1、大衆は切り落とされる枝葉なのか
社会現象と言えるほど大ヒットした「シン・ゴジラ」は、「もしゴジラが出現したら、日本政府はどう対応するのか?」をシミュレーションしていますので、ドラマの主役は国を動かす官僚と政治家たちであり、ゴジラに蹂躙される大衆の姿はほとんど描かれていません。
余分な枝葉を切り落としてテーマを集中して語るためには正しい方法だと思うのですが、「私たち大衆は切り落とされる枝葉なのか」という違和感を覚えないでもありません。
「シン・ゴジラ」の後半、ゴジラを退治するために外国からの核攻撃の危機にさらされた東京を、若手官僚たちの奮闘が救う「プロジェクトX」のような展開を眺めながら、私は改めてエンタテインメント作家としての「スティーヴン・スピルバーグの特殊性」に思いを馳せていました。
雑踏 / Norisa1
Underline / nSeika
2、スティーヴン・スピルバーグの特殊性
スティーヴン・スピルバーグはSF映画の主人公をエリートにしたがらないのです。彼のスペクタクル的SF作品の主人公は、多くの場合、私たちと同じ一般人です。人類と宇宙人の平和なファースト・コンタクトを描く「未知との遭遇」の主人公リチャード・ドレイファスは電気工ですし、それとは真逆の、宇宙人による悪夢のような地球侵略を描く「宇宙戦争」の主人公トム・クルーズは港湾労働者です。
彼らは市井の人間として、訳も分からず地球規模の事件に巻き込まれ、翻弄されて行きます。スピルバーグのSF映画は常に庶民のドラマなのです。
しかし、これはSF映画の作り方としてはむしろイレギュラーなのであり、スティーヴン・スピルバーグの特殊性を表しているのです。
3、SFの主人公はエリート
SFは、個としての人間の愛や苦悩ではなく人類や世界の運命のような大きなテーマを扱うので、エリートの科学者や官僚を主人公にすることが多く、特にディザスターSFにはその傾向が強くなります。「地球の危機」の進行状況を観客に知らせるには、危機に立ち向かっている政府に近いエリートを主人公にした方が観客に状況を説明しやすく、ドラマも作りやすいからで、これは作劇上の要請なのです。
ディザスターSFの主人公を庶民にしてしまうと「世界がどんな危機に襲われ、それに人類がどう立ち向かったのか」を描くことを難しくしてしまいます。作品のテーマを効率的に語る武器を放棄することになる訳です。
にもかかわらず、スピルバーグが庶民を主人公にし続けるのは、明らかに意図的なのです。
4、「未知との遭遇」での変更
「未知との遭遇」の脚本は、最初「タクシー・ドライバー」のポール・シュレーダーが書いたのですが、そこでの主人公はUFO問題を調査するために米国で実際に設置された「プロジェクト・ブルーブック」に携わるFBIのエージェントでした。しかし、スティーヴン・スピルバーグは「エリートを主人公にしたくない」と言って、自ら電気工に変更してしまったのです。
これは、人類の異星人とのファースト・コンタクトという大事件を俯瞰して論理的に描くためには、明らかに「作劇上は上手くない」変更です。
そしてスピルバーグの描く主人公の電気工は、自分が何に巻き込まれているのかわからないまま、巨大な波に振り回され、人生を破壊されて行くことになるのです。
そこまでして、スピルバーグにはなぜ主人公を庶民にすることにこだわったのでしょうか?
Star trails / Brian Tomlinson
Portrait / Tyrone Daryl
5、SFポピュリスト
かつて70年代のSFブームの頃、作家の開高健が「SF小説の主人公には個性的なキャラクターが少ない」と批判をしたことがあったのですが、それに対して小松左京は、「人類」や「文明」といった巨視的なテーマを描くSF小説の主人公はいわば「人類の代表」なのでフラットなキャラクターの方が良いのだ、という趣旨の反論をしていました。
この小松左京の反論は説得力があったのですが、確かにSFは、いかにもエリートでしかも余り個性的ではないキャラクターが主人公になることが多いのです。それは巨視的なテーマを効果的に語る方法論だったのでしょう。しかし、SFが本来的に有する啓蒙思想と相まって、いわゆる「エリート主義」に陥りやすい傾向があるのではないでしょうか。
そして、スティーヴン・スピルバーグ作品の背後には明らかに反エリート主義が感じられ、大衆を先導するエリートではなく、巨大な運命に翻弄される庶民の目線からSFを語ろうとする「SFポピュリスト」の趣があります。
実は、主人公を社会のメインストリームから少し外れた人間にするのは、スティーヴン・スピルバーグの監督第1作の映画からのこだわりなのです。
次回はそのお話をしたいと思います。