良心の映画人、リチャード・アッテンボロー


1、リチャード・アッテンボローの死

2014年8月24日、「ガンジー」(1982)でアカデミー賞監督賞を受賞した、イギリスの映画監督兼俳優リチャード・アッテンボロー氏が亡くなりました。90歳でした。


Richard Attenborough / theglobalpanorama

今、リチャード・アッテンボローと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、俳優としてスティーブン・スピルバーグの「ジュラシック・パーク」(1993)に、実業家ハモンドの役で出演した姿ではないでしょうか?

当時、リチャード・アッテンボローは俳優としては、ほぼ引退した状態だったのですが、スティーブン・スピルバーグは、敢えてこの役をリチャード・アッテンボローに依頼しました。

スティーブン・スピルバーグは、しばしば、尊敬する映画人を、自分の映画に役者として登場させて来たのです。

2、尊敬する映画人

スピルバーグの初期の傑作「未知との遭遇」(1977)には、フランスのUFO学者ラコーム博士役として、映画監督のフランソワ・トリュフォーが出演していました。

学生時代のスピルバーグは、トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)に心酔し、トリュフォーを父親のように考え、私淑していました。
トリュフォーの演じるラコーム博士は、「未知との遭遇」という映画全体を包み込む、まるで父親のような存在として描かれています。

そして「ジュラシック・パーク」では、ジュラシック・パークの創始者である富豪ハモンドをリチャード・アッテンボローが演じています。
マイケル・クライトンの原作小説では、ハモンドは強欲な実業家であり、利益のために自然を改造しようとする悪人です。

しかし、スピルバーグの映画「ジュラシック・パーク」におけるハモンドは「童心を忘れず、理想を追求するあまり行き過ぎてしまった人物」として好意的に描かれ、「憎めない祖父」のようなキャラクターに変わっています。

スピルバーグは、映画人として、リチャード・アッテンボローを尊敬していたのです。


World War One 1st Aero Squadron / San Diego Air & Space Museum Archives

3、「反戦と平和」の映画作家

1923年生まれのリチャード・アッテンボローは、1942年から映画俳優となり、数多くの作品にバイプレーヤーとして出演しています。
特に「大脱走」(1963)における、脱走の計画を指揮する脱走王の役が有名です。

アッテンボローは、1960年代の終わりから映画監督にも乗り出し、多作ではありませんが、ひとつひとつじっくり作り上げるスタイルで、約30年間に12本の映画を残しました。

映画監督としてのリチャード・アッテンボローは、第1作の「素晴らしき戦争」(1969)から「反戦と平和」という思想が、一貫して揺るぎませんでした。

「素晴らしき戦争」は、第一次世界大戦が勃発したヨーロッパを舞台に、ミュージカルの手法で反戦を描いた問題作です。

興行的には成功しませんでしたが、第1作から完成された作風で、高い評価を得ました。

4、平和への祈り

イギリス人であるリチャード・アッテンボローは、1980年代に、帝国主義時代の英国の負の歴史を総括するように、人種問題をテーマにした映画を作ります。
「ガンジー」(1982)と「遠い夜明け」(1987)です。

1970年代の南アフリカ共和国を舞台にした「遠い夜明け」(1987)は、アパルトヘイト政策が未だ終わっていない時代に、リアルタイムで、南アフリカ共和国を告発した映画でした。

新人俳優だったデンゼル・ワシントン主演で、アパルトヘイト政権に殺害された、著名な黒人解放活動家スティーヴ・ビコを描いた作品です。

当時は黒人の反体制運動が一番激化している時期だったので、南アフリカ共和国で公開された時には、右翼的な白人勢力によって、映画館が爆破される事件が多発しました。

そして、やはり代表作は、「インド独立運動の父」である「偉大なる魂」マハトマ・ガンジーの人生を描いて、アカデミー賞で作品賞、監督賞など8部門を受賞した「ガンジー」(1982)でしょう。

南アフリカ共和国のアパルトヘイトに接して人種問題に目覚めた、ガンジーの青年時代から始まり、インド人解放のため大英帝国に立ち向かい、そして暗殺されるまでの静かなる戦いの生涯を「アラビアのロレンス」のような壮大なスケールで描いた、伝記映画です。

主演のイギリス人俳優ベン・キングズレーは、インド人の血を引く当時無名の青年でしたが、入神の演技でガンジーに成り切り、アカデミー主演男優賞を受賞しました。

5、遠すぎた橋

私にとってのリチャード・アッテンボローと言えば、まず1977年の「遠すぎた橋」を思い出します。

「遠すぎた橋」は、第二次世界大戦後期に行われ連合軍最大の激戦となったマーケット・ガーデン作戦を描いた、米英合作の戦争映画です。


TBF (Avengers) flying in formation over Norfolk / Marion Doss

イギリスとアメリカのオールスターキャストを集めて、まだCGなんて影も形も無い時代に、当時の金額で90億円!(今の価値に直すと250億円くらいでしょうか?)の巨費を投じて、大物量作戦で第二次世界大戦を再現しています。
戦争超大作として大宣伝が繰り広げられ、男の子たちは期待に胸を膨らませて、映画の公開を待ったものです。

ところが蓋を開けてみると、完全な「反戦・厭戦」映画で、「楽しいアクション大作」を期待して観に行った子供たちは、皆ビックリしてしまいました。

「記録映画か?」と思う程の人海戦術で描かれる戦闘場面は、どちらが勝っていてどちらが負けているのか良く分からない、混沌とした状況でした。
そして、官僚的な上層部の無責任な命令の下に、ヨーロッパの街が破壊され、兵たちは虚しく死んで行きます。

男の子が戦争映画に期待する爽快なゲーム性とは、真逆の映画だったのです。

6、戦争の実相

太平洋戦争で実際に従軍し中国へも出征した1925年生まれの作家、田中小実昌は、「遠すぎた橋」に描かれた「戦争の様相」を非常にリアルだと高く評価していました。

リチャード・アッテンボローは1923年生まれ。やはり青春時代に戦争が「目の前の現実」だった世代です。

「戦闘や戦争は、将棋の勝負ではない。戦争、戦闘と言えば、かならず勝ち負けがあるように思っているのは、戦争物語にダマされているのだ。実際には、そんなふうではない、とこの映画『遠すぎた橋』は、はっきり言っている。」(田中小実昌)


Bastogne Historic Walk 2011 / archangel 12
 
Jewish civilians / Marion Doss

7、正直な映画

リチャード・アッテンボローは、映画史に残るような才能の煌めきを見せたり、独創的なスタイルを発明したりはしませんでしたが、常に誠実に映画に向き合っていました。

太平洋戦争における日本軍の捕虜収容所を描いた、大島渚の「戦場のメリークリスマス」(1983)が公開された当時、原作を書いたイギリス人作家、サー・ロレンス・ヴァン・デル・ポストが来日しました。

ヴァン・デル・ポストは、いわゆる「ハリウッド的な商業映画」には人間の真実が描けていない、と非常に否定的でしたが、映画評論家小野耕世との対談で、こんな会話を交わしています。

(小野)
「リチャード・アッテンボローの『ガンジー』はご覧になりましたか?」

(ヴァン・デル・ポスト)
「未だ観ていない。アッテンボローは良く知っているよ。彼はマジメで良い男だ」
「しかし、ガンジーは世界に大きな謎を投げかけた人物だ。その問い掛けに、答えられるものだろうか?」
「ガンジーの上っ面を撫でただけの映画に、なっていやしないかね?」

(小野)
「『戦場のメリークリスマス』のような深みには欠けるかも知れませんね」
「しかし、誠実につくられた、正直な映画(honest movie)です」

(ヴァン・デル・ポスト)
「正直な映画(honest movie)。それなら分かる…とても良く分かるよ」

リチャード・アッテンボローは、常に誠実な態度で「正直な映画」を作り続けた作家でした。

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