1、風の向こうに豚が見えた
宮崎駿の「風立ちぬ」を観ている間、私はずっと「あぁ、これはリアルに語り直された『紅の豚』なんだな」と感じていました。
豚が主人公のファンタジーと言っても良い「紅の豚」と日本の大正から昭和にかけての現実の日本を舞台にした「風立ちぬ」は、まるで違うトーンの作品に見えますが、両者には大きな共通点があります。
それは、宮崎駿の作品には珍しく「大人の男」が主人公であること。そして、その主人公には、明らかに宮崎駿自身が色濃く投影されていることです。
2、「紅の豚」と「風立ちぬ」は同じ話?
「紅の豚」は第一次世界大戦後のファシズムが台頭するイタリアで、軍部に飲み込まれることを嫌ったパイロット(でも豚)の「ポルコ・ロッソ」が、あくまでも賞金稼ぎとして飛び続けます。そして背景には、主人公を見守るヒロイン「ジーナ」との実るようで実らない恋が描かれています。
「紅の豚」は宮崎駿が、大人を主人公にして趣味の飛行機を題材にした初めての作品でもあります。
一方「風立ちぬ」は、関東大震災を経て日本が急速に軍国主義化し、遂に太平洋戦争に突入するまでの時代を舞台に、時代に翻弄されながらも理想の飛行機開発の夢を追い、同時に結核の女性との恋を生きた主人公を描いています。
宮崎駿は、零戦開発一筋に生きた堀越二郎に、明らかにアニメーショ一筋に生きた自分の姿を重ね合わせていて、堀越二郎の形を借りて宮崎駿が自分を描いた作品ともいえます。
比べてみると「紅の豚」と映画「風立ちぬ」は構造がそっくりであることが分かるはずです。というより「紅の豚」から、「アドリア海」とか「豚」とか「アクション」とか「カタルシス」とかを引きはがして、日本を舞台に語り直したのが映画「風立ちぬ」なのです。
3、「飛行機の墓場」が語るもの
「紅の豚」の世界と映画「風立ちぬ」の世界に深い結び付きがあるのは、「飛行機の墓場」の描写からも分かります。
「紅の豚」でポルコが臨死体験の思い出を語るシーンでは、空中戦で一人生き残ったポルコが、戦友たちが飛行機に乗ったまま昇天し、朽ちた飛行機の群れが天の川のようになった「飛行機の墓場」に飲み込まれて行くのを目撃します。
そして映画「風立ちぬ」のラスト、おそらくこの世とあの世の境目にいるのであろう主人公は、やはり天の川のような「飛行機の墓場」を目撃するのです。
この「飛行機の墓場」は、時代に飲み込まれ理想を実現することなく挫折していった若者たちへの、宮崎駿の鎮魂歌に思えます。
4、「紅の豚」は「風立ちぬ」
「紅の豚」は宮崎駿が自分を描いた非常に政治的な作品ですが、表面的にはリゾート地でばか騒ぎをしているエンターテインメントに見えるため、余り語られて来なかった作品でもあります。
一方の「風立ちぬ」は、説明を排した淡々とした語り口で「観客のために説明する」という配慮があまり感じられません。
常々「アニメーションは子供のためにつくる」と言っていた宮崎駿ですが、ここでは子供どころか大人の観客すら意識せず「自分のためにつくる」というスタンスを貫いています。
そのため「感動のドラマ」を期待した観客の多くが、戸惑った反応を示したようですが、宮崎駿の最高傑作という声も聞かれます。
宮崎駿にしてみれば、「紅の豚」への観客の反応を見て「自分の真意が伝わっていない」というもどかしさを、ずっと感じていたでしょう。
そこで、彼はキャリアの最後に、オブラートを除いた形で「紅の豚」をもう一度語り直したい、と思ったのではないでしょうか。
つまり、エンターテインメント「紅の豚」は宮崎駿にとって、堀辰雄の小説『風立ちぬ』であり、リアルな『菜穂子』にあたるのが宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」なのです。
そんな視点から、映画「風立ちぬ」と「紅の豚」をもう一度見直してみると、今まで見ていた筈の映画とは違う、また別の姿が浮かび上がってくるかもしれません。