「風立ちぬ」と菜穂子


1、ヒロインの名は菜穂子

宮崎駿のアニメーション「風立ちぬ」は、彼のキャリアのラストを飾るのにふさわしい見応えのある作品でしたが、映画を見ながら気になっていた事がありました。
それは、映画のヒロインの名前が菜穂子である事です。
アニメーション「風立ちぬ」の元になった堀辰雄の小説「風立ちぬ」のヒロインの名前は節子のはずです。
なぜ、ヒロインの名前は菜穂子なのでしょう?


White birch trees. / MIKI Yoshihito (´・ω・)

白樺と冬 / Naoharu

2、宮崎駿の「風立ちぬ」

2013年9月6日、アニメーション作家の宮崎駿が「今回は本気です」と長編アニメーションからの引退を表明し、宮崎駿最後の長編は「風立ちぬ」になりました。

「風立ちぬ」は宮崎駿のキャリアのなかでも異色の作品です。
零式戦闘機の設計者である堀越二郎の「零戦開発奮闘記」と結核に侵された婚約者との悲恋を描いた堀辰雄の小説「風立ちぬ」を(勝手に)ミックスして、実在の人物が主人公の伝記風物語なのに全くのフィクション、という不思議な作品になっています。

ところで最初にお話ししたように映画「風立ちぬ」のヒロインの名前は菜穂子ですが堀辰雄の小説「風立ちぬ」のヒロインの名前は節子です。
そして、堀越二郎の実際の奥さんの名前も菜穂子ではありません。

じつは、菜穂子とは堀辰雄のもうひとつの小説「菜穂子」のヒロインの名前なのです。

3、「意思を持った女性」としての菜穂子

「菜穂子」は、晩年の堀辰雄が「結核という不治の病になった女性が恋を通して生きる意味を確認する」という「風立ちぬ」のテーマに、よりリアルな視点でもう一度挑んだ作品で、堀辰雄の最高傑作とも言われています。

堀辰雄の小説「風立ちぬ」の節子は愛されながら死んで行く受け身の女性ですが、「菜穂子」のヒロインはもっと意思の強さを持った女性で、映画後半の「療養所から菜穂子が抜け出してくる」エピソードは、小説「菜穂子」から採られています。

菜穂子は明らかに節子より複雑で魅力的な人間として描かれていて、厳しい批評家でもあった三島由紀夫はその人物造形について、「菜穂子だけは古びない」「堀辰雄が真に創造した人物」と激賞していました。

宮崎駿の「風立ちぬ」のヒロイン菜穂子は、小説の節子に比べて、ずっと積極的で行動的な女性です。宮崎駿は強い女性が好きですから、ヒロインだけを敢えて菜穂子にしたのかも知れません。

しかし、堀辰雄にとっての小説「風立ちぬ」と「菜穂子」の関係を考えてみると、宮崎駿が自分の「風立ちぬ」のヒロインを菜穂子としたのには、もう一つ別の理由が見えて来ます。

Sunset WomanSunset Woman / mrhayata

4、「菜穂子」は「風立ちぬ」の語り直し?

小説「風立ちぬ」と「菜穂子」は、まるで写真のポジとネガのような関係になっています。
「風立ちぬ」は「元祖難病もの」というべき作品で、結核を通して主人公とヒロインの純化された恋愛が描かれます。しかし、「菜穂子」のヒロインは結核になった時点ですでに結婚していて、しかも夫婦仲は冷え切っています。
菜穂子は小説の後半で療養所を抜け出して夫に会いに戻りますが、そこで夫婦仲が劇的に復活する訳でもありません。小説はヒロインの背負う苦悩に何の解決も示さず、しかし、前を向いて人生を受け止めようとする菜穂子の姿を描いて終わります。
小説「風立ちぬ」は美しい作品ですが、今の目で見るといささか単純化され美化され過ぎているようにも見えます。
ところが、より現実的な「菜穂子」を読んでからもう一度「風立ちぬ」に戻ると、純愛小説「風立ちぬ」の背後に「菜穂子」の現実的世界が二重写しになって、深みを増したような広がりを感じるのです。

5、宮崎駿が語り直したかったもの

ここで、宮崎駿の「風立ちぬ」に戻ると、この作品は主人公が軍国主義の波に抵抗しながら、飛行機への情熱と結核の女性との愛に生きる姿を描いています。
「空を飛ぶことへの情熱」と「愛し合いながらも結ばれ得ない愛」、宮崎駿は同じテーマの作品をもう一つ作っています。
それは「紅の豚」です。
そう、宮崎駿の「風立ちぬ」は「紅の豚」の語り直しなのです。

ブックストア ウディ本舗

SF、ミステリ、映画の本などを中心としたネット古書店です。ノンフィクションにも力を入れています。

http://store.south-sign.com/

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>