補論:ユージュアル・サスペクツは何故アンフェアなのか?


※ ネタバレ注意!
今回のコラムには、論旨を進める関係上、アガサ・クリスティの小説「アクロイド殺し」と映画「ユージュアル・サスペクツ」についての、ネタバレが含まれています。
未読、未見の方は、ご注意ください。

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1、ミステリの革命「アクロイド殺し」

アガサ・クリスティが1926年に発表した「アクロイド殺し」は、当時ミステリ史上最大のどんでん返しとして大評判になると共に、フェアかアンフェアかで一大論争を巻き起こしました。
それまでの本格ミステリは、すべての証拠を正直に読者に開示して、作者と読者が知恵比べをするものでした。
そして、その上で読者の予想を上回る意外な真相を作り出すのが、優れた作品だと考えられていました。

ところが、「アクロイド殺し」は作者自身、つまり小説の語り手が読者を引っ掛けようとしていました。
「信用できない語り手」という叙述トリックで、今では濫用されていますが、当時の読者は初めての経験で、まさか語り手が自分を騙すとは思っていなかったので「分かる訳ないだろう!ずるい!」となったのです。

これは、それまでのミステリの掟破りでしたから、フェアかアンフェアかで論争がおこったのです。


St. Augustine’s Abbey @ Canterbury / Hyougushi

St. Mary’s Church @ Brownsea Island / Hyougushi

2、小説における叙述トリックのルール

「アクロイド殺し」の論争は、最終的には叙述トリックにおける一つのルールにたどり着きました。それは、「一人称の語り手は、読者に嘘をついても良いが、三人称で嘘をついてはならない」というものです。

一人称の語り手は、あくまでも小説世界の中の登場人物です。
人間は嘘をつく生き物ですから、読者は「この人は嘘をついているかもしれない?」と予想することが可能なはずです。従って、読者と作者の知的ゲームが成立する余地があるわけです。

ところが、三人称は客観的な描写、言わば神の視点です。
ですから、三人称で嘘をつかれてしまうと、もう読者と作者の知的ゲームは成立しません。小説という枠組み自体が破壊され、読者は何を信じてよいか分からなくなってしまいます。

「アクロイド殺し」は、叙述トリックのルールは守られているため、現在ではアンフェアな作品とはされていません。

3、映画における叙述トリックのルール

映画においても「信用できない語り手」という叙述トリックはあるのですが、その扱いは小説よりもさらに難しくなります。

なぜなら、映画は基本的に三人称しかありません。
ナレーションなどを使って一人称のように語られる作品はありますが、描写自体は客観描写しかありません。映画はその場で起こっていることを「外側から写す」ものだからです。

従って、映画の場合は「登場人物の語る嘘を、事実であるかのように映像化してはならない」と考えられてきました。これをやられてしまうと、観客には映画の嘘を見抜くことが不可能になってしまいます。

仮に、登場人物の嘘を映像化する場合には、「ここは登場人物の主観の映像化である」とハッキリ分かるようにするのが、最低限のエチケットでした。

実は、アルフレッド・ヒッチコックも1950年の「舞台恐怖症」という作品で、語り手の嘘の映像化を部分的にやったことがあり、後年に「あれは、してはならない間違いだった」と回想しています。


Chicago during the Polar Vortex / akasped

Chicago street photography – The One That Got Away / kevin dooley

4、ユージュアル・サスペクツの掟破り

ユージュアル・サスペクツという作品の最大の問題点は、この作品が「最初からラストの直前までほぼ全編、語り手の嘘の映像化のみで構成されている」という点にあります。

これが、私がこの作品を「ミステリにおける夢落ち」と呼ぶ理由です。一部どころか全部が嘘ですから。
そして、最後に「全部、嘘でしたー!」と言って終わる訳です。

確かに意外です。しかし、ここにミステリにおける「騙される快感」は稀薄です。
なぜなら、「騙される快感」は読者や観客の「自分が注意深けれ、気が付くハズだったのに!」という思いから、導かれるものだからです。
けれど、全部が嘘では「分るワケないじゃん」としか思えないでしょう。

5、掟破りの無政府状態

さらに問題なのは、「ユージュアル・サスペクツ」はミステリ映画史上最大の掟破りなのにも拘わらず、フェアかアンフェアかという論争がほとんど起きることなく、アカデミー賞の脚本賞まで受賞してしまったことです。
その結果、ミステリ映画における掟破りの無政府状態を呼んでしまったと言えます。

今、「登場人物の嘘を映像化するのはルール違反だ」と言っても「え?そうなの?」と不思議に感じる人が多いでしょう。
「ユージュアル・サスペクツ」以降、そのタブーは明らかに破られたからです。

タブーを破る瞬間には、確かに快感があるのですが、その後は、いずれタブー破りもマンネリ化しグズグズになって行くだけです。

私は、実は「ユージュアル・サスペクツ」がつまらない作品だとは、思っていません。
けれど、その功罪については、きちんと検証しておく必要があると思うのです。

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