月別アーカイブ: 2015年2月

エヴァンズとコッポラ、「ゴッドファーザー」を巡るプロデューサーと監督のドラマ ②

1、これは「予告編」にすぎない

ロバート・エヴァンズが、「ゴッドファーザー」にフランシス・フォード・コッポラという無名の若手監督の起用したことに映画会社は大反対で、撮影が始まってからも盛んに横やりが入りました。
「あの若造を早くクビにしろ、マフィア物の映画なのに『一族の年代記にしたい』とか、トンデモナイことを言っているぞ!」


Francis Ford Coppola / FICG.mx

コッポラは、「ゴッドファーザー」の撮影中に自分は何度もクビになりかけた、と回想しています。しかし、ロバート・エヴァンズは、それまでに上がっていたラッシュ・フィルムの出来を見てその才能を確信していたので、コッポラを守り抜きました。

ところが、撮影終了後にコッポラが持ってきたフィルムを観て、エヴァンズは驚きました。それは、約2時間に編集された「普通の」マフィア映画だったのです。

エヴァンズ「これはどういうことだ?」
コッポラ「映画会社に2時間にしろと言われたんです。それに、観客に解かりやすくしないと」
エヴァンズ「こんなモノは、私が知っている『ゴッドファーザー』の予告編にすぎない」「一族の年代記にするんじゃなかったのか?いいシーンをみんな捨てちまったじゃないか!」

それから、エヴァンズはコッポラを連れて編集室にこもり、イタリアン・マフィア一族の盛衰をゆったりしたテンポで描く3時間のドラマを作り上げたのです。


2、大いなる成功

「ゴッドファーザー」は公開されると当時の興行記録を塗り替える大ヒットになり、その年のアカデミー賞における作品賞・主演男優賞・脚色賞を受賞する大成功となりました。
アメリカにおけるイタリアン・マフィアの抗争を、光と影を強調した美しい映像とヨーロッパ映画のような重厚なタッチで描いた「ゴッドファーザー」は、まさに革命といって良いほどの影響を後の映画に与えましたが、この時、雇われ監督だったコッポラに最終編集権はありませんでした。

「ゴッドファーザー」の続編「ゴッドファーザーPARTⅡ」はさらに大きな成功を収めます。

「ゴッドファーザーPARTⅡ」はアメリカに移民として来て、マフィア組織を創り上げてゆく父ヴィトー・コルレオーネの若き日と、マフィア組織を継いだ息子マイケル・コルレオーネの苦悩の日々という、二つの時代を行きつ戻りつしながら描く複雑な構成になっています。
貧しくも希望に満ちた「過去」と空虚な豊かさに沈む「現在」が交差する語り口により、現代社会でマフィア組織を維持するために心を失って行く主人公の孤独が、くっきりと浮かび上がって来るのです。

「ゴッドファーザーPARTⅡ」はコッポラの最高傑作と考えられていますが、それはこの語り口に負うところが大きく、後の多くの作品に影響を与えました。


Il padrino e il suo picciotto / batrax

Godfather Part II house, Lake Tahoe / the_tahoe_guy

3、再編集へのこだわり

しかし、「ゴッドファーザーPARTⅡ」を二つの時代を並行して描く構成にしたのは、コッポラではなく編集者でした。「ゴッドファーザー」の世界的な大成功の後にも関わらず、当時のコッポラには、未だに最終編集権が無かったのです。

コッポラは、編集者の仕事には敬意を払うがあれは私の望む内容ではなかった、として再編集を試みます。1977年に、1作目と2作目を「過去から現在へ」の一直線の物語に構成し直した「ゴッドファーザー・サガ」を発表し、1981年には、さらに未公開シーンを加えて再編集した「ゴッドファーザー/特別完全版」を発表します。

コッポラが、自身の最大の成功作であるゴッドファーザーの1作目と2作目に何度も手を加えようとするのは、どちらも自分が編集の主導権を握れなかったこと、そしてその編集こそが作品を成功に導いた事実と、無関係ではないでしょう。

しかし、コッポラによる再編集版は、やはり劇場版「ゴッドファーザーPARTⅡ」の過去と現在が錯綜する、時を揺蕩う様な世界には及ばないと思うのです。

4、「コットン・クラブ」

プロデューサーのロバート・エヴァンズは、1984年の「コットン・クラブ」(The Cotton Club)で再びフランシス・フォード・コッポラと組みます。禁酒法時代のニューヨークに実在した名高い高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」を舞台に、マフィアの抗争とショウビジネスの世界を描いたドラマです。

Cotton Club / daspunkt

Shanghai day 11, Cotton Club / decade_null

コッポラが再び実録マフィア物をテーマに、オールスターキャストの大作を手掛ける!というニュースは、大きな期待をもって迎えられました。
しかし、残念ながら、「コットン・クラブ」は批評的にも興行的にも成功とは言えませんでした。

コッポラは「ディテールの天才」と言われるほど細部に拘る監督で、「コットン・クラブ」でも、時代や風俗の描写などのディテールの見事さは、当時を知る人ほど高く評価していました。しかし、ストーリーの語り口に「ゴッドファーザー」のようなコクと味わいが無く、全体としては物足りない平板なドラマになっていたのです。

5、コッポラへの手紙

実在のマフィアに関わる内容を扱った「コットン・クラブ」の制作過程にはトラブルが多発しました。そして、ついには本物のマフィアの殺人事件まで発生してしまいます。プロデューサーのロバート・エヴァンズは、それに巻き込まれて裁判の当事者となり、最終段階で制作から外されてしまっていたのです。


Francis Ford Coppola / G155

「コットン・クラブ」は、コッポラによって2時間の完成品に編集されました。
公開前に完成品を観たロバート・エヴァンズは、撮影された素晴らしいディテールのほとんどがカットされていることにショックを受け、コッポラに長い手紙を書きました。

君の撮った最高のシーンは編集室の床に捨てられている。「ゴッドファーザー」の時と同じ様にまた二人で一緒に再編集をしよう。そうすれば「コットン・クラブ」は「ゴッドファーザー」を超える君の最高傑作になるんだ、と。

しかし、コッポラからロバート・エヴァンズに返事が来ることありませんでした。

エヴァンズは当時、未だマフィアの殺人に関わった疑いを持たれて裁判中でしたから、コッポラも連絡を取る訳には行かなかったでしょう。それに、すでに巨匠となったコッポラは、プロデューサーに編集を奪われるのが我慢できなかったはずです。

「コットン・クラブ」を境に、ロバート・エヴァンズはハリウッドの第一線から退いて行きます。
しかし、一映画ファンとして「ロバート・エヴァンズが編集した『コットン・クラブ』」は、ぜひ観てみたかったと思うのです。

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エヴァンズとコッポラ、「ゴッドファーザー」を巡るプロデューサーと監督のドラマ ①

1、ハリウッド・プロデューサーはもう居ない

「ハリウッドの映画プロデューサー」と言った時に、私たちにはステレオタイプなイメージがあります。派手なスーツを着た成金で、下品だけれど口が上手く、女優を口説いて監督に無理難題を吹っ掛ける。しかし、現在のハリウッドにはもう、そんなプロデューサーは居ません。居るのは、ハーバード・ビジネススクールを出てウォール街でキャリアを積んだビジネスマンばかりです。

彼らが関心を持つのは映画そのものではなく、それが生み出す利益であり、マーケティングと会議で映画を作ります。その結果、「すでにデータが存在する」過去のヒット作のリメイクやコミックの映画化ばかりが蔓延し、未だ海のモノとも山のモノともつかない、新しい挑戦的な企画は映画化されにくくなりました。

しかし、かつてのハリウッドには、私たちのイメージ通りのプロデューサーが確かに存在したのです。


Hollywood / Marcus Vegas

The New York Stock Exchange / epicharmus

2、ロバート・エヴァンズ

1930年生まれのロバート・エヴァンズは、そんなプロデューサーらしいプロデューサーの一人です。

元売れない二枚目俳優からプロデューサーになった人ですが、むしろ元ジゴロといった雰囲気で、数々の女優たちと浮名を流しました。政界や財界、さらに暗黒街ともコネクションを持ち、スターや監督たちの上に君臨し権力を行使する、まさに私たちのイメージするハリウッド・プロデューサーそのものなのです。

しかし、彼が「イメージの中のハリウッド・プロデューサー」と少し違うのは、人間的にはともかく、映画については確かな目と情熱を持った本物のプロデューサーだったことです。

彼は、ニューシネマ全盛だった1970年代のハリウッドに、オールドハリウッドを現代的にバージョンアップした新しいエンタテインメントの形を示し、倒産寸前だったパラマウント・ピクチャーズを見事に復活させたのです。

彼の手掛けた、「ローズマリーの赤ちゃん」(1968年)は70年代ホラー・ブームの、「チャイナタウン」(1974年)はネオ・ハードボイルドの、そして「ブラックサンデー」(1977年)は刑事対テロリストによるアクション物の、それぞれ先駆けとなるエポック・メイキングな作品でした。

Johnson's Baby Oil Ad, Featuring Ingenue Actress & Model Ali MacGraw, 1971

3、「ある愛の詩」は公私混同

1970年の「ある愛の詩」(Love Story)は、当時ロバート・エヴァンズの3番目の妻だったデビューしたばかりの女優、アリ・マッグローを「スターにするためだけ」に作った映画でした。

アリ・マッグローを引き立たせるため、金持ちの青年と貧しい白血病の女性との悲恋の物語という、すでに時代遅れに思われていた「難病もの」を、現代的な装いで、あえて真正面から描いたのです。
アカデミー賞を受賞したフランシス・レイの流麗な音楽と「愛とは決して後悔しないこと」という名セリフが大流行して世界的ヒットになり、その後、世界中で延々とつくられる「難病もの」のルーツになったと言って良い作品です。

「ある愛の詩」はいわゆる「メディアミックス」のパイオニア的作品でもありました。原作小説と映画がほぼ同時期にリリースされ、大宣伝の展開と相乗効果によって小説・映画共に大成功を収めたのです。

「自分の彼女を売り出すため」という思いっきり公私混同で作った作品が、映画史におけるターニングポイントの一つになってしまうのが、ロバート・エヴァンズというプロデューサーの一筋縄でいかないところです。

ところで、アリ・マッグローは「ある愛の詩」で見事にスターの階段を駆け上り、当時最大のスターだった、スティーヴ・マックイーン主演「ゲッタウェイ」の相手役を射止めます。そして、アリ・マッグローは、共演したスティーヴ・マックイーンと激しい恋に落ち、エヴァンズを棄てて駆け落ちしてしまったのです。


Steve McQueen / twm1340

ロバート・エヴァンズは恋多き男でしたが、自分がスターにしたせいで、結果的にアリ・マッグローを失ってしまったことを、ずっと悔いていました。

4、ゴッドファーザーはイタリアンに限る?

エポック・メイキングという意味でも、興行や評価における成功においても、ロバート・エヴァンズの手がけた最大の作品は「ゴッドファーザー」(1972年)でしょう。

1969年に発表され全米ベストセラーとなった、イタリアン・マフィアの世界を描いた小説「ゴッドファーザー」の映画化権を取得したロバート・エヴァンズは、監督にはイタリア系を起用しようと決めていました。

ユダヤ人のタイクーンたちによって創られたハリウッド映画界は圧倒的にユダヤ系が多く、それまでのマフィア映画は全てユダヤ系の監督によって作られていました。エヴァンズは、イタリア系でなければこの小説のリアリティを映像化することは出来ないと考えていたのです。

しかし、イタリア系の監督たちは現実のマフィアをモデルにした映画に関わることを嫌がり、ことごとく断られてしまいます。
結局、監督のオファーを引き受けてくれたイタリア系は、フランシス・フォード・コッポラという名の、メジャーでは3作しか撮っておらず、しかもまだ一本も成功したことが無い、30歳の若手監督だけだったのです。

 

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ディレクターズカットは映画の退廃? ②

1、テレビの映画はカットが常識

私が子供の頃、テレビで映画が放映される時は、かなりカットされるのが普通でした。各曜日のゴールデンタイムには、淀川長治が解説を務めた「日曜ロードショー」等の、洋画を放映する2時間の番組がありました。2時間の番組といってもCMを除くと映画の放映時間は実質90分でしたから、2時間の映画であれば30分くらいカットされてしまいます。

四分の一もカットされるのですからヒドイ話しで、ミステリー映画なんかだと大事な伏線がカットされてしまってワケが分からなくなったり、逆に妙に単純になってしまったりしたのですが、それでもたくさんの映画をわくわくしながら観たものです。

それら、TVの短縮版で出会った映画たちには、後に大人になってからビデオやDVDなどで、完全な姿に再会しました。

その時、大抵は「こういう話だったのか!」と満足したのですが、逆にガッカリした場合もあったのです。

Silent Movie / mikecogh

TV Shows We Used To Watch – Christmas 1959 / brizzle born and bred

2、記憶の中の映画

子供の頃にテレビで出会った映画を完全な姿でもう一度観た時、カットされていたシーンが復元されているのでストーリーのつながりには納得するのですが、「なんだ、こんなものだったのか…」という物足りなさを感じてしまうことが、時々あるのです。欠落していた部分は、自分のイメージでは、もっと鮮烈で、もっとダイナミックな筈だったのです。

映画は編集による「連結」と「省略」の芸術です。人は映画の中に「描かれなかった」時間と世界を想像します。そして、その想像によって補完された部分を含めて、ひとつの作品として記憶されるのです。

「記憶の中の映画」の存在が大きければ大きいほど、想像していた部分が違った形で「描かれてしまう」ことによって、失望してしまう場合があるのです。
「想像」は無限に広がりますが、描いてしまえば「ただそれだけのモノ」になってしまうからです。

劇場公開時に感動していた映画の「ディレクターズカット」を観るときに、私はいつも、この体験を思い出すのです。

3、ディレクターズカットは退廃?

機動戦士ガンダム・シリーズの監督、富野由悠季は、私の尊敬するクリエイターの一人ですが、彼は、DVDの発売時にディレクターズカットを作成したりするのは「映画の退廃」を招くから止めるべきだ、と主張していました。


Yoshiyuki Tomino – 17 / Steve Nagata

Tomino Yoshiyuki “The World of Gundam” at Opening Ceremony of the 28th Tokyo International Film Festival / Dick Thomas Johnson

これは、富野由悠季自身の経験から出た言葉でした。

富野由悠季監督によるアニメーション映画「機動戦士ガンダムF91」(1991年)は、制作スケジュールが遅れ、劇場公開までに作画が間に合わない事が判明しました。そのため、予定していたシーンの大幅なカットを余儀なくさたのです。これは、富野由悠季にとっては辛い決断でした。そして、カットされたシーンは、DVD発売時に作画され、無事に完全版として復活しました。

ところが、富野由悠季は自分の意図通りに出来た筈の「完全版」が緊張感に欠け、「まるで映画とは思えない」「テレビ番組のように見える」のに愕然としたというのです。


Mobile Suit Gundam RX78_18 / ajari

4、一度きりの「究極の選択」

映画は「興行」である以上、予算、制作期間、上映時間、など様々な制約のもとで制作しなければならない芸術形態です。

そして、富野由悠季はその経験から、「プロデューサーの要求や上映時間などの外圧によって、監督が映画をカットせざるを得ない時には、そこで無意識うちに『究極の選択』をしている。その厳しさを軽視するべきではない」と考えるようになったのです。

映画に限らず、芸術作品は一度発表されてしまうと、作者を離れ「受け手の物」になってしまう側面があります。

作家は作品が自分を巣立つ、一度きりの瞬間に全てを賭けるべきであり、後付けで修正できる「ディレクターズカット」は作家の甘えと退廃を招く、というのが富野由悠季の主張だったのです。

もちろんこれは、正解の出ない問題です。

しかし近年、DVDでディレクターズカットが発表されたり、未公開シーンが特典で付くようになってから、「映画は編集による省略の芸術」であり、「描かないことも表現」であるという側面が、軽視されるようになったのではないかと思うのです。

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ディレクターズカットは映画の退廃? ①

1、未来社会の描写を変えた名作

フィリップ・K・ディック原作、リドリー・スコット監督によるSF映画「ブレードランナー」(1982年)は、今ではSFにおけるサイバーパンク・ムーヴメントの嚆矢となった名作とされていますが、公開当初は批評的にも興行的にもボロボロでした。

私は、今の渋谷ヒカリエの場所にあった、渋谷パンテオンという1000人以上入る大劇場で観ましたが、広い劇場の中に観客は10人程度で、未来のロサンゼルスのビルに光る電光掲示板に「強力わかもと」の文字が浮かんだ時には、広い劇場の空間に数人の笑い声が虚しく響きました。
 
Times Square looking more and more like Blade Runner… / angeloangelo

しかし、「ブレードランナー」の描く荒廃した未来は、それまでのSF映画における均一化されたクリーンな未来世界と全く異なっていました。
移民による異文化が支配した、猥雑で退廃しスモッグに煙る未来のロサンゼルスは、観る者に衝撃を与えました。
「ブレードランナー」を境に、SFにおける未来社会の描写は全く姿を変えました。未だに、SFの描く未来社会像は、その影響から抜け出すことが出来ないでいます。

ところで、「ブレードランナー」には、編集の異なるいくつものバージョンが存在する事でも有名です。

2、劇場公開版の感動

「ブレードランナー」が日本で劇場公開された際には、全編がハリソン・フォードのナレーションで進行し、ラストは一筋の希望を感じさせる終わり方となっています。

人類に反旗を翻したレプリカント、ロイ・バッティが、死期を悟って、自分たちを狙う殺し屋である筈の主人公を救いながら息を引き取るラストシーンに、作品のテーマを象徴するナレーションが重なりました。


Harrison Ford at Madame Tussaud’s New York / InSapphoWeTrust

「彼は何故俺を助けたのか?たぶん命を大事にしたかったんだろう。それが、たとえ誰の命であったとしても。俺の命でも」
「彼は知りたがっていた。自分がどこから生まれ、どこへ行くのか。いつまで生きられるか。我々だって、同じなのだ」

その瞬間、主人公が危険なレプリカントを追うSFハードボイドであったハズの作品が反転し、全く違う「人間の生への執着」というテーマを見せて閉じられるのに、深い感動を覚えたのです。

3、ディレクターズカットへの拘り

しかし、この劇場公開バージョンは監督のリドリー・スコットにとっては意に沿うものではありませんでした。試写の段階で不評だったために、映画会社に強要され改変したものだったのです。

リドリー・スコットはその後、ナレーションを抜いて暗いラストを強調する形に編集し直した「ディレクターズカット」を1992年に発表。それでも満足せず、さらに2007年には、ディレクターズカットを元にブラッシュ・アップを加えた「ファイナル・カット」を発表しています。


Ridley Scott / Gage Skidmore

最初の劇場公開から25年を経てなお、自分のビジョンを貫こうとしたリドリー・スコットには敬意を表します。これは、普通なら、クリエイターとしてのリドリー・スコットを讃えるエピソードになるハズでしょう。

しかし、「ブレードランナー」のディレクターズカットは、受け入れる人と拒絶する人にハッキリと別れました。

特に、当初から「ブレードランナー」を高く評価していた人達には、必ずしも評判が芳しくありませんでした。

4、これは「ブレードランナー」じゃない

最初のバージョンに感動し、気に入ったセリフやナレーションを暗唱してしまうほど何度も繰り返し観た人間にとって、正直に言ってディレクターズカットは違和感の残るものでした。

私は、「あのナレーションが無い『ブレードランナー』なんて『ブレードランナー』じゃない」と、リドリー・スコットの折角の努力を「余計なお世話」とすら感じてしまいました。

映画評論家の石上三登志は映画監督の金子修介との対談において、本当に意義のあるディレクターズカットは少ないのではないか?という話題で、「ブレードランナー」に触れています。

金子「『ブレードランナー』にしても、劇場公開版の方が良いと思いましたし」
石上「そう!あれは、ナレーションの付いた最初の版の方が、遥かに優れていると思う」

多くの人に影響を与えた名作であるからこそ、例え監督自身によるものであったとしても、事後の改変に違和感を示す人が出るのでしょう。

そして、それは単に「気に入ったモノを変えて欲しくない」という感情だけではなく、映画が「編集の芸術」であることにも、原因があると思うのです。

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映画監督は編集を守ろうとする

1、ヒッチコックの受けた衝撃

イギリスでサスペンス映画の監督として「バルカン超特急」などの傑作を生みだし、第一線の地位を獲得したアルフレッド・ヒッチコックは、40歳にしてハリウッドに招聘されました。

しかし、意気揚々とアメリカに渡ったヒッチコックは大きなショックを受けます。ひとつは、アメリカではイギリスと違ってサスペンス映画の地位が低く、サスペンス・スリラーというだけで有名なスターは出演してくれないこと、そしてもう一つは、黄金期のハリウッドでは映画はプロデューサーのもので、監督には映画の最終編集権が無いのが普通だったことです。

「モンタージュ理論」の信奉者で「編集こそ映画の本質」だと考えていたヒッチコックにとって、編集権のない映画作りなど考えられなかったのです。


‘Vogue’ / Un divertimiento de @saulomol. Avatar: M. Eichele

2、ヒッチコックの戦略

ハリウッドで映画作りを始めたアルフレッド・ヒッチコックは、撮影の前にシナリオ全編を絵コンテにしていました。ヒッチコックに言わせれば「この絵コンテに従えば誰が撮っても同じだ」というほど詳細な絵コンテだったそうです。

そして、実際の撮影はストーリーの順番通りには撮らず、絵コンテをバラバラにして、ワンカットずつアトランダムに撮影して行きました。ヒッチコックは絵コンテを公開していませんでしたから、撮影済のフィルムをシナリオ通りに再構成できるのは、基本的にヒッチコックだけでした。

これは、ハリウッドに渡った当初、編集権を持っていなかったヒッチコックが、監督としての「自分の編集」をプロデューサーから守るために考え出した戦略だったのです。
結局、ヒッチコックの映画については、プロデューサーも最終編集をヒッチコックに任せるしかなかったのです。

やがて、ヒッチコックは監督であると同時にプロデューサーとなり、映画のすべてを自らコントロールして行くことになります。


Hitchcock considers Hollywood. / Ben Ledbetter, Architect

3、編集はメインスタッフ

欧米の映画界では、映画の「編集マン」の地位は日本よりずっと高いもので、映画のメインスタッフの一人と考えられています。特に、映画監督に必ずしも編集権が無く、「編集」という作業が監督から独立しているハリウッド映画のクレジットタイトルを見ると、「編集」が脚本家や撮影監督、美術監督と同等の地位を与えられていることが分かります。

脚本家や撮影監督が映画監督へと進出して行くことは日本でもよくありますが、ハリウッドでは編集マン出身の映画監督も多いのです。

大島渚はフランスで「マックス・モン・アムール」を撮った時を回想して、こう言っていました。
「向こうの編集者の権限っていうのはやっぱりすごい。日本の場合とはずいぶん違いますね。撮影が終わった後は、全部、編集者の管轄に入る」


Paris / Moyan_Brenn

Paris / Moyan_Brenn

4、カメラの中で編集する

大島渚は、編集者が強い権限を持つフランスにおける撮影で、自分のフィルムをどのように守ったのでしょう?
評論家の蓮實重彦が「マックス・モン・アムール」における編集のタイミングを称賛し、編集者との関係を尋ねると、大島渚はこう答えました。

「あれはほとんど切ってないと思います。つまり僕があそこまでしか撮ってないんです」「僕はほんとに余分な部分を撮らないですから」

大島渚は、撮影時に編集後の映画の形までイメージして、必要な部分しか撮らなかったのです。いわゆる「カメラの中で編集する」やり方です。この方法だと、映像素材そのものが必要最小限しかないので、編集者による改変の余地はほとんど無くなってしまいます。

もっとも、通常プロデューサーは上映時間の関係から映画を短くしたがり、監督はせっかく撮影した映画のシーンをカットするのを嫌がるものなのですが、大島渚は逆でした。「マックス・モン・アムール」では、大島渚がカットしてしまったシーンのいくつかを、プロデューサーの希望で復活させています。

映画を編集するということは、ショットを「つなげる」と同時に「切る」ことでもあります。そして、大島渚は「映画では、見せないことが表現になる」ということに、非常に自覚的な映画作家でした。

「僕は映画をカットするのが好きですね。他人の映画を観ても、切りたくてしょうがなくなる」


Stanley Kubrick painted portrait DDC_2439.JPG / Abode of Chaos
 
Buddhist view; death as transformation with the opportunity for enlightenment, Buddhist philosophy in the West, Dr. Dave Bowman (Keir Dullea), 2001 A Space Odyssey, written by Arthur C. Clarke, directed by Stanley Kubrick / Wonderlane

5、映画の完成形とは?

スタンリー・キューブリックは、映画の編集に最低1年間を費やしました。編集こそ映画という芸術を他と区別している独自のものだ、として映画監督を志すものはまず編集について学ぶべきだ、と考えていたのです。

「編集は他のどんな芸術の形式にも似ていない、映画製作の唯一のユニークな局面だ」

スタンリー・キューブリックは亡くなる数年前から、自分の映画の未使用シーンを廃棄することに熱中し始めました。彼のスタッフの仕事のほとんどが、フィルムのジャンクに費やされたそうです。完全主義者のキューブリックにとっては、自分が編集した姿こそが映画の完成形であり、他人にそれ以外のバージョンが発表されたりするなど許せないことでした。

キューブリックは死後に、自分の使用しなかったシーンが「未公開シーン」等としてDVDの特典に付けられたりするのを恐れていたのです。まるで、自分の死期を悟っていたようにも感じられます。

近年、映画がDVD等でリリースされる時に、ディレクターズカットや完全版など、劇場公開時にカットされたシーンを戻したり、編集をし直したりするケースが一般的になりました。
劇場公開には興行的制約も多く働きますので、これは映画にとって一見よいことに思えるのですが、本当にそうでしょうか?

次回は、それについて考えてみたいと思います。

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「映画における演技」とは?ヒッチコックとモンタージュ理論

1、たかが映画じゃないか

サスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『山羊座のもとに』(1949年)の撮影中、主演のイングリッド・バーグマンは終始イライラしていました。大がかりなセット撮影の段取りばかりが重視され、「役者」としての自分は放っておかれている、と感じていたのです。


Ingrid Bergman / Film Star Vintage

ヒッチコックの撮影は詳細なコンテを元に、カットを細かくバラバラにして、同じセットのショットをまとめ撮りする方法でしたから、自分が今何を演じているのかも良くわかりません。しかも、ヒッチコックは「シーンの意味」など説明せず、「こっちを向け」とか「ここからあそこへ歩け」と「動き」の指示をするばかりでした。
イングリッド・バーグマンは、ついに爆発しました「これはいったい何なの?私は何をやっているのよ?」

すると、ヒッチコックはバーグマンの肩に手を置いて静かに囁きました「イングリッド、そんなにカッカするなよ。たかが映画じゃないか」

2、映画における演技

これは、ヒッチコックとイングリッド・バーグマンの非常に有名なエピソードですが、その意味するところは意外に知られていません。二人の対立は、映画監督と俳優の「映画における演技」についての対立だったのです。


Alfred Hitchcock Presents / twm1340

映画がまだサイレントだった1925年に映画監督としてのキャリアを始めたヒッチコックは、伝統的な「モンタージュ理論」の信奉者でした。
ですから、「演劇的な演技」と「映画の演技」とは違うものだと考えていて、映画の中で演劇的な「お芝居」をされることを嫌がりました。

ヒッチコックは、自分の映画にケーリー・グラントやグレース・ケリーのような、いわゆる美男美女の純粋な「映画スター」を起用することを好みました。これは、プロデューサーでもあったヒッチコックの興行的判断がメインでしたが、演技のスタイルにもその理由があったのです。

3、ただ立っていろ

ヒッチコックは、1966年の「引き裂かれたカーテン」の主演にポール・ニューマンを起用した際に、メソッド・アクターへの不満を漏らしていました。


Paul Newman / classic film scans

メソッド演技をする役者は、アップを撮ろうとする時も「このシーンはどういう状況でしょうか?」「どんな感情を込めれば良いでしょうか?」といったことに拘って、「ただ立っていろ」と言ってもそれが出来ない、というのです。

演技をする際には当然の拘りのように思えるのですが、ヒッチコックがアップを撮る時は「何も考えていない」ただ無表情なアップを望んでいました。
それは、ヒッチコックが「映画はモンタージュに演技をさせるもの」だと考えていたからです。

モンタージュとは映画の編集のことです。サスペンスの巨匠であるヒッチコックは、映画の作り出すエモーションの全てを編集によって作り出し、自分でコントロールしたいと考えていたのです。

4、モンタージュに演技させる

例えば、交通事故で死んでしまった子犬の映像の次に無表情な男のアップを繋げると、それは悲しげな顔に見えます。ところが、エロティックな女性のヌードの映像に同じ無表情なアップを繋げると、今度は同じ顔が、何だかイヤラシイ顔に見えるのです。


Kate / zanerudovica
 
Room66 Girl / room66

ヒッチコックによれば、これがモンタージュによる「映画の演技」であり、この時、もし俳優が「悲しげな表情」や「イヤラシイ表情」を演技してしまったら、それは「過剰」な表現になり映画の中での芝居がクサくなってしまう、というワケです。
ヒッチコックは、必要以上の演技は自分が編集によって作り出そうとしている映画の繊細な感情のバランスを乱す、と考えていたのでしょう。

これは、役者に「自我を持つな、監督のための道具になれ」と要求しているようなものです。キャリアの最初からハリウッド映画の世界で生きて来た「映画スター」は、そうした映画の仕組みに慣れていましたが、演劇出身の役者や「表現する演技」への指向が強い役者にとっては、窮屈で充実感のない役割でしょう。

5、俳優は家畜?

アルフレッド・ヒッチコックが言ったとされる有名な言葉に、「俳優は家畜だ」というものがあります。これは、俳優の自我に基づく演技を「無用なもの」と考える、ヒッチコックの演出に対する考えを象徴していると言えます。


Ingrid Bergman / manitou2121

イングリッド・バーグマンは「単なるスターではなく、表現者でありたい」という想いを強く持っている女優でした。彼女は「山羊座のもとに」に出演した後、イタリア映画界のネオレアリズモの巨匠、ロベルト・ロッセリーニに心酔し「ハリウッド映画とは違うリアルな芸術」を求めて、ハリウッド・スターの地位を棄てロッセリーニの元へ飛び込んで行きました。これは「世紀のスキャンダル」として、世界を騒がせるビッグニュースになります。

ヒッチコックの「たかが映画じゃないか」という囁きが、イングリッド・バーグマンに、ハリウッドとの決別を決心させたのかもしれません。

ところで、ヒッチコック自身は「俳優は家畜だ」という言葉を本当に言ったのかと聞かれ、こう答えていました。
「俳優は家畜だと言ったことはないよ。私が言ったのは『家畜のように扱われるべきだ』ということだね」

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「世界のオーシマ」はシンプルで奥深い

1、巨星落ちる

2013年1月15日に大島渚が亡くなった時、「戦場のメリークリスマス」の主演デヴィッド・ボウイは「オオシマさんの魂が、この世を去った。彼の才能の恩恵を受けた我々は、今それを惜しむばかりだ」と追悼しました。

大島渚の死は、日本映画界にとってはもちろん個人的にも大きな事件でした。映画に余り興味のない人たちには、テレビ文化人的なイメージを持たれていましたが、それは、間違いなく日本映画界の巨星が落ちた日だったのです。

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2、政治的前期と商業的後期?

昨年1月「NNNドキュメント’14 反骨のドキュメンタリスト~大島渚『忘れられた皇軍』という衝撃」という番組で、1963年に発表された「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」を扱った怒りに満ちたドキュメンタリーが、長いブランクを経て再び世に出ました。
それをきっかけに、太平洋戦争前の世界に回帰するかのような今の日本の流れの中で、常に時代と闘っていた大島渚の仕事に改めて注目が集まっています。

大島渚のキャリアは、1959年のデビュー作「愛と希望の街」から1972年の「夏の妹」までの、極度の低予算で観念的かつ政治的な作品を量産した前期と、1976年の「愛のコリーダ」を境に「世界のオーシマ」となった後期に、分かれるのではないかと思います。

そして、前期の大島渚が好きな人の多くは、後期をあまり評価しない傾向にあるようなのです。

3、世界のオーシマ

「世界のオーシマ」となってからの大島渚は、文化人としてテレビにも多く出るようになり、商業的になって作品の尖鋭さも薄れた、という印象を持たれているのでしょう。


Cannes Film Festival 2011-1993 / soaringbird
 
Cannes Film Festival 2011-2000 / soaringbird

実は私は、前期の大島渚にも敬意を払っていますが、後期の大島渚がより好きなのです。多分、少数意見ではないでしょうか。

前期の大島渚は非常に多作で、約10年間で20本以上の作品がありますが、後期になるとグッと寡作になり、20年以上かけて5本の作品しか残していません。
しかし、その5作「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「マックス・モン・アムール」「御法度」は、世評はともかく、私は一本も駄作が無い秀作群だと考えています。

後期の大島渚は、政治的テーマを背後に隠して、シンプルですが奥深くなっていると思うのです。

4、最高傑作「愛のコリーダ」

阿部定事件を題材に、男女の愛を正にストレートに描いた大島渚の最高傑作「愛のコリーダ」は、未だに日本では完全な形で観る事ができません。理由はハードコア・ポルノだからです。しかし、ポルノで本当に人を感動させてしまう奇跡のような作品なのです。

「愛のコリーダ」は、ポルノである事が表現の上で不可欠の要素になっているという点で、稀有の作品です。ボカしが有るのと無いのでは、作品の印象がまるで違うのです。
当時、日本で公開された不完全版は、例えれば「オードリー・ヘプバーンの顔にボカしの入ったローマの休日」とか「恐竜のCGにボカしの入ったジュラシック・パーク」みたいなものです。これでは、その作品を観ていないのと同じでしょう。

そのため、日本でだけ、センセーショナリズムとして扱われ正しく評価されませんでした。近年日本で、完全に近い形でリバイバルされ、やっと再評価されましたが、まだ本当の完全版ではないのです。

5、革命と伝統のアンビバレンス

私にとって個人的に重要なのは、やはり「戦場のメリークリスマス」になります。劇場でリアルタイムに観た初めての大島作品ですから。大島渚は、思想的には「革命」に理想を見る左翼でしたが、同時に右翼的な「伝統的」価値観にも惹かれていて、そのアンビバレンスを描くのが一つのテーマでした。

その意味で、前期と後期の端境期にある「儀式」は大島渚の代表作の一本でしょう。
敗戦後の日本を舞台に、家父長制度の中で生きる若者たちの苦悩を冠婚葬祭の「儀式」を通して描き、日本の戦後民主主義を総括しようとした作品です。

「戦場のメリークリスマス」と共通するテーマを扱っていて、観念的な大島渚の集大成と言えます。取っ付き難いですが、非常に見応えがあります。左翼的な方にも右翼的な方にもお薦めできます。

6、松竹大船流をパリで

大島渚は名匠、小津安二郎が映画を撮っていた松竹大船撮影所出身ですが、そこには「松竹大船流」と呼ばれる、オーソドックスな演出スタイルが確立していました。しかし、大島渚は、小津安二郎を「古い日本映画の権威」と位置付けて、敢て反発するアヴァンギャルドな作風で撮り続けました。
その大島渚が、初めて小津安二郎的な松竹大船スタイルの作風を見せたのが1987年の「マックス・モン・アムール」でした。ところが、それはパリ在住の英国外交官夫人と猿の不倫のドラマだったのです。


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初めて見せた松竹大船流演出が、パリを舞台にした、しかも猿との不倫ドラマとは!しかし、流石にその「松竹大船流」はハイレベルでした。

イギリス外交官夫人と猿の不倫なんて設定を聞くと何だかゲテモノみたいですが、そこには愛とは「異物」を受容することなのだ、というテーマが隠されています。にもかかわらず、テーマを表面から隠しきって、実にシンプルにスタイリッシュ語られた非常にハイブロウな作品なのです。

7、映像派、大島渚

大島渚の遺作「御法度」は、新撰組の男色騒動を描いて、大島渚としては肩の力が抜けた、ユーモラスで良い作品でした。
「御法度」は撮影監督、栗田豊通のキャメラによる美しい映像が印象的です。大島作品というとロジック先行なイメージがありますが、実は映像が美しかったのです。

大島渚の映画が若者を引き付ける最初の理由は、実はそのスタイリッシュな映像にあるのではないでしょうか?

劇団四季出身の演出家で厳しい批評家でもあった武市好古は、大島渚を「日本で数少ない色彩の演出ができる映画監督」だと評価していました。

最後に、大島渚の私的ベスト10を、年代順に挙げてみたいと思います。
「愛と希望の街」(1959年)
「青春残酷物語」(1960年)
「日本の夜と霧」(1960年)
「白昼の通り魔」(1966年)
「絞死刑」(1968年)
「少年」(1969年)
「儀式」(1971年)
「愛のコリーダ」(1976年)
「戦場のメリークリスマス」(1983年)
「マックス・モン・アムール」(1987年)

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ワンテイクしか撮らなかった巨匠、大島渚

1、キューブリックと大島渚

完全主義者スタンリー・キューブリックの演出方法について書いている間、私はある映画監督の名前を思い出していました。
それは、日本映画界の巨匠、大島渚です。

大島渚は色々な面でスタンリー・キューブリックと対照的な演出家でした。

スタンリー・キューブリックが一つのシーンを100テイク撮るほど粘ったのに対し、大島渚は基本的にワンシーンをワンテイクしか撮りませんでした。スタンリー・キューブリックが延々と繰り返すリハーサルを非常に重視したのに対し、大島渚はリハーサルを嫌い、ぶっつけ本番で撮りたがりました。

しかし、スタンリー・キューブリックと大島渚は、遠いようで近い場所にいた演出家だったのです。
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2、反骨の作家

大島渚は、1959年に27歳の初監督作「愛と希望の街」で鮮烈な登場をし、「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の俊才として注目を浴びました。ところが、翌年、日米安保闘争をテーマにした「日本の夜と霧」が上映を打ち切られた事件をきっかけに映画会社と対立し、松竹を退社してしまいます。

その後は独立プロ「創造社」を立ち上げ、主にATGと提携して「1000万円映画」という、当時としても超低予算の規模で政治的主張の強い映画を撮り続けます。

松竹退社の経過を見ても判るように、大島渚は「反骨の作家」でした。常に挑戦的なテーマを扱った大島渚の作品は、次第に海外の映画祭などで評価を高めて行きます。

そして、1976年に阿部定事件をハードコア・ポルノのスタイルで描いた日仏合作の「愛のコリーダ」で、センセーションと共に「世界のオーシマ」となるのです。
その後、「戦場のメリークリスマス」や「マックス・モン・アムール」など世界を舞台にした作品を発表しましたが、1996年に旅先のロンドンで脳出血に倒れます。一時期リハビリで回復し「御法度」を完成させますが、それを遺作に、2013年に80歳で亡くなりました。

大島渚の世界での評価は高く、特に欧州では20世紀を代表する偉大な映画作家の一人と考えられています。私が、もし「日本の映画監督から一人だけ選べ」と言われたら、黒澤明でも宮崎駿でもなく、大島渚を選びたいと思います。

3、ワンテイク・オオシマ

フランスで「マックス・モン・アムール」を撮影した時に大島渚に付けられたあだ名は「ワンテイク・オオシマ」でした。

大島渚は「ファーストテイクこそベストテイク」だと考え、リテイクを好みませんでした。
リハーサルを嫌ったのも、最も優れたパフォーマンスは一番最初に現れる、と考えていたからです。

「最初の一番良いものを繰り返すには、その後、何十回も繰り返さないとならない。ところが、ダメな監督はまず一番良いものを見てから、本番で『もう一度繰り返せ』と言うんだよ。カメラマンにとっても役者にとっても、それは、本当は無理なんだと思う」

4、人生は一度きり

大島渚の映画を観ていると、役者がコケそうになったり、セリフを噛んでしまったりするシーンに出くわしますが、その場面には奇妙なリアリティがあります。
彼は、ベストテイクどころか、素人が見ても明らかなミスショットであったとしても、ファーストテイクを使いたがりました。ミスをした役者からリテイクの申し出があっても、滅多に承諾しなかったそうです。

私たちは普段の生活で、真面目に振る舞っているのに言い間違いをしたり転んだりすることがいくらでもあります。それなのに、映画の中では常に完璧に演じるなんておかしいのではないか?と言うのです。

大島渚がいつも言っていたのは、「人生は一度きりしか演じられないのに、なぜ、映画では何度も演じられるのか。それは本当のリアルではない」ということでした。

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5、映画は俳優のドキュメンタリー

大島渚は「映画は俳優のドキュメンタリーだ」と考えていました。

ですから、プロの役者よりもミュージシャンなどの素人を使うのを好み、しかも、リハーサルをせずにぶっつけ本番で演じさせました。一見、無謀に思えますが、安っぽい作られた「お芝居」ではない「本物のリアリティ」を求めての演出だったのです。

大島渚は、「ワンテイク主義は、僕の良いところと悪いところを象徴していると思います」と述懐していました。

松竹を退社した後の大島渚は、非常に厳しい経済条件での映画製作を強いられました。
独自の演出スタイルは「お金も無い、時間も無い」という状況で、いかに迫力とリアリティを実現するのか?という試行錯誤の中で、実践的に発見されていったものなのでしょう。

大島渚の演出とお金と時間を湯水のように使ったスタンリー・キューブリックの演出は、一番遠いように見えます。
しかし、演出で「作られたものではないリアリティ」を実現しようとする考え方において、実は非常に近いところにあったのではないかと思うのです。

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誤解される巨人、スタンリー・キューブリック ③

1、「画家・タイプ」と「フォトグラファー・タイプ」

映画監督には二つのタイプがあります。言わば「画家・タイプ」と「フォトグラファー・タイプ」です。
画家・タイプは、監督の頭の中に映画の「理想の完成像」があり、それをスタッフとキャストを「使って」実現しようとします。スタッフとキャストは自分たちのイメージではなく、「監督のイメージ」の具現化に奉仕することになります。
フォトグラファー・タイプは、スタッフやキャストとの共同作業によって映画のイメージを創り上げてゆき、その世界を写し撮ろうとします。


SD46 / RK Production
 
Inside the Foundation Visual Art & Design Campus / vancouverfilmschool

「完全主義者」と評されるスタンリー・キューブリックは、一見、画家・タイプに思われがちですが、写真家出身の彼は正にフォトグラファー・タイプなのです。「完全」を目指しているのも、自己のイメージの押し付けではなく、スタッフやキャストとの共同作業の過程なのです。

2、リハーサルは創造だ

スタンリー・キューブリックにとっては、リハーサルやリテイクの「プロセス」そのものが、非常に重要でした。

「このショットのポイントは何か、興味を引くのはどこか、それがはっきりするまで私は待つ。すべてのアイディアが出尽くしたところで初めてシュートする。ここが映画作りのもっとも創造的な、そして難しい段階だと思う。だから撮影に入って日が浅い段階では、一日かけてリハーサルすることもある。これは単なるリハーサルを超えた、もうひとつの創造なんだ」

マルコム・マクダウェルは、「キューブリックは演技を指示してくれない」と不満を漏らしていましたが、キューブリックはむしろ、俳優は常に演出家の予想を裏切るべきだ、と考えていたのです。


Malcolm McDowell / emerikaphoto

「俳優が、監督の言ったことを無視したために悪い演技をすることは滅多にない。実際にはその反対のことがちょくちょく起こる」
「俳優は監督の意向を一貫としてものともしない、監督に対する絶大な自信と侮りを持つべきだ」

3、俳優とともにストーリーを仕上げる

彼が、撮影を100テイクも繰り返すのは「自分の言うとおりに演じろ」と要求しているのではなく、俳優によるオリジナリティ創出への期待なのです。

そしてリハーサルの過程で、俳優のアイディアも交えながら、当初のシナリオをどんどん変えて行きました。「時計じかけのオレンジ」で、主人公が「雨に歌えば」の主題歌を口ずさみながら暴行をはたらく映画史に残るシーンが、主演のマルコム・マクダウェルのアイディアだったのは有名な話です。

「シナリオは、リハーサルでも現場でも状況に応じて変えるから、シナリオ決定稿は撮影の最期になって、やっと完成するわけだ」

つまり、キューブリックが撮影に長い時間をかけるのは、あくまでも「俳優とともにストーリーを仕上げてゆく」ためであって「美しい映像を撮る」ことに主眼があった訳ではないのです。

「監督にとって、『どう撮るか?』はむしろ簡単な決定で楽な仕事だ。重要なのはシュートする前の段階で、『撮影するに足る何かを起こし得るか』への挑戦だ。撮る内容をいかに充実させるかなんだ」

4、内容とスタイル

一般的には「映像派」とされるスタンリー・キューブリックですが、実際には「映画は、まずストーリーだ」と考えていました。彼は喜劇王チャーリー・チャップリンの「街の灯」とエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」を、「内容とスタイル」という映画の本質における両極だ、として例えに出していました。

「チャーリー・チャップリンの映画を見給え。撮影技術的には特筆すべきところはないが、演じられている内容は力強く感動がある。反対の例はエイゼンシュタインの映画で、見事なスタイルで眺めて美しいが、ストーリーの上からは無意味な映像だ」

 

そして、キューブリックは、映画は「内容とスタイル」の融合を目指すべきだが、「どちらか一つを取れと言われたら、私はチャップリン(内容)を取る」と述べていたのです。

「私が興味を覚えるのは、第一にストーリーで、次にリハーサルとシナリオでそのストーリーを仕上げること。三番目がいわゆる映画的表現で、スクリーンに何を映し出すかだ。最初の二つは『人生』とかかわるもので、最後が『映画』にかかわるものなんだよ。人生と関係のないことを映画にしようとする連中は、いっぱい居るがね」

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誤解される巨人、スタンリー・キューブリック ②

1、気にするなよ

1987年に公開されたスタンリー・キューブリック監督によるヴェトナム戦争映画「フルメタル・ジャケット」の撮影中、若い兵士役の俳優が、劇中でニュースのインタビューを受ける短い芝居がどうしてもうまく出来ず、その日の撮影はワン・シーンも撮れずに終わりました。


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Full Metal Jacket / Honza Dupleix

その夜、俳優たちが寛いでいる部屋にスタンリー・キューブリックが現れ、落ち込んでいるその俳優に声をかけました。
「気にするなよ。君は必ず出来るさ。一週間かかったって良いんだ」

キューブリックが部屋を出てゆくと、俳優たちはパニックに陥りました。
「あいつ、このシーンの撮影を一週間続ける気だぞ!」

2、なぜ同じシーンを何度も?

スタンリー・キューブリックは、何十テイクも撮り直しをするだけでなく、非常に長い時間をかけてリハーサルをすることでも有名でした。俳優に同じシーンを、何度も何度も演じさせるワケです。

しかし、キューブリックは俳優に対して丁寧に説明をするタイプの演出家ではありませんでしたから、不安に感じる役者も多かったのです。「時計じかけのオレンジ」の主演マルコム・マクダウェルは「キューブリックは何回も演じさせるけれど『じゃあ、どうやったらいいんだい?』と聞いても答えないんだ」と不満を漏らしています。


Malcolm McDowell / CavinB

しかし、俳優の質問に答えないことが「演技が分からない」ことにはなりません。演出家には、どう演技するかを全て細かく指示するタイプと俳優に考えさせるタイプがあります。例えば小津安二郎は箸の上げ下げまで「自分で演じてみせて」細かく演技を指定しましたが、溝口健二は俳優に一切説明をせずに、俳優に「求める演技」を探させました。
そして、スタンリー・キューブリックも、俳優に考えさせるタイプの演出家なのです。

3、セリフを覚える

キューブリックは、あるインタビューで、自分が何回もテイクを重ねるのは俳優がセリフを覚えていないからだ、と答えていました。

「私が100テイクも撮るとか言われているが、本来、撮影なんてせいぜい15テイクもやれば十分なんだ。それなのに、セリフをちゃんと覚えていない役者がいるから100回も繰り返すことになる。ところが、そんな役者が後で『キューブリックは100テイクも撮ってスゴイ』なんて吹聴するんだから、迷惑な話しだよ」

余りの言い草に、これを読んだ時には思わず笑ってしまいました。スタンリー・キューブリックの才能を早くから認め「スパルタカス」の監督に抜擢したカーク・ダグラスが、「キューブリックは才能のあるクソッタレだ!」と毒づいたのは、こんな所かもしれません。

ところで、ここでキューブリックが「セリフを覚えていない」と言っているのは、「セリフを暗記していない」という意味ではありません。セリフを単なる暗唱ではなく「登場人物の生きた言葉」として話せるかどうか、を問題にしているのです。

4、生きたセリフを話す

例えば、1980年のモダンホラー映画「シャイニング」でバーテンダーの幽霊を演じたジョー・ターケルは、ベテランでしたが全くセリフの覚えられない俳優で、終始カンニング・ペーパーを見ながら演技していました。
しかし、ジョー・ターケルはクビになったり、出場がカットされたりはしていません。キューブリックも「よく見ると、彼の眼がカンニング・ペーパーを追っているのが分かるよね」と笑っていましたが、彼の演技自体には納得している様子が伺えます。

「博士の異常な愛情」の時は、「ジョージ・C・スコットは何度でも同じように演じられたが、ピーター・セラーズは最初のテイクでは天才的だが二度と同じ事が出来なかったので、二人のバランスを取るよう心掛けた」と語っています。いたずらにリテイクを重ねていた訳ではないのです。

つまり、あくまでも、「生き生きとリアルに登場人物を演じる」「生きたセリフを話す」ことが大事なのであって、そのために何回も繰り返されるリハーサルがあり、何十回も重ねられるリテイクがあるのです。

キューブリックは、リハーサルやリテイクの「過程」自体をとても大切にしていて、「リハーサルは、もうひとつの『創造』なのだ」と語っていました。

次回は、いよいよ(?)「誤解される巨人、スタンリー・キューブリック」の最終回です。

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誤解される巨人、スタンリー・キューブリック ①

1、誤解される巨人

スタンリー・キューブリックはご存知だと思います。名作「2001年宇宙の旅」や「時計じかけのオレンジ」で知られ、1999年の「アイズ・ワイド・シャット」を遺作として亡くなった映画監督ですが、その演出における執拗なまでの完全主義と完璧な映像美は有名で、20世紀映画界における巨人の一人と言って良いでしょう。

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すでに語り尽くされていると言っても良いスタンリー・キューブリックについてお話ししようと思ったのは、最近、彼についてかなり偏った否定的な発言が目につくようになったからです。これは、スタンリー・キューブリックが一時期あまりにも神格化されてしまった反動なので、仕方がない面もあります。
しかし、今ではキューブリックを良く知らない若い方も増えているので、誰かがバランスを取らないとキューブリックが不当に誤解されてしまうのではないか?と懸念しているのです。

2、映像美の追求

カメラマン出身のキューブリックはまず、その完璧な映像美の追究で知られています。

特に1968年という「アポロ11号の月面着陸の1年前」に公開された代表作「2001年宇宙の旅」では、まだCGはおろかコンピューター制御のカメラも無い時代とは思えないリアルな映像で宇宙旅行を描き出しました。
「2001年宇宙の旅」の映像は今観ても見事ですが、公開当時は「異形」といって良いほど、時代とかけ離れたリアルさがありました。1960年代には多くのSF映画が作られましたので、DVDなどでその映像を見比べて頂ければ判るのですが、とても同時代に作られたとは信じられないほど「2001年宇宙の旅」の映像のリアリティは突出しています。

1975年の「バリー・リンドン」では、18世紀のヨーロッパを完璧な考証で再現しました。18世紀の夜はロウソクの灯りしかなかったので、NASAがアポロ計画のために開発したレンズを使用して、当時は不可能だったロウソクの光だけの撮影を可能にしました。その映像は、ワンショット・ワンショットが泰西名画のような美しさです。

そのような、映像美の追求は称賛と同時に、「キューブリックは映像だけで人物が描けない」という批判も生んでいました。

3、演技がわからない?

スタンリー・キューブリックは、前回お話ししたデヴィッド・フィンチャーと同様、一つのシーンを100テイクも繰り返すほど粘ったことで知られています。というより、キューブリックこそが、そのような演出スタイルの元祖なのです。


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ところが、キューブリックが何度もリハーサルやリテイクを繰り返す理由について、最近非常に人気の高い某映画評論家は「キューブリックは演技のことがまるで分からなかったので、何度も繰り返させたのだ」などと、まことしやかに語っているのです。多分、キューブリック映画の出演俳優がインタビューなどで面白おかしく話した事を、そのまま引用しているのだと思われます。

キューブリックはかなり癖のある人でしたから、俳優や脚本家の中には彼に良い思い出を持っていない者もいるので、意地悪なコメントをしたのでしょう。

4、メソッド演技へのこだわり

しかし、1956年の「現金に体を張れ」に始まって、44年間を演出家として過ごしたスタンリー・キューブリックが、「演技がまるで分からなかった」ことなどあり得ない話です。
この映画評論家は話を面白くするために大げさに語るクセがあるので、どこまで本気で言っているのか分かりませんが、自身の発言の影響力を考えて、少し気を付けて頂きたいものです。

実際には、スタンリー・キューブリックは俳優の演技を非常に重視した演出家でした。


Stanley-Kubrick-preparing-the-deleted-pie-throwing-scene-for-Dr.-Strangelove / Raoul Luoar

キューブリックは映画監督を志す者の必読書として、プドフキンの「フィルム・テクニック」という映画技術、特に「映画の編集とは何か?」を解説した本と共に、「スタニスラフスキーが演出する」というスタニスラフスキーの演出現場における聞き書きを推薦しています。
スタニスラフスキーは、現代の演技理論の基礎を確立した演劇人であり、現代のハリウッド俳優の演技は、スタニスラフスキーの理論を取り入れた「メソッド演技」が基本となっています。

それでは、スタンリー・キューブリックは何を考えて、あのような演出スタイルを採っていたのでしょう?次回は、彼の演出の本質について、もう少し詳しくお話したいと思います。

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完全主義者デヴィッド・フィンチャー

1、完全主義者

「ゴーン・ガール」の監督は、「セブン」「ソーシャル・ネットワーク」などで知られるデヴィッド・フィンチャーですが、彼は「完全主義者」で知られています。


David Fincher / rasdourian

例えば、川べりを撮影するたったワン・シーンのために、ヘリコプターで樹を運んで植えさせて、「イメージ通りの川べり」を作り上げようとするなど、その演出スタイルは妥協を知りません。
彼の演出は特別にエキセントリックではなく、一見普通なのですが、良く見ると全てのカットが計算し尽されムダがありません。人物のほんの小さな演技や表情が物語の重要な伏線になっていたり、「全てのショットが意味を持っている」ことが、繰り返し見ると判って来ます。

2、ワンシーン100テイク

完全主義者デヴィッド・フィンチャーは、撮影現場でひとつのシーンを100テイクも撮ったりすることで知られています。彼は「オレが完全主義なんじゃなくて、他の監督がナマケモノなんだよ」と言っていますが、普通の撮影では一つのシーンに10テイクもかければ多い方ですから、100テイクはやはり尋常な量ではありません。
時間と予算が厳しく管理される映画の制作現場で、これだけ粘るのには、よほどの強い意志が必要なはずです。


MY04 / RK Production
 
Film Production students in Dramatic Lighting for HD class at VFS / vancouverfilmschool

このような撮影方法は、俳優への負担も大きくなりますから、下手をすると現場がギクシャクしかねないのですが、フィンチャーは俳優たちからの信頼も厚いようです。単に自分の自己満足のためだけに粘るのではなく、俳優にとっても、彼らが満足いくような演技ができるだけの時間と環境を与えているからでしょう。

3、俳優からの信頼

「ゴーン・ガール」の演技で新境地を拓き、今年度のアカデミー賞主演女優賞を有力視されているロザムンド・パイクは、「自分のキャリアは、フィンチャー以前とフィンチャー以後で、演技そのものが変わったと思う」と、デヴィッド・フィンチャーの演出に心酔しています。

デヴィッド・フィンチャーの拘りは役者の演技だけではありません。自分の望む映画表現を実現するために、新しい技術の開発や利用にも非常に積極的です。テクノロジーと「演技という人間の生の営み」を高い次元で融合しようとする姿勢が、「ワンシーン100テイク」の撮影となっているのでしょう。

「アルゴ」でアカデミー賞作品賞を受賞し、監督としてもハリウッドを代表する存在となった主演のベン・アフレックは、デヴィッド・フィンチャーの演出を「スイス時計のように精巧だ」と評して、「彼はエンジニアであると同時にアーティストなんだ。そんな映画監督は、他にいない」と絶賛しています。


Ben Affleck / Josh Jensen

4、完全主義というスタイル

映画制作という作業が、アートワークというより工業製品の大量生産のように規格化されてしまった現在のハリウッドで、デヴィッド・フィンチャーのように一見、非効率的なスタイルを貫いている監督は、貴重といって良いでしょう。

ところで、このような「完全主義」のスタイルで最も有名な映画監督といえば、現代映画界の巨人、故スタンリー・キューブリックです。スタンリー・キューブリックの演出とはどんなものだったのでしょうか?
次回は、スタンリー・キューブリックを通して「演出と演技」について考えてみたいと思います。

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