1、ハリウッド・プロデューサーはもう居ない
「ハリウッドの映画プロデューサー」と言った時に、私たちにはステレオタイプなイメージがあります。派手なスーツを着た成金で、下品だけれど口が上手く、女優を口説いて監督に無理難題を吹っ掛ける。しかし、現在のハリウッドにはもう、そんなプロデューサーは居ません。居るのは、ハーバード・ビジネススクールを出てウォール街でキャリアを積んだビジネスマンばかりです。
彼らが関心を持つのは映画そのものではなく、それが生み出す利益であり、マーケティングと会議で映画を作ります。その結果、「すでにデータが存在する」過去のヒット作のリメイクやコミックの映画化ばかりが蔓延し、未だ海のモノとも山のモノともつかない、新しい挑戦的な企画は映画化されにくくなりました。
しかし、かつてのハリウッドには、私たちのイメージ通りのプロデューサーが確かに存在したのです。
Hollywood / Marcus Vegas
The New York Stock Exchange / epicharmus
2、ロバート・エヴァンズ
1930年生まれのロバート・エヴァンズは、そんなプロデューサーらしいプロデューサーの一人です。
元売れない二枚目俳優からプロデューサーになった人ですが、むしろ元ジゴロといった雰囲気で、数々の女優たちと浮名を流しました。政界や財界、さらに暗黒街ともコネクションを持ち、スターや監督たちの上に君臨し権力を行使する、まさに私たちのイメージするハリウッド・プロデューサーそのものなのです。
しかし、彼が「イメージの中のハリウッド・プロデューサー」と少し違うのは、人間的にはともかく、映画については確かな目と情熱を持った本物のプロデューサーだったことです。
彼は、ニューシネマ全盛だった1970年代のハリウッドに、オールドハリウッドを現代的にバージョンアップした新しいエンタテインメントの形を示し、倒産寸前だったパラマウント・ピクチャーズを見事に復活させたのです。
彼の手掛けた、「ローズマリーの赤ちゃん」(1968年)は70年代ホラー・ブームの、「チャイナタウン」(1974年)はネオ・ハードボイルドの、そして「ブラックサンデー」(1977年)は刑事対テロリストによるアクション物の、それぞれ先駆けとなるエポック・メイキングな作品でした。
3、「ある愛の詩」は公私混同
1970年の「ある愛の詩」(Love Story)は、当時ロバート・エヴァンズの3番目の妻だったデビューしたばかりの女優、アリ・マッグローを「スターにするためだけ」に作った映画でした。
アリ・マッグローを引き立たせるため、金持ちの青年と貧しい白血病の女性との悲恋の物語という、すでに時代遅れに思われていた「難病もの」を、現代的な装いで、あえて真正面から描いたのです。
アカデミー賞を受賞したフランシス・レイの流麗な音楽と「愛とは決して後悔しないこと」という名セリフが大流行して世界的ヒットになり、その後、世界中で延々とつくられる「難病もの」のルーツになったと言って良い作品です。
「ある愛の詩」はいわゆる「メディアミックス」のパイオニア的作品でもありました。原作小説と映画がほぼ同時期にリリースされ、大宣伝の展開と相乗効果によって小説・映画共に大成功を収めたのです。
「自分の彼女を売り出すため」という思いっきり公私混同で作った作品が、映画史におけるターニングポイントの一つになってしまうのが、ロバート・エヴァンズというプロデューサーの一筋縄でいかないところです。
ところで、アリ・マッグローは「ある愛の詩」で見事にスターの階段を駆け上り、当時最大のスターだった、スティーヴ・マックイーン主演「ゲッタウェイ」の相手役を射止めます。そして、アリ・マッグローは、共演したスティーヴ・マックイーンと激しい恋に落ち、エヴァンズを棄てて駆け落ちしてしまったのです。
ロバート・エヴァンズは恋多き男でしたが、自分がスターにしたせいで、結果的にアリ・マッグローを失ってしまったことを、ずっと悔いていました。
4、ゴッドファーザーはイタリアンに限る?
エポック・メイキングという意味でも、興行や評価における成功においても、ロバート・エヴァンズの手がけた最大の作品は「ゴッドファーザー」(1972年)でしょう。
1969年に発表され全米ベストセラーとなった、イタリアン・マフィアの世界を描いた小説「ゴッドファーザー」の映画化権を取得したロバート・エヴァンズは、監督にはイタリア系を起用しようと決めていました。
ユダヤ人のタイクーンたちによって創られたハリウッド映画界は圧倒的にユダヤ系が多く、それまでのマフィア映画は全てユダヤ系の監督によって作られていました。エヴァンズは、イタリア系でなければこの小説のリアリティを映像化することは出来ないと考えていたのです。
しかし、イタリア系の監督たちは現実のマフィアをモデルにした映画に関わることを嫌がり、ことごとく断られてしまいます。
結局、監督のオファーを引き受けてくれたイタリア系は、フランシス・フォード・コッポラという名の、メジャーでは3作しか撮っておらず、しかもまだ一本も成功したことが無い、30歳の若手監督だけだったのです。
「ブラックサンデー」は当時、「アラブを差別的に描いている」という脅迫を受けて日本公開が中止になったのだけれど、今観直すと「これで脅迫されたのか?」と驚くほど、むしろアラブ・テロリスト側に思い入れて、配慮して描いている。米国も日本も、40年前の方がずっと大人だったんじゃないかな。