1、豚の次はタヌキだ!
高畑勲の「平成狸合戦ぽんぽこ」は宮崎駿が「豚の次はタヌキだ!」と言ったひとことで始まった企画だそうです。
宮崎駿は、引退会見で次のような話をしていました。
自分たちがジブリを始めた頃、日本はバブル経済まっさかりで浮かれていた。自分たちはそれに反発していて「物は豊かもしれないけれど、心はどうなのか?」というスタンスで作品を作ってきた。
ところが、ソ連が崩壊し、ユーゴスラビアでもう起きないと思っていた内戦が起き、そしてバブルが崩壊して、それまでの延長線上ではもう作品が作れない状況に追い込まれた。
その時、僕と高畑さんは、豚やタヌキを主人公にした作品を作って、時代をかわして切り抜けたのだ。
正確ではありませんが、こんな感じの話でした。
つまり、宮崎駿の「紅の豚」と共に、高畑勲の「平成狸合戦ぽんぽこ」もまた、ソ連崩壊による東西冷静の終結という時代が生み出した作品だったのです。
ホンドタヌキ (Japanese Raccoon Dog) / Dakiny
狸/raccoon / hiyang.on.flickr
2、平成狸合戦ぽんぽこ
「平成狸合戦ぽんぽこ」は。多摩ニュータウン開発で生息圏を失い始めたタヌキたちが、人間たちに戦いを挑み、そして敗れてゆくドラマです。
タヌキたちがのんびりと暮らしていた東京の多摩丘陵は、まだ自然に溢れていました。
ところが、多摩ニュータウン開発のための宅地造成によって、タヌキたちのエサ場は次々に破壊されて行きます。
ついに、タヌキたちはすみかである森を守るため、人間に戦いを挑みます。
戦いを挑むといっても暴力を振るう訳ではなく、タヌキのお家芸である幻術で人間を化かして驚かして追い出そうとするのです。
映画はタヌキ達の幻術大作戦をユーモラスに描いていきます。
タヌキはみんなで一生懸命人間を化かすのですが、人間はちょっと不思議がるだけで、タヌキたちの奮闘がまるで役に立たないのが哀れを誘います。
3、タヌキたちの二つの顔
この作品にも二つの顔があります。
一つは、タヌキたちが自然を守るために、人間たちと、いささか一人相撲的な戦いを繰り広げるドラマです。
そして、このタヌキたちの戦いにはもう一つの意味が込められています。
それは、戦後日本の市民運動です。
ユーモラスで哀れなタヌキたちの姿には、体制に挑み敗れていった、市民運動家の姿が重ね合わせられているのです。
ドタバタと反目しあいながらも、やがて団結し戦いに挑むときの昂揚感。しかし、巨大な力の前に敗れる過程で、亀裂と対立が生まれ分裂して行くむなしさ。
直接的には、この映画のタヌキたちは、高畑勲が委員長で宮崎駿が書記長だった東映動画労働組合がモデルになっているそうです。
しかし、この作品のタヌキたちの戦いは、戦後の日本のあらゆる社会運動の歴史そのものなのです。
映画批評家の森卓也は、高畑勲にインタヴューした際に、終始きまじめで固い表情だった高畑監督の顔が唯一なごんだのは、森卓也が「タヌキたちが三里塚の人達に見えて来ますね」と言った時だった、と回想しています。
(え?三里塚って何って?・・・ググって!)
Leftist rebel. / MIKI Yoshihito (´・ω・)
Anti-AKW-Demo in Koenji 036 / ペーター
4、戦後民主主義の希望と挫折
この作品の試写を見た宮崎駿は「スッキリしたカタルシスなんか無いけれども、現代を見事に反映している。エンタテインメントの枠を越えている」と評価し、平成狸合戦ぽんぽこは「戦後民主主義の希望と挫折を描いた作品」だと総括しました。
また、「日本社会党の盛衰を描いたようにしか見えない」と感想をもらした人もいます。
そんな視点で見ると、ユーモラスでお人よしだけれど、間が抜けていて、まるで弱いタヌキたちの戦いが、とても苦く悲しいものに感じられるのです。
私が胸を締め付けられたのは、ラスト近くに、タヌキたちが最後の幻術を振り絞って「幻の懐かしい田舎」を再現させるくだりです。
そのあまりに見事な幻術に、人間だけでなくタヌキたち自身も引き込まれてしまいます。
そして、タヌキたち自身が懐かしさの衝動にかられて、幻の田舎に戻って行こうとすることによって、幻は消え去ってしまうのです。
なんと苦く、そしてなんと見事な暗喩なのでしょう。
5、本当の「大人向け」作品
「紅の豚」と「平成狸合戦ぽんぽこ」は、東西冷戦体制の終焉という時代の転換点に、宮崎駿と高畑勲という戦後のリベラリズムの中でアイデンティティを確立してきた二人の映画作家が、豚とタヌキの形を借りて自分たちの立ち位置をもう一度見つめ直そうとした作品だと言えます。
スタジオ・ジブリ作品の多くは、子供や若者の成長を描いていますが、この2作品は「大人の挫折」を描いています。
真に大人向けの映画なのです。