1、たかが映画じゃないか
サスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『山羊座のもとに』(1949年)の撮影中、主演のイングリッド・バーグマンは終始イライラしていました。大がかりなセット撮影の段取りばかりが重視され、「役者」としての自分は放っておかれている、と感じていたのです。
Ingrid Bergman / Film Star Vintage
ヒッチコックの撮影は詳細なコンテを元に、カットを細かくバラバラにして、同じセットのショットをまとめ撮りする方法でしたから、自分が今何を演じているのかも良くわかりません。しかも、ヒッチコックは「シーンの意味」など説明せず、「こっちを向け」とか「ここからあそこへ歩け」と「動き」の指示をするばかりでした。
イングリッド・バーグマンは、ついに爆発しました「これはいったい何なの?私は何をやっているのよ?」
すると、ヒッチコックはバーグマンの肩に手を置いて静かに囁きました「イングリッド、そんなにカッカするなよ。たかが映画じゃないか」
2、映画における演技
これは、ヒッチコックとイングリッド・バーグマンの非常に有名なエピソードですが、その意味するところは意外に知られていません。二人の対立は、映画監督と俳優の「映画における演技」についての対立だったのです。
Alfred Hitchcock Presents / twm1340
映画がまだサイレントだった1925年に映画監督としてのキャリアを始めたヒッチコックは、伝統的な「モンタージュ理論」の信奉者でした。
ですから、「演劇的な演技」と「映画の演技」とは違うものだと考えていて、映画の中で演劇的な「お芝居」をされることを嫌がりました。
ヒッチコックは、自分の映画にケーリー・グラントやグレース・ケリーのような、いわゆる美男美女の純粋な「映画スター」を起用することを好みました。これは、プロデューサーでもあったヒッチコックの興行的判断がメインでしたが、演技のスタイルにもその理由があったのです。
3、ただ立っていろ
ヒッチコックは、1966年の「引き裂かれたカーテン」の主演にポール・ニューマンを起用した際に、メソッド・アクターへの不満を漏らしていました。
Paul Newman / classic film scans
メソッド演技をする役者は、アップを撮ろうとする時も「このシーンはどういう状況でしょうか?」「どんな感情を込めれば良いでしょうか?」といったことに拘って、「ただ立っていろ」と言ってもそれが出来ない、というのです。
演技をする際には当然の拘りのように思えるのですが、ヒッチコックがアップを撮る時は「何も考えていない」ただ無表情なアップを望んでいました。
それは、ヒッチコックが「映画はモンタージュに演技をさせるもの」だと考えていたからです。
モンタージュとは映画の編集のことです。サスペンスの巨匠であるヒッチコックは、映画の作り出すエモーションの全てを編集によって作り出し、自分でコントロールしたいと考えていたのです。
4、モンタージュに演技させる
例えば、交通事故で死んでしまった子犬の映像の次に無表情な男のアップを繋げると、それは悲しげな顔に見えます。ところが、エロティックな女性のヌードの映像に同じ無表情なアップを繋げると、今度は同じ顔が、何だかイヤラシイ顔に見えるのです。
Kate / zanerudovica
Room66 Girl / room66
ヒッチコックによれば、これがモンタージュによる「映画の演技」であり、この時、もし俳優が「悲しげな表情」や「イヤラシイ表情」を演技してしまったら、それは「過剰」な表現になり映画の中での芝居がクサくなってしまう、というワケです。
ヒッチコックは、必要以上の演技は自分が編集によって作り出そうとしている映画の繊細な感情のバランスを乱す、と考えていたのでしょう。
これは、役者に「自我を持つな、監督のための道具になれ」と要求しているようなものです。キャリアの最初からハリウッド映画の世界で生きて来た「映画スター」は、そうした映画の仕組みに慣れていましたが、演劇出身の役者や「表現する演技」への指向が強い役者にとっては、窮屈で充実感のない役割でしょう。
5、俳優は家畜?
アルフレッド・ヒッチコックが言ったとされる有名な言葉に、「俳優は家畜だ」というものがあります。これは、俳優の自我に基づく演技を「無用なもの」と考える、ヒッチコックの演出に対する考えを象徴していると言えます。
イングリッド・バーグマンは「単なるスターではなく、表現者でありたい」という想いを強く持っている女優でした。彼女は「山羊座のもとに」に出演した後、イタリア映画界のネオレアリズモの巨匠、ロベルト・ロッセリーニに心酔し「ハリウッド映画とは違うリアルな芸術」を求めて、ハリウッド・スターの地位を棄てロッセリーニの元へ飛び込んで行きました。これは「世紀のスキャンダル」として、世界を騒がせるビッグニュースになります。
ヒッチコックの「たかが映画じゃないか」という囁きが、イングリッド・バーグマンに、ハリウッドとの決別を決心させたのかもしれません。
ところで、ヒッチコック自身は「俳優は家畜だ」という言葉を本当に言ったのかと聞かれ、こう答えていました。
「俳優は家畜だと言ったことはないよ。私が言ったのは『家畜のように扱われるべきだ』ということだね」
日本映画における役者の演技が欧米に比べて大げさでクサいのは、映画が「モンタージュに演技させる」ことを軽視して、撮影現場のムードばかりを重視するせいではないかという気がします。そして、これは日本映画界において編集マンの地位が低い事実と、表裏一体なのではないでしょうか?