月別アーカイブ: 2014年5月

モダンホラーの元祖、リチャード・マシスン

1、モダンホラーの元祖の死

今から1年近く前の2013年6月23日、リチャード・マシスンが87歳で亡くなりました。マシスンは日本ではそれほど著名な作家ではありませんでしたが、映画やTVなど映像作品への貢献が大きい作家でした。
1950年代からTVシリーズのトワイライトゾーン(邦題:ミステリーゾーン)やロジャーコーマンがドライヴイン・シアター向けに制作していたSFやホラー映画の脚本を盛んに書いていました。

スティーブン・スピルバーグの実質的なデビュー作「激突」の原作・脚本もリチャード・マシスンです。
「激突」はアメリカの荒野のハイウェイをドライブする男が正体不明のタンクローリーにひたすら追いかけられる恐怖を描いた、極めてシンプルなアイディアのストーリーで、スピルバーグのその後の「ジョーズ」や「ジュラシックパーク」の原点ともいえる作品でした。

40代以上の「映画好き」特にSFやホラー映画のファンにとっては、非常に印象の深い作家です。

そして、リチャード・マシスンこそ「モダンホラーの元祖」と呼ぶべき作家なのです。

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2、「モダン」ホラーとは?

「モダンホラー」という言葉が一般的に使われるようになったのは、スティーブン・キングの登場からですが、リチャード・マシスンこそ「モダンホラー」という文学形式を発明した作家だと言えます。実際、スティーブン・キングもマシスンから大きな影響があったことを認めています。

モダンホラーは、いったい何が「モダン」だったのでしょう?
モダンホラーの新しさとは、「ホラーをSFの形で語った」ところにあるのです。ホラーのアイディアを、読者を怖がらせる為ではなく、従来の価値観をひっくり返し、相対化して不安感を覚えさせるために利用したのです。

それまでのホラーは古くから伝えられる怪物や幽霊などに象徴させて、生物としての人間の持つ原初的な恐怖を描いて来ました。
夜の暗闇や死に対して人間が生物として感じる恐怖を実体化させたのが、幽霊や怪物だったのです。

しかし、機械文明の発達により世界からは闇が取り払われてしまい、同時に吸血鬼や狼男のような伝統的な怪物はいささか陳腐で古臭くなってしまいました。
ホラーはいつの間にか、大人の鑑賞には耐えない分野になってしまっていたのです。

ところが、モダンホラーが描く恐怖とは、発達する現代のテクノロジー社会に人々が感じるストレスであり不安感なのです。

モダンホラーは、現代社会に対して大衆が無意識のうちに感じている不安や恐怖を具現化してみせることで、古臭くなりかけていたホラーという分野を再生させたのです。

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3、現代に対する不安のタペストリー

リチャード・マシスンのアイディアには、シンプルですが、現代に生きる人間の不安感に訴える力があります。

例えば、吸血鬼に征服された地球で最後の人類となった主人公が孤独に吸血鬼狩りを続ける「地球最後の男」(1954年)には、東西冷戦期におけるアメリカ人の共産主義という異なる価値観の拡大に対する不安をベースにしています。

例えば、普通の男がただ小さくなってゆくだけを描いた「縮みゆく人間」(1956年)には、急激に拡大する経済社会の中で、個々の人間の存在感がどんどん稀薄になってゆく現実が反映されています。

例えば、砂漠をドライブ中の夫婦が、ふと立ち寄ったレストランで、妻が洗面所に立ったほんの短い間に夫の姿が消えてしまう「恐怖のレストラン」(1973年)は、世界の最先端を走る「都会のアメリカ」と世界の流れに背を向けて保守化を強める「田舎のアメリカ」という「2つのアメリカ」の乖離が広がり始めた、70年代のアメリカの空気が描かれています。

マシスンは多くの作品を残していますが、それらは現代社会に人間の抱いている不安のタペストリーとなっています。

4、個人的なマシスンとの出会い

私が初めて読んだマシスン作品は「宇宙恐怖物語」というアンソロジーに収録された「チャンネル・ゼロ」という短編小説で、小学校高学年の頃でした。

テレビが普及しだした1950年代初頭を舞台に、新しいテクノロジーであるテレビへの不安感を描いた短編なのですが、その描き方が子供心にも思わず笑ってしまうほど、バカバカしくシンプルなアイディア(テレビが人間を食べてしまう!)なのです。

しかし、だからこそ印象的な作品で、テレビが得体のしれない不気味なマシーンのように描かれています。そこに、当時の人たちの新しいテクノロジーに対する不安感が、見事に表れていました。
(グインサーガの作家、栗本薫が「チャンネル・ゼロは傑作!」と評価していました。傑作!の後に(笑)がついていましたが…)

ちなみに「宇宙恐怖物語」(ハヤカワSFシリーズ)は傑作ぞろいで、「にせもの」という強烈な作品でフィリップ・K・ディックと初めて出会ったのも、このアンソロジーでした。

当時はまだ小学生で翻訳SFの長編を読むのはなかなか大変だったので、短編集やアンソロジーをよく読んでいたのですが「宇宙恐怖物語」は特に印象に残っています。今は入手しにくくなっていますが、ぜひとも復刻して欲しいものです。

次回は、マシスンの代表作「地球最後の男(アイ・アム・レジェンド)」がモダンホラーに与えた影響についてお話したいと思います。
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翼を持った天使は赤富士の夢を見る

1、ASKA逮捕の衝撃と余波

CHAGE and ASKAのASKAが覚せい剤使用疑惑で逮捕されたことは、日本中に衝撃を与えましたが、ASKAの関わったCDやDVDなどが回収されたことには、多くの人が疑問を投げかけています。
ミュージシャンが禁止薬物を使用したからといって、その人の過去の全仕事が否定されることにはならない筈です。
事なかれ主義から生じた極端な対応という印象は否めません。

そして、その余波をうけて、DVDボックス「宮崎駿監督作品集」の発売が延期され、CHAGE and ASKAのプロモーション・フィルムとして製作された「On Your Mark」の収録中止が決定しました。

これは、本当に勿体ない話しです。
宮崎駿の「On Your Mark」は僅か7分弱の短編ですが非常に密度が濃く面白い作品で、「ジブリ時代の宮崎駿のベスト」と言う人がいる程なのです。


Who pays the electricity? / PoYang_博仰

2、都市伝説

ところで、ネットでは「On Your Mark」が除外されることについて、「ASKAの件は口実に過ぎないのではないか?」という都市伝説めいた噂が囁かれているようです。

「ASKAのせいではなく、放射能問題に触れているから販売中止にしたのだ」という噂なのです。
もちろん噂の真偽は分かりません。

井伏鱒二原作で今村昌平が監督した「黒い雨」のように、3.11後に実質的に封印されてしまった作品もありますから、全くあり得ない話とは言えないと思いますが、この噂は都市伝説の域を出ないようです。

この都市伝説が生まれたのには理由があります。
実はネットの世界では、3.11の福島原発事故の後に、2つの短編映画が「まるで今の日本を予言していたかのようだ」と話題に上がっていました。

それは、黒澤明の「夢」の一挿話「赤富士」と宮崎駿の「On Your Mark」でした。

今、世界で最も知られている日本の映画作家を挙げろと聞かれたら、まず黒澤明と宮崎駿の名前が出るでしょう。

そして、この二人は、一貫して反核・反原発の立場を貫いた作家でもあるのです。


Fuji-san and Moon / Go Uryu
 
Nuclear power plant “Isar” at night / bagalute

3、黒澤明の「赤富士」

黒澤明の「夢」は、1990年に公開されたオムニバス形式の映画で、黒澤明自身が見た夢を元に、8つの挿話が語られて行きます。

1986年に起きたチェルノブイリ原発事故によって日本でも反原発の機運が高まっていた頃に製作された、明確にエコロジーと反原発をテーマに打ち出している作品で、「赤冨士」は6番目の挿話です。

原子力発電所で次々と爆発が起こり、目の前で富士山が真っ赤に染まりながら溶けるように噴火している極限状況で、海辺の断崖に取り残された主人公と子供を連れた母親と謎の男、三人の生存者に放射能汚染されたガスが迫って来ます。

この作品は非常にストレートに原発の危険性を訴えています。

「原発は安全だって」「問題はないって抜かした奴は、許せない。あいつらみんな縛り首にしなくちゃ、死んだって死にきれないよ!」という、根岸季衣演じる子連れの母親の、叫ぶようなセリフが印象に残ります。

公開当時は、その余りに直接的な主張に、否定的な論調も多く見られました。
私は黒澤明の反原発の姿勢を支持していましたが、それでも当時は「少しストレートすぎるかな?」と感じていたのです。

しかし、福島原発の事故を経て、改めて見た「赤富士」は恐ろしいほどのアクチュアリティを持って私に迫って来ました。

当然のことです。
3.11後の私たちは、黒澤明が「赤富士」で語った悪夢が「夢」ではなくなってしまった世界に生きているのですから。

黒澤明は「ある生きものの記録」「夢」「八月の狂詩曲」と一貫して反核・反原発を訴えました。
そして、反核・反原発を題材にしたときは、敢えて捻ることなく、直球の作品で私たち観客に問いかけようとしていました。

4、宮崎駿の「On Your Mark」

「On Your Mark」はCHAGE and ASKAが発表した同名曲のプロモーション・フィルムですが、1995年に「耳をすませば」の同時上映として劇場公開もされました。

私は、何も知らずに「耳をすませば」を観にいって「On Your Mark」の方に興奮したことを覚えています。わずか6分40秒の短編映画ですが、長編映画を丸ごと一本観たかのような濃密な充実感があったのです。

舞台は、地上が原発事故の放射能で汚染され、人類が地下に住むようになった世界です。

主人公の警官2人は、カルト教団の施設を襲撃した際に、施設の奥から背中に翼の生えた少女を救出します。どうやら少女は放射能汚染で生まれた突然変異で、カルト教団にシンボルとして誘拐されていたのです。
少女は今度は研究対象として政府に隔離されます。
2人は研究施設から少女を救いだし、地上に解放しようと奮闘します。


TVA nuclear plant / Tennessee Valley Authority
 
US Highway 169 – Minnesota / Dougtone

5、バッド・エンドかハッピー・エンドか?

映画は、救出に失敗するリアルなバッド・エンドと、成功するフィクショナルなハッピー・エンドを交互に見せて行きます。一応、少女が解放され天使のように飛び立つハッピー・エンドで映画は終わります。

しかし、一見美しい地上は、放射能に汚染された人間の住めない世界なのです。地下世界から軍隊に追われて地上に逃げて来た主人公たちにとって、これはハッピー・エンドと言えるのでしょうか?

失敗しても成功しても、その先には悲劇しか待っていない悪夢のような未来が、軽快なエンタテインメントとして描かれています。
宮崎駿はこの作品を、自ら「悪意に満ちた映画」と形容しています。

地上には原発が林立しているのですが、焦げ茶色の巨大で異様な建造物も見られます。
公開当時は、その建造物が何だか分からなかったのですが、宮崎駿はこれを廃棄された原発であると言っています。

つまり、事故によって石棺にされた原発なのです!
チェルノブイリ原発事故を調べることで得た着想なのでしょうが、その先見性には、やはり衝撃を受けます。

6、優れた想像力が未来につながる

日本を代表する2人の映画作家が、20年近く前に福島原発事故を予見し警告するような作品を作っていたのは、象徴的なことです。

「現実は芸術を模倣する」という言葉がありますが、それが最悪の形で実現してしまったかのようです。

しかし、私たちはここから「今を予言したみたいで凄い」と面白がったり、都市伝説的な噂に興じるのではなく、「正しい未来を選択するためには、優れた想像力を持たなければならない」ことを学ぶべきではないでしょうか?

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タヌキたちは戦いに敗れた

1、豚の次はタヌキだ!

高畑勲の「平成狸合戦ぽんぽこ」は宮崎駿が「豚の次はタヌキだ!」と言ったひとことで始まった企画だそうです。

宮崎駿は、引退会見で次のような話をしていました。

自分たちがジブリを始めた頃、日本はバブル経済まっさかりで浮かれていた。自分たちはそれに反発していて「物は豊かもしれないけれど、心はどうなのか?」というスタンスで作品を作ってきた。
ところが、ソ連が崩壊し、ユーゴスラビアでもう起きないと思っていた内戦が起き、そしてバブルが崩壊して、それまでの延長線上ではもう作品が作れない状況に追い込まれた。
その時、僕と高畑さんは、豚やタヌキを主人公にした作品を作って、時代をかわして切り抜けたのだ。

正確ではありませんが、こんな感じの話でした。

つまり、宮崎駿の「紅の豚」と共に、高畑勲の「平成狸合戦ぽんぽこ」もまた、ソ連崩壊による東西冷静の終結という時代が生み出した作品だったのです。


ホンドタヌキ (Japanese Raccoon Dog) / Dakiny

狸/raccoon / hiyang.on.flickr

2、平成狸合戦ぽんぽこ

「平成狸合戦ぽんぽこ」は。多摩ニュータウン開発で生息圏を失い始めたタヌキたちが、人間たちに戦いを挑み、そして敗れてゆくドラマです。

タヌキたちがのんびりと暮らしていた東京の多摩丘陵は、まだ自然に溢れていました。
ところが、多摩ニュータウン開発のための宅地造成によって、タヌキたちのエサ場は次々に破壊されて行きます。
ついに、タヌキたちはすみかである森を守るため、人間に戦いを挑みます。
戦いを挑むといっても暴力を振るう訳ではなく、タヌキのお家芸である幻術で人間を化かして驚かして追い出そうとするのです。

映画はタヌキ達の幻術大作戦をユーモラスに描いていきます。
タヌキはみんなで一生懸命人間を化かすのですが、人間はちょっと不思議がるだけで、タヌキたちの奮闘がまるで役に立たないのが哀れを誘います。

3、タヌキたちの二つの顔

この作品にも二つの顔があります。
一つは、タヌキたちが自然を守るために、人間たちと、いささか一人相撲的な戦いを繰り広げるドラマです。

そして、このタヌキたちの戦いにはもう一つの意味が込められています。
それは、戦後日本の市民運動です。
ユーモラスで哀れなタヌキたちの姿には、体制に挑み敗れていった、市民運動家の姿が重ね合わせられているのです。

ドタバタと反目しあいながらも、やがて団結し戦いに挑むときの昂揚感。しかし、巨大な力の前に敗れる過程で、亀裂と対立が生まれ分裂して行くむなしさ。
直接的には、この映画のタヌキたちは、高畑勲が委員長で宮崎駿が書記長だった東映動画労働組合がモデルになっているそうです。

しかし、この作品のタヌキたちの戦いは、戦後の日本のあらゆる社会運動の歴史そのものなのです。
映画批評家の森卓也は、高畑勲にインタヴューした際に、終始きまじめで固い表情だった高畑監督の顔が唯一なごんだのは、森卓也が「タヌキたちが三里塚の人達に見えて来ますね」と言った時だった、と回想しています。
(え?三里塚って何って?・・・ググって!)


Leftist rebel. / MIKI Yoshihito (´・ω・) 
Anti-AKW-Demo in Koenji 036 / ペーター

4、戦後民主主義の希望と挫折

この作品の試写を見た宮崎駿は「スッキリしたカタルシスなんか無いけれども、現代を見事に反映している。エンタテインメントの枠を越えている」と評価し、平成狸合戦ぽんぽこは「戦後民主主義の希望と挫折を描いた作品」だと総括しました。
また、「日本社会党の盛衰を描いたようにしか見えない」と感想をもらした人もいます。

そんな視点で見ると、ユーモラスでお人よしだけれど、間が抜けていて、まるで弱いタヌキたちの戦いが、とても苦く悲しいものに感じられるのです。

私が胸を締め付けられたのは、ラスト近くに、タヌキたちが最後の幻術を振り絞って「幻の懐かしい田舎」を再現させるくだりです。
そのあまりに見事な幻術に、人間だけでなくタヌキたち自身も引き込まれてしまいます。
そして、タヌキたち自身が懐かしさの衝動にかられて、幻の田舎に戻って行こうとすることによって、幻は消え去ってしまうのです。

なんと苦く、そしてなんと見事な暗喩なのでしょう。

5、本当の「大人向け」作品

「紅の豚」と「平成狸合戦ぽんぽこ」は、東西冷戦体制の終焉という時代の転換点に、宮崎駿と高畑勲という戦後のリベラリズムの中でアイデンティティを確立してきた二人の映画作家が、豚とタヌキの形を借りて自分たちの立ち位置をもう一度見つめ直そうとした作品だと言えます。

スタジオ・ジブリ作品の多くは、子供や若者の成長を描いていますが、この2作品は「大人の挫折」を描いています。
真に大人向けの映画なのです。

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紅の豚は政治の季節を生きた

1、スタジオ・ジブリ版動物ファンタジーの正体

スタジオ・ジブリのアニメーションのほとんどは、思春期の少年や少女を主人公にして、その成長する姿を描き、多くの人々の共感を得ています。

そんなスタジオ・ジブリにも、動物を主人公にした作品があります。それは、言うまでもなく、宮崎駿の「紅の豚」と高畑勲の「平成狸合戦ぽんぽこ」です。


Blank Airport – Flying Pig ! / oddsock
 
Raccoon Dogs: Tanuki;たぬき、信楽焼き / Conveyor belt sushi

ジブリの作品で主人公が人間ではなく動物なのは、この2作品だけです。動物が主人公ですから、はっきりとファンタジーであり、子供向けのディズニー的な作品であるともいえそうです。
ところが、この2作品こそ、ジブリ作品のなかでも最も大人向きで、かつ最も政治的な作品なのです。

2、社会主義革命への鎮魂歌

初めて「紅の豚」を観たとき、余りにもストレートな政治的メッセージであることにびっくりすると共に、それが批評などで指摘されないことに不思議な気持を覚えました。

「紅の豚」はタイトルからしてあからさまです。「赤い豚」ですから。
「赤い豚」は、言うまでもなく、共産主義者や社会主義者に対する蔑称です。

舞台はファシズムが台頭する1920年代のイタリア。第一次世界大戦の英雄である主人公は、軍隊に入ることを嫌い「ポルコ・ロッソ(赤い豚)」と呼ばれながら、アドリア海で紅い飛行艇に乗り、賞金稼ぎを続けています。
主人公の昔馴染みマダム・ジーナは、自分の経営するクラブで「パリ・コミューン」を追悼したフランスのシャンソン「さくらんぼの実るころ」を歌います。

このシーンは、宮崎駿からの失われた社会主義の理想に対する鎮魂歌です。


ニューヨーク バー / Norio.NAKAYAMA

ニューヨーク バー / Norio.NAKAYAMA

3、さくらんぼの実るころ

宮崎駿は、社会主義は19世紀から20世紀にかけて行われた、人間の尊厳を守る政治が実現できるのか?という壮大な実験だった。そして、みごとに失敗したのだ。と言っています。

けれど、19世紀後半のパリでほんの一瞬、短い間だけ「パリ・コミューン」という労働者による社会主義の理想的政権が実現していたのです。
残念ながら、パリ・コミューンは「血の一週間」という軍による市民の大虐殺で唐突に終わりを迎えてしまいました。
「さくらんぼの実るころ」は、ラヴソングの形で、失われたパリ・コミューンへの悼みを歌っているのです。

「紅の豚」の製作は、加藤登紀子が「さくらんぼの実るころ」を歌う姿をライブアクションで撮影することから始められました。マダム・ジーナが歌うシーンは、その実写を元に作画されています。

まずライブアクションを撮影してそれを元に作画する手法は、往年のディズニーでも採用されていましたが、宮崎駿は「アニメーションはアニメーターの想像力によって生み出されるべき」と、その手法には批判的だったはずです。
しかし、「紅の豚」のときは「この映画の全ては、ここから始まる」と言って、加藤登紀子のライブアクションにこだわりました。

マダム・ジーナの声を演じた加藤登紀子は、安保反対闘争時代の学生運動を象徴する歌姫です。
そして、映画のエンディングテーマは加藤登紀子が学生運動時代を回顧した「時には昔の話を」でした。

宮崎駿の思いが、ストレートに伝わって来ます。

4、紅の豚は飛び続ける

ソ連が崩壊したことによって東西冷戦が終結し、東側が崩壊したことによって、現実の社会主義革命は、はっきりとその終焉を宣告されてしまいました。
そして、西側の超大国アメリカは、高らかに「自由主義の最終勝利」を謳いあげていました。
かつて、社会主義革命の理想を信じた人たちは、うつむきながら(あるいは何食わぬ顔で)、静かに自由主義へと転向して行きつつありました。

「紅の豚」は、そんなソ連崩壊後の、世界の左翼が羅針盤を失い揺らいでいる時期に公開されたのです。
そこに込められたメッセージは明瞭です。
「俺は(お前たちと違って)簡単に転向しないぞ!」と叫んでいるのです。

「俺は、たとえ一人になって豚と呼ばれても、赤い飛行艇に乗って飛び続けてやるぜ!」と言っているわけです。

しかし、そのメッセージは声高に叫ばれるのではなく、独白のように呟かれています。
他人に訴えるのではなく、自分に言い聞かせるかのように。


アドリア海に面したカフェ / chiaki0808

5、過ぎ去った青春への決別

「紅の豚」は表面的には非常に明るいエンターテインメントです。ポルコ・ロッソと空賊たちが、アドリア海というリゾート地のような場所でバカ騒ぎをしているだけ、の作品にも見えます。
しかし、その背後にはファシズムの近づく時代への不安や失われた理想への追悼が流れていて、「透明な悲しみ」とでもいうべきムードが感じられます。

宮崎駿が公開後のインタヴューで「ある若い女性に『ものすごく静かな映画でした』と言われた。この人はこの映画をちゃんと受け止めてくれたと思う」と語っていたのが印象に残っています。
この作品の主人公は、「俺は飛び続けるぞ」と叫びながらも、社会主義革命という過ぎ去った青春に別れを告げているようにも、感じられるのです。

次回は、ジブリの政治闘争の第2幕「平成狸合戦ぽんぽこ」について、お話ししましょう。

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「紅の豚」は「風立ちぬ」

1、風の向こうに豚が見えた

宮崎駿の「風立ちぬ」を観ている間、私はずっと「あぁ、これはリアルに語り直された『紅の豚』なんだな」と感じていました。

豚が主人公のファンタジーと言っても良い「紅の豚」と日本の大正から昭和にかけての現実の日本を舞台にした「風立ちぬ」は、まるで違うトーンの作品に見えますが、両者には大きな共通点があります。

それは、宮崎駿の作品には珍しく「大人の男」が主人公であること。そして、その主人公には、明らかに宮崎駿自身が色濃く投影されていることです。


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2、「紅の豚」と「風立ちぬ」は同じ話?

「紅の豚」は第一次世界大戦後のファシズムが台頭するイタリアで、軍部に飲み込まれることを嫌ったパイロット(でも豚)の「ポルコ・ロッソ」が、あくまでも賞金稼ぎとして飛び続けます。そして背景には、主人公を見守るヒロイン「ジーナ」との実るようで実らない恋が描かれています。
「紅の豚」は宮崎駿が、大人を主人公にして趣味の飛行機を題材にした初めての作品でもあります。

一方「風立ちぬ」は、関東大震災を経て日本が急速に軍国主義化し、遂に太平洋戦争に突入するまでの時代を舞台に、時代に翻弄されながらも理想の飛行機開発の夢を追い、同時に結核の女性との恋を生きた主人公を描いています。
宮崎駿は、零戦開発一筋に生きた堀越二郎に、明らかにアニメーショ一筋に生きた自分の姿を重ね合わせていて、堀越二郎の形を借りて宮崎駿が自分を描いた作品ともいえます。

比べてみると「紅の豚」と映画「風立ちぬ」は構造がそっくりであることが分かるはずです。というより「紅の豚」から、「アドリア海」とか「豚」とか「アクション」とか「カタルシス」とかを引きはがして、日本を舞台に語り直したのが映画「風立ちぬ」なのです。

草原&空草原&空 / 柏翰 / ポーハン / POHAN

3、「飛行機の墓場」が語るもの

「紅の豚」の世界と映画「風立ちぬ」の世界に深い結び付きがあるのは、「飛行機の墓場」の描写からも分かります。

「紅の豚」でポルコが臨死体験の思い出を語るシーンでは、空中戦で一人生き残ったポルコが、戦友たちが飛行機に乗ったまま昇天し、朽ちた飛行機の群れが天の川のようになった「飛行機の墓場」に飲み込まれて行くのを目撃します。
そして映画「風立ちぬ」のラスト、おそらくこの世とあの世の境目にいるのであろう主人公は、やはり天の川のような「飛行機の墓場」を目撃するのです。

この「飛行機の墓場」は、時代に飲み込まれ理想を実現することなく挫折していった若者たちへの、宮崎駿の鎮魂歌に思えます。

アドリア海に面したカフェ
アドリア海に面したカフェ / chiaki0808

4、「紅の豚」は「風立ちぬ」

「紅の豚」は宮崎駿が自分を描いた非常に政治的な作品ですが、表面的にはリゾート地でばか騒ぎをしているエンターテインメントに見えるため、余り語られて来なかった作品でもあります。

一方の「風立ちぬ」は、説明を排した淡々とした語り口で「観客のために説明する」という配慮があまり感じられません。
常々「アニメーションは子供のためにつくる」と言っていた宮崎駿ですが、ここでは子供どころか大人の観客すら意識せず「自分のためにつくる」というスタンスを貫いています。
そのため「感動のドラマ」を期待した観客の多くが、戸惑った反応を示したようですが、宮崎駿の最高傑作という声も聞かれます。

宮崎駿にしてみれば、「紅の豚」への観客の反応を見て「自分の真意が伝わっていない」というもどかしさを、ずっと感じていたでしょう。
そこで、彼はキャリアの最後に、オブラートを除いた形で「紅の豚」をもう一度語り直したい、と思ったのではないでしょうか。

つまり、エンターテインメント「紅の豚」は宮崎駿にとって、堀辰雄の小説『風立ちぬ』であり、リアルな『菜穂子』にあたるのが宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」なのです。

そんな視点から、映画「風立ちぬ」と「紅の豚」をもう一度見直してみると、今まで見ていた筈の映画とは違う、また別の姿が浮かび上がってくるかもしれません。

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「風立ちぬ」と菜穂子

1、ヒロインの名は菜穂子

宮崎駿のアニメーション「風立ちぬ」は、彼のキャリアのラストを飾るのにふさわしい見応えのある作品でしたが、映画を見ながら気になっていた事がありました。
それは、映画のヒロインの名前が菜穂子である事です。
アニメーション「風立ちぬ」の元になった堀辰雄の小説「風立ちぬ」のヒロインの名前は節子のはずです。
なぜ、ヒロインの名前は菜穂子なのでしょう?


White birch trees. / MIKI Yoshihito (´・ω・)

白樺と冬 / Naoharu

2、宮崎駿の「風立ちぬ」

2013年9月6日、アニメーション作家の宮崎駿が「今回は本気です」と長編アニメーションからの引退を表明し、宮崎駿最後の長編は「風立ちぬ」になりました。

「風立ちぬ」は宮崎駿のキャリアのなかでも異色の作品です。
零式戦闘機の設計者である堀越二郎の「零戦開発奮闘記」と結核に侵された婚約者との悲恋を描いた堀辰雄の小説「風立ちぬ」を(勝手に)ミックスして、実在の人物が主人公の伝記風物語なのに全くのフィクション、という不思議な作品になっています。

ところで最初にお話ししたように映画「風立ちぬ」のヒロインの名前は菜穂子ですが堀辰雄の小説「風立ちぬ」のヒロインの名前は節子です。
そして、堀越二郎の実際の奥さんの名前も菜穂子ではありません。

じつは、菜穂子とは堀辰雄のもうひとつの小説「菜穂子」のヒロインの名前なのです。

3、「意思を持った女性」としての菜穂子

「菜穂子」は、晩年の堀辰雄が「結核という不治の病になった女性が恋を通して生きる意味を確認する」という「風立ちぬ」のテーマに、よりリアルな視点でもう一度挑んだ作品で、堀辰雄の最高傑作とも言われています。

堀辰雄の小説「風立ちぬ」の節子は愛されながら死んで行く受け身の女性ですが、「菜穂子」のヒロインはもっと意思の強さを持った女性で、映画後半の「療養所から菜穂子が抜け出してくる」エピソードは、小説「菜穂子」から採られています。

菜穂子は明らかに節子より複雑で魅力的な人間として描かれていて、厳しい批評家でもあった三島由紀夫はその人物造形について、「菜穂子だけは古びない」「堀辰雄が真に創造した人物」と激賞していました。

宮崎駿の「風立ちぬ」のヒロイン菜穂子は、小説の節子に比べて、ずっと積極的で行動的な女性です。宮崎駿は強い女性が好きですから、ヒロインだけを敢えて菜穂子にしたのかも知れません。

しかし、堀辰雄にとっての小説「風立ちぬ」と「菜穂子」の関係を考えてみると、宮崎駿が自分の「風立ちぬ」のヒロインを菜穂子としたのには、もう一つ別の理由が見えて来ます。

Sunset WomanSunset Woman / mrhayata

4、「菜穂子」は「風立ちぬ」の語り直し?

小説「風立ちぬ」と「菜穂子」は、まるで写真のポジとネガのような関係になっています。
「風立ちぬ」は「元祖難病もの」というべき作品で、結核を通して主人公とヒロインの純化された恋愛が描かれます。しかし、「菜穂子」のヒロインは結核になった時点ですでに結婚していて、しかも夫婦仲は冷え切っています。
菜穂子は小説の後半で療養所を抜け出して夫に会いに戻りますが、そこで夫婦仲が劇的に復活する訳でもありません。小説はヒロインの背負う苦悩に何の解決も示さず、しかし、前を向いて人生を受け止めようとする菜穂子の姿を描いて終わります。
小説「風立ちぬ」は美しい作品ですが、今の目で見るといささか単純化され美化され過ぎているようにも見えます。
ところが、より現実的な「菜穂子」を読んでからもう一度「風立ちぬ」に戻ると、純愛小説「風立ちぬ」の背後に「菜穂子」の現実的世界が二重写しになって、深みを増したような広がりを感じるのです。

5、宮崎駿が語り直したかったもの

ここで、宮崎駿の「風立ちぬ」に戻ると、この作品は主人公が軍国主義の波に抵抗しながら、飛行機への情熱と結核の女性との愛に生きる姿を描いています。
「空を飛ぶことへの情熱」と「愛し合いながらも結ばれ得ない愛」、宮崎駿は同じテーマの作品をもう一つ作っています。
それは「紅の豚」です。
そう、宮崎駿の「風立ちぬ」は「紅の豚」の語り直しなのです。

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補論:ユージュアル・サスペクツは何故アンフェアなのか?

※ ネタバレ注意!
今回のコラムには、論旨を進める関係上、アガサ・クリスティの小説「アクロイド殺し」と映画「ユージュアル・サスペクツ」についての、ネタバレが含まれています。
未読、未見の方は、ご注意ください。

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1、ミステリの革命「アクロイド殺し」

アガサ・クリスティが1926年に発表した「アクロイド殺し」は、当時ミステリ史上最大のどんでん返しとして大評判になると共に、フェアかアンフェアかで一大論争を巻き起こしました。
それまでの本格ミステリは、すべての証拠を正直に読者に開示して、作者と読者が知恵比べをするものでした。
そして、その上で読者の予想を上回る意外な真相を作り出すのが、優れた作品だと考えられていました。

ところが、「アクロイド殺し」は作者自身、つまり小説の語り手が読者を引っ掛けようとしていました。
「信用できない語り手」という叙述トリックで、今では濫用されていますが、当時の読者は初めての経験で、まさか語り手が自分を騙すとは思っていなかったので「分かる訳ないだろう!ずるい!」となったのです。

これは、それまでのミステリの掟破りでしたから、フェアかアンフェアかで論争がおこったのです。


St. Augustine’s Abbey @ Canterbury / Hyougushi

St. Mary’s Church @ Brownsea Island / Hyougushi

2、小説における叙述トリックのルール

「アクロイド殺し」の論争は、最終的には叙述トリックにおける一つのルールにたどり着きました。それは、「一人称の語り手は、読者に嘘をついても良いが、三人称で嘘をついてはならない」というものです。

一人称の語り手は、あくまでも小説世界の中の登場人物です。
人間は嘘をつく生き物ですから、読者は「この人は嘘をついているかもしれない?」と予想することが可能なはずです。従って、読者と作者の知的ゲームが成立する余地があるわけです。

ところが、三人称は客観的な描写、言わば神の視点です。
ですから、三人称で嘘をつかれてしまうと、もう読者と作者の知的ゲームは成立しません。小説という枠組み自体が破壊され、読者は何を信じてよいか分からなくなってしまいます。

「アクロイド殺し」は、叙述トリックのルールは守られているため、現在ではアンフェアな作品とはされていません。

3、映画における叙述トリックのルール

映画においても「信用できない語り手」という叙述トリックはあるのですが、その扱いは小説よりもさらに難しくなります。

なぜなら、映画は基本的に三人称しかありません。
ナレーションなどを使って一人称のように語られる作品はありますが、描写自体は客観描写しかありません。映画はその場で起こっていることを「外側から写す」ものだからです。

従って、映画の場合は「登場人物の語る嘘を、事実であるかのように映像化してはならない」と考えられてきました。これをやられてしまうと、観客には映画の嘘を見抜くことが不可能になってしまいます。

仮に、登場人物の嘘を映像化する場合には、「ここは登場人物の主観の映像化である」とハッキリ分かるようにするのが、最低限のエチケットでした。

実は、アルフレッド・ヒッチコックも1950年の「舞台恐怖症」という作品で、語り手の嘘の映像化を部分的にやったことがあり、後年に「あれは、してはならない間違いだった」と回想しています。


Chicago during the Polar Vortex / akasped

Chicago street photography – The One That Got Away / kevin dooley

4、ユージュアル・サスペクツの掟破り

ユージュアル・サスペクツという作品の最大の問題点は、この作品が「最初からラストの直前までほぼ全編、語り手の嘘の映像化のみで構成されている」という点にあります。

これが、私がこの作品を「ミステリにおける夢落ち」と呼ぶ理由です。一部どころか全部が嘘ですから。
そして、最後に「全部、嘘でしたー!」と言って終わる訳です。

確かに意外です。しかし、ここにミステリにおける「騙される快感」は稀薄です。
なぜなら、「騙される快感」は読者や観客の「自分が注意深けれ、気が付くハズだったのに!」という思いから、導かれるものだからです。
けれど、全部が嘘では「分るワケないじゃん」としか思えないでしょう。

5、掟破りの無政府状態

さらに問題なのは、「ユージュアル・サスペクツ」はミステリ映画史上最大の掟破りなのにも拘わらず、フェアかアンフェアかという論争がほとんど起きることなく、アカデミー賞の脚本賞まで受賞してしまったことです。
その結果、ミステリ映画における掟破りの無政府状態を呼んでしまったと言えます。

今、「登場人物の嘘を映像化するのはルール違反だ」と言っても「え?そうなの?」と不思議に感じる人が多いでしょう。
「ユージュアル・サスペクツ」以降、そのタブーは明らかに破られたからです。

タブーを破る瞬間には、確かに快感があるのですが、その後は、いずれタブー破りもマンネリ化しグズグズになって行くだけです。

私は、実は「ユージュアル・サスペクツ」がつまらない作品だとは、思っていません。
けれど、その功罪については、きちんと検証しておく必要があると思うのです。

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「意外性」受難の時代とユージュアル・サスペクツ

1、ミステリにおける「意外性」受難の時代

近年、特にミステリ映画の世界で、オーソドックスなどんでん返しはまだまだ現役なのでしょうか?
実は残念なことに、もはや使い古されて、なかなか衝撃を受けるに至らない、というのが正直なところかもしれません。

そもそも、今の若い人たちが初めて「サイコ」や「悪魔のような女」のような往年の名作を観たとしても展開が読めてしまって、当時の観客のように素直に驚くことは出来ないでしょう。
古典的なミステリの名作のプロットは、その後さんざん模倣され尽くしているので、多くの人がオリジナルより先に、「名作の出来の悪いエピゴーネン」の方に出会ってしまっているからです。
しかも、ミステリにおける「意外な展開」のパターンはだいたい限られていますから、大抵のプロットにはすでに出会ってしまっているんですね。

そして、そんなミステリにおける「意外性」受難の時代を象徴すると思われる映画が「ユージュアル・サスペクツ」です。

ユージュアル・サスペクツ

ユージュアル・サスペクツ


2、掟破り「ユージュアル・サスペクツ」の登場

「ユージュアル・サスペクツ」は1995年に公開された、脚本クリストファー・マッカリー、監督ブライアン・シンガーの作品で、アカデミー脚本賞を受賞しています。

いつもケチな犯罪をしている5人の「おなじみの容疑者(ユージュアル・サスペクツ)」達が、伝説のギャング「カイザー・ソゼ」の企みに巻き込まれる経過が、少しずつ解き明かされていくドラマです。

公開されてから、もう20年近くになるんですね。若い人には十分「昔の映画」でしょうが、この作品に出会った時のショックはまだまだ新しいものです。

今「意外なラストの映画を一本上げろ」と聞かれたら「ユージュアル・サスペクツ」を上げる人は、かなり多いのではないでしょうか?

私も、この作品を観た時はラストにびっくりしました。しかし、その驚きは心地よい快感ではありませんでした。

なぜなら「ユージュアル・サスペクツ」は、ファンタジーやSFにおける『夢落ち』に相当するような、とんでもない反則技を使っていたからです!

3、ミステリにおける「夢落ち」?

夢落ちは、ファンタジーやSFでは絶対にやってはいけない!と言われている禁じ手で、異世界や未来のドラマをさんざん語った後に「ハッと目が覚めたら夢だった…」で終わるものです。
これを認めてしまうと、何でもアリになってしまいます。
何でもアリは、何にもないのと同じです。せっかく構築した異世界や未来社会が、リアリティを持って私たちの胸に迫ることもなくなってしまいます。

そして「ユージュアル・サスペクツ」も、様々な謎が解き明かされた後に「全部○○でした〜」と言ってしまい、観客を放り出すのです。確かに意外ではありますが、「ミステリで、それをやっちゃあ、お終いよ」なのです。

本来の良くできた「意外なラスト」はラストに向けて伏線を張り巡らせておいて、真相を知った読者や観客に「そうだったのか!確かにそうだよ!そうに、決まってるじゃないか!」と叫ばせるものです。
作者とのフェアな知恵比べに見事に敗れたからこそ、快感が生まれるのです。

ところが、「ユージュアル・サスペクツ」のオチは、予想しようがないので、観客の感想は「そうだったのか!」ではなく「解かる訳ないだろ!」になってしまいます。フェアに騙された感じがしない訳です。

4、反則技の時代

もっとも、従来の「意外なラスト」は現代の観客にはほとんど想像がついてしまいます。「ユージュアル・サスペクツ」のような「反則技」を使わなければ、現代の観客を引っ掛けることが出来なくなっているのかもしれません。
ただし、この反則技では、観客に意外なラスト本来のカタルシス(フェアプレイによる「そうか!そうだったのか!」)を感じさせるのは難しくなります。

「ユージュアル・サスペクツ」が上手いのは、ラストの真相を明かす語り口が、ちょっと気が利いているので、観客はフェアプレイによるカタルシスを感じたような錯覚を覚えるのです。
そのせいか、「ユージュアル・サスペクツ」はミステリの本質を破壊しかねない危険を秘めた反則技を使っているにも拘らず、今では普通に名作扱いされてしまっています。

アクロイド殺し

アクロイド殺し

5、フェアかアンフェアか?

「ユージュアル・サスペクツ」の脚本家は「クリスティの「アクロイド殺し」にヒントを得た」と語っているようです。
確かにそう言われると両者には共通点があります。「アクロイド殺し」も発表時に「フェアかアンフェアか?」で論争が起きました。

しかし、両者は似て非なるものではないでしょうか?
(これ以上お話しすると、両作品のネタバレに踏み込まなければなりません。回を改めて、しっかりお話ししたいと思います)

「ユージュアル・サスペクツ」を「アンフェア」だと指摘する人が、何故かミステリ好きにもあまりいないのが不思議でもあり、困ったことでもあります。

元日本版ヒッチコック・マガジンの編集長である作家の小林信彦は、流石に「これはアンフェアだ」ハッキリ指摘していました。(こんな脚本がアカデミー賞とはアメリカも劣化したものだ、とすら言っていましたね)

たまにはこんな変化球も良いとおもいますが、「意外なラスト」の未来が「ユージュアル・サスペクツ」にしかないとしたら、ちょっと困ったことです。

反則技の困ったところは、誰にでもマネがしやすい所で、あっという間に広まってしまいます。もう一度王道に戻って、読者や観客を気持ちよく騙してくれる作品の登場を願っているのですが…。

※反則技の時代における「意外性」の映画ベスト?ファイブ

1、「エンゼル・ハート」アラン・パーカー監督(1987年)
2、「愛という名の疑惑」フィル・ジョアノー監督(1992年)
3、「真実の行方」グレゴリー・ホブリット監督(1996年)
4、「閉ざされた森」ジョン・マクティアナン監督(2003年)
5、「アイデンティティ」ジェームズ・マンゴールド監督(2003年)

1、エンゼル・ハート

エンゼル・ハート

エンゼル・ハート

ミッキー・ロークがまだバリバリの二枚目だった頃に撮られたオカルト風ハードボイルド・ミステリ。しがない私立探偵が悪魔的な連続殺人に巻き込まれ、追い詰められてゆく。スタイリッシュな映像がカッコいい。ラストは意外であると同時に納得の結末。

2、愛という名の疑惑

愛という名の疑惑

愛という名の疑惑

精神分析医のリチャード・ギアが夫殺しの容疑をかけられたキム・ベイシンガーにのめり込んで行く。彼女は本当に犯人なのか?オーソドックスでしっかりしたサスペンス。

3、真実の行方

真実の行方

真実の行方

またしてもリチャード・ギア主演の法廷サスペンス。主人公の弁護士が殺人容疑から救おうとする青年を演じる、エドワード・ノートンが素晴らしい。

4、閉ざされた森

閉ざされた森

閉ざされた森

ジョン・トラボルタ主演の、米軍基地を舞台にした「羅生門」的ミステリ。意外性を追求するあまり、かなり反則技の世界に足を踏み入れています。

5、アイデンティティー

アイデンティティー

アイデンティティー

「ミステリで最も意外で困難なシチュエーションは何か?」という問題にトライしたかのような作品。ミステリにおけるチャレンジ精神という意味では必見の作品です!

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ミステリの本質は「意外性」?

1、ミステリは「意外性」を求める

ミステリの醍醐味のひとつは「あっと驚くような意外性」でしょう。作者の企みにまんまと乗せられ振り回され騙されるのは、ミステリの最も面白い魅力のひとつです。

しかし、「意外性」には繰り返しが効かない、という宿命があります。
名作と同じことを繰り返して見せても、読者はもう同じようには驚いてくれません。

ミステリの歴史は、作者と読者の知恵比べの歴史だったともいえます。
多くの作家によって、盛んに新しい「意外性」の追求が行われますが、やがて飽和状態になって、いき詰まりが見えて来てしまいます。

すると今度は「社会派ミステリ」や「ハードボイルド」など、「意外性に頼らない」傾向の作品がブームとなります。
けれども、しばらくその状態が続くと、ミステリに「意外性」を求める声が、必ず再び湧き上がって来るのです。

今回は「意外性」を巡ってミステリの本質とは何かについて考えてみます。

サイコ

サイコ

 

 

2、どんでん返しの黄金時代

私がミステリの魅力に引き込まれたのは、少年時代にアガサ・クリスティの名作「アクロイド殺し」とアルフレッド・ヒッコックの映画「サイコ」に出会った時の衝撃がきっかけだった気がします。

ラストで真相が明らかになった瞬間には、まるで足元の地面が溶け落ちてゆくような、不安感を伴った衝撃を感じました。

1950〜60年代には、小説や映画でも最後の一発逆転に賭けたような作品が多く作られ強い印象を残しました。
特にフランスの作家ボワロー=ナルスジャックは、どんでん返しが得意な作家で、映画化されたアンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督の「悪魔のような女」やヒッチコック監督の「めまい」はミステリ映画としても古典となっています。
しかし、クルーゾーの「悪魔のような女」が、今では「昔の名作」という感じで、熱心な映画ファンやミステリファン以外には観られていないのに対して(私は大好きです。クルーゾー監督の話は、またいずれ。)、ヒッチコックの「めまい」は未だに「現役の名作」として多くの人に影響を与えています。それは、何故でしょう?

悪魔のような女(原作)

悪魔のような女(原作)

 

 

3、サプライズかサスペンスか?

理由はもちろん様々ですが、ひとつには構成の妙があります。
「悪魔のような女」が、原作通りにどんでん返しを山場に持ってきているのに対し、ヒッチコックの「めまい」は映画の中盤で、あえて原作のどんでん返しのネタを割ってしまって、後半は犯人側の視点から「いつ真相が主人公にバレるのか?」という緊張感を描いています。

ヒッチコックはその理由を「映画の魅力はサプライズではなくサスペンスだからだ」と述べています。

ヒッチコックによれば、サプライズは観客に強い衝撃を与えますが、その興奮は一過性のものにすぎず、一瞬のショックが過ぎ去ると観客の気持ちはむしろ映画から離れてしまう。しかし、終わりなきサスペンスは観客を作品世界の中に引き込み続ける、というのです。

彼の言を借りれば、「悪魔のような女」はサプライズだから時代とともに古び、「めまい」はサスペンスだからこそ今も愛され続ける名作としての強度を持っているのです。

ヒッチコックはサスペンス映画の巨匠ですが、「サイコ」を除いてサプライズ・エンディングを採用しませんでした。

多くのミステリ・サスペンス映画が時の流れと共に消え去って行った中で、ヒッチコックの作品が生き残っている理由の一つは、面白さを意外性だけに頼っていない事にあるのかもしれません。

めまい

めまい

 

 

4、それでも、やっぱり「意外性」

ヒッチコックは映画というメディアの特性から「サプライズよりもサスペンス」が有効だと主張していましたが、小説の世界においても、サプライズ重視からサスペンス重視へ移行して行くのが、ミステリの大きな流れとなって来たと言えるでしょう。

しかし、それでも私たちはミステリの意外性に惹かれます。
鮮やかに騙されたショックは、感動のドラマよりもサスペンスよりも、長く記憶に残ります。観客や読者を見事引っ掛ける新たな「意外性」を提示した作品は、今も名作として愛され続けています。
これからも、「意外性」を追求する作者と読者の知恵比べは、続いて行くに違いありません。

と言って終わりにしたいのですが、ミステリにおける「意外性」は、特に映画の世界では、ちょっと難しい所に来ているようです。
次回は、そのお話をしたいと思います。

※「意外性」のミステリ往年の名作、お薦めベストファイブ
1、「アクロイド殺し」アガサ・クリスティ
2、「幻の女」ウィリアム・アイリッシュ
3、「死の接吻」アイラ・レヴィン
4、「さむけ」ロス・マクドナルド
5、「ABC殺人事件」アガサ・クリスティ

1、アクロイド殺し

アクロイド殺し

アクロイド殺し

 

 

「ミステリの女王」アガサ・クリスティの最大の問題作。ミステリの意外性に革命を起こした作品で、発表当時、フェアかアンフェアかで大論争が巻き起こりました。

2、幻の女
画像幻の女

 

サスペンス小説の名手、コーネル・ウールリッチがウィリアム・アイリッシュ名義で書いた代表作。主人公は、冤罪に巻き込まれた友人のために、証人となる幻の女を求めて夜の街をさまよいます。この作品も古典中の古典です。

3、死の接吻
画像死の接吻

 

55年間にたった7作しか発表しなかった超寡作作家が23歳の時に書いた処女作にして最高傑作。サプライズとサスペンスの鮮やかな融合!この1作でアイラ・レヴィンはミステリの歴史に残りました。

4、さむけ
さむけ

 

現代ハードボイルドのスタイルを確立したロス・マクドナルドの代表作は、ハードボイルドであると同時に、意外性に満ちた本格推理小説でもあるのです。

5、ABC殺人事件
画像ABC

 

「意外性」に着目すれば、やはりクリスティこそミステリの女王でしょう。(これが「本格推理」になると一挙にエラリー・クイーンが逆転します。その話は、またいずれ)
特に「アクロイド殺し」「そして誰もいなくなった」そして、本作「ABC殺人事件」はミステリを語る上で決して避けて通れないマスターピースです。

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エンタテインメント探訪へのご招待

1、ご挨拶

初めまして、ウディすすむです。

これから、このブログで様々なエンタテインメントについてお話しして行きたいと思います。
私の趣味でミステリやSFの話題が多くなりますが、それだけでなく、音楽からスポーツまで幅広く取り上げます。

また、新しい作品の話題はもちろんですが、なるべく古い作品にも触れて行きたいと考えて行きたいと考えています。
本棚1

2、情報の海の羅針盤

インターネットによって、私たちの得られる情報量は一挙に広がり、小説を読みたい映画を観たいと思えば、多くの作品の中から好きなモノを選ぶことが可能になりました。

ところが、余りにも選択肢が膨大になり過ぎて、情報量の海の中で迷子になってしまうこともあります。

そこで、過去の作品の中からおススメを紹介することで、羅針盤の一つになれば、と考えているのです。
そして、小説や映画には、その作品単体の面白さだけでなく、時代の中での位置づけを知ることによって改めて見えて来るものがあります。

3、時代の風

その作品が発表された当時、どんなインパクトがあったのか?
エンタテインメントの歴史の中で、その作品にはどんな意味があるのか?

ある作品が誕生した時の「時代の風」は、リアルタイムに触れていないと、感覚的にはなかなか分からないものです。
本棚4

今見ると平凡な作品が、発表当時には大変な衝撃をもって迎えられた斬新な作品であったりします。(実は、そうした「新しい」作品ほど、古くなってしまいがちな宿命にあります)

昔の作品の何が面白いのか?
それは歴史的にどんな意味があったのか?
「時代の風」を知ると、エンタテインメントをより深く楽しむことが出来ます。

4、文化のバトン・リレー

私は、1970年代~80年代にかけて青春を過ごした世代ですが、私たちとっては常識であった事が若い人たちにはもう通じなくなっている場面にしばしば出会います。
私たちが若い頃も、40年代や50年代の「常識」なんてまるで分かりませんでしたが、都筑道夫や小林信彦のコラムを読むことで、当時の「時代の風」を教えてもらいました。

ところが、私たちの世代は、先人から受け継いだ言わば「文化のバトン」を次世代に渡す役目を、きちんと果たしていない感じがするのです。

そこで、すぐれた先達には及びもつきませんが、バトン・リレーの端っこに参加してみようかな?と思ったのです。

5、不思議エンタテインメント探訪へようこそ

こんな風に話すと、何だかもっともらしい感じですが、要するに「昔話をしながらエンタテインメントの話題を書いてみたいので、よろしく!」というワケです。

それでは、そろそろ本題に入りましょう。
宜しければ、ぜひお付き合いください。

「ウディすすむの不思議エンタテインメント探訪」へようこそいらしゃいませ。

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