映画監督は編集を守ろうとする


1、ヒッチコックの受けた衝撃

イギリスでサスペンス映画の監督として「バルカン超特急」などの傑作を生みだし、第一線の地位を獲得したアルフレッド・ヒッチコックは、40歳にしてハリウッドに招聘されました。

しかし、意気揚々とアメリカに渡ったヒッチコックは大きなショックを受けます。ひとつは、アメリカではイギリスと違ってサスペンス映画の地位が低く、サスペンス・スリラーというだけで有名なスターは出演してくれないこと、そしてもう一つは、黄金期のハリウッドでは映画はプロデューサーのもので、監督には映画の最終編集権が無いのが普通だったことです。

「モンタージュ理論」の信奉者で「編集こそ映画の本質」だと考えていたヒッチコックにとって、編集権のない映画作りなど考えられなかったのです。


‘Vogue’ / Un divertimiento de @saulomol. Avatar: M. Eichele

2、ヒッチコックの戦略

ハリウッドで映画作りを始めたアルフレッド・ヒッチコックは、撮影の前にシナリオ全編を絵コンテにしていました。ヒッチコックに言わせれば「この絵コンテに従えば誰が撮っても同じだ」というほど詳細な絵コンテだったそうです。

そして、実際の撮影はストーリーの順番通りには撮らず、絵コンテをバラバラにして、ワンカットずつアトランダムに撮影して行きました。ヒッチコックは絵コンテを公開していませんでしたから、撮影済のフィルムをシナリオ通りに再構成できるのは、基本的にヒッチコックだけでした。

これは、ハリウッドに渡った当初、編集権を持っていなかったヒッチコックが、監督としての「自分の編集」をプロデューサーから守るために考え出した戦略だったのです。
結局、ヒッチコックの映画については、プロデューサーも最終編集をヒッチコックに任せるしかなかったのです。

やがて、ヒッチコックは監督であると同時にプロデューサーとなり、映画のすべてを自らコントロールして行くことになります。


Hitchcock considers Hollywood. / Ben Ledbetter, Architect

3、編集はメインスタッフ

欧米の映画界では、映画の「編集マン」の地位は日本よりずっと高いもので、映画のメインスタッフの一人と考えられています。特に、映画監督に必ずしも編集権が無く、「編集」という作業が監督から独立しているハリウッド映画のクレジットタイトルを見ると、「編集」が脚本家や撮影監督、美術監督と同等の地位を与えられていることが分かります。

脚本家や撮影監督が映画監督へと進出して行くことは日本でもよくありますが、ハリウッドでは編集マン出身の映画監督も多いのです。

大島渚はフランスで「マックス・モン・アムール」を撮った時を回想して、こう言っていました。
「向こうの編集者の権限っていうのはやっぱりすごい。日本の場合とはずいぶん違いますね。撮影が終わった後は、全部、編集者の管轄に入る」


Paris / Moyan_Brenn

Paris / Moyan_Brenn

4、カメラの中で編集する

大島渚は、編集者が強い権限を持つフランスにおける撮影で、自分のフィルムをどのように守ったのでしょう?
評論家の蓮實重彦が「マックス・モン・アムール」における編集のタイミングを称賛し、編集者との関係を尋ねると、大島渚はこう答えました。

「あれはほとんど切ってないと思います。つまり僕があそこまでしか撮ってないんです」「僕はほんとに余分な部分を撮らないですから」

大島渚は、撮影時に編集後の映画の形までイメージして、必要な部分しか撮らなかったのです。いわゆる「カメラの中で編集する」やり方です。この方法だと、映像素材そのものが必要最小限しかないので、編集者による改変の余地はほとんど無くなってしまいます。

もっとも、通常プロデューサーは上映時間の関係から映画を短くしたがり、監督はせっかく撮影した映画のシーンをカットするのを嫌がるものなのですが、大島渚は逆でした。「マックス・モン・アムール」では、大島渚がカットしてしまったシーンのいくつかを、プロデューサーの希望で復活させています。

映画を編集するということは、ショットを「つなげる」と同時に「切る」ことでもあります。そして、大島渚は「映画では、見せないことが表現になる」ということに、非常に自覚的な映画作家でした。

「僕は映画をカットするのが好きですね。他人の映画を観ても、切りたくてしょうがなくなる」


Stanley Kubrick painted portrait DDC_2439.JPG / Abode of Chaos
 
Buddhist view; death as transformation with the opportunity for enlightenment, Buddhist philosophy in the West, Dr. Dave Bowman (Keir Dullea), 2001 A Space Odyssey, written by Arthur C. Clarke, directed by Stanley Kubrick / Wonderlane

5、映画の完成形とは?

スタンリー・キューブリックは、映画の編集に最低1年間を費やしました。編集こそ映画という芸術を他と区別している独自のものだ、として映画監督を志すものはまず編集について学ぶべきだ、と考えていたのです。

「編集は他のどんな芸術の形式にも似ていない、映画製作の唯一のユニークな局面だ」

スタンリー・キューブリックは亡くなる数年前から、自分の映画の未使用シーンを廃棄することに熱中し始めました。彼のスタッフの仕事のほとんどが、フィルムのジャンクに費やされたそうです。完全主義者のキューブリックにとっては、自分が編集した姿こそが映画の完成形であり、他人にそれ以外のバージョンが発表されたりするなど許せないことでした。

キューブリックは死後に、自分の使用しなかったシーンが「未公開シーン」等としてDVDの特典に付けられたりするのを恐れていたのです。まるで、自分の死期を悟っていたようにも感じられます。

近年、映画がDVD等でリリースされる時に、ディレクターズカットや完全版など、劇場公開時にカットされたシーンを戻したり、編集をし直したりするケースが一般的になりました。
劇場公開には興行的制約も多く働きますので、これは映画にとって一見よいことに思えるのですが、本当にそうでしょうか?

次回は、それについて考えてみたいと思います。

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