックスな怪獣映画のフォーマットに則った作品で、「伝統的な怪獣映画を徹底的にリアルに描いたらどうなるのか?」という実験だったことが分かります。従って、政治的な側面についてはニュートラルなスタンスを保とうとしています。

しかし、「表現」が3.11のような問題に触れてしまったときに、完全にニュートラルでいることは無理なのではないでしょうか?そこでニュートラルであり続けることは、たとえ作者が意図しなかったとしても、現状の体制を肯定する立場になって行きます。議論で「私は右でも左でもありませんが」と前置きする人が必ず右寄りの結論に行き着くように。

表現は自由ですから、右寄りであっても左寄りであっても構わないわけですが、(意識的であるか否かにかかわらず)ニュートラルな衣装を纏いながら一方に誘導する表現を、私は好みません。
その意味で、「シン・ゴジラ」は最近のテレビに蔓延している「日本スゴイ」と合唱する情報系バラエティ番組と通じるものを感じます。それが、2016年末のNHK紅白歌合戦登場にまで繋がっているのでしょう。

6、「視点の相対化」はSFの武器なのか

SFの特質の一つは「視点の相対化」だと言われますが、私は、SFというジャンルの衰退は「相対主義の堕落」にあるのではないかと考えています。宇宙や未来といった超現実的な設定を駆使するSFの武器は、従来の常識に盲従しない相対主義にあると言われて来ました。

私たちの常識をまったく違った視点から覆し新たな価値観を提示すべきSFの相対主義は、本来なら自らにも刃を向ける危険な「諸刃の剣」だった筈です。
ところがSFは次第に現実と戦うことを避け、やがて「すべては相対的なんだから」と言いながら、現状を無批判に肯定する姿勢の言い訳へと堕落して行ったように感じられるのです。少なくとも、私がSFから距離を置くようになったのは、そのためです。

そして、リベラルな人からは「右翼的だ」と言われ、保守的な人からは「左翼的だ」と言われる「シン・ゴジラ」の持つ相対性も、そうした堕落した相対主義の延長線上にあるのではないでしょうか。
ラストの「ヤシオリ作戦」に倒れたゴジラの姿は「視点の相対化」という衣装に絡みつかれて凍り付いてしまっている日本SFの姿そのもののように、私には見えたのです。

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