1、フランス大会と三浦知良
「オレ?オレなのか?」その瞬間、三浦知良選手は自分を指さしながら叫んでいました。
1997年11月16日、フランス・ワールドカップ最終予選、日本対イラン戦でのことです。日本が初めてのワールドカップ出場を果たすためには負けられないこの試合、イランに2対1と逆転されたまま後半18分を迎え、後がない状態でした。
その時、それまで日本の絶対的エースだった三浦知良は、試合途中で交代を命じられ、代わって入った城彰二が、後半31分に中田英寿のクロスボールをヘディングでゴールに突き刺し、2対2の同点に追いつきます。
そして、ロスタイム、中田英寿のシュートのこぼれ球を岡野雅行が押し込み、ついに日本は初のワールドカップ出場を決めたのです。
この歴史的試合の勝利に、日本人はテレビの前で歓喜しました。
そして同時に、意外な表情を浮かべながらピッチを去る三浦知良の姿に、日本代表における世代交代の瞬間を目撃したように感じたのです。
この試合で、日本代表の中心が若き司令塔、中田英寿に移ったのは明らかでした。
結局、日本人で初めてブラジルでプロサッカーの選手となり、Jリーグの発足当初から日本のサッカーのシンボルでもあった三浦知良は、フランスワールドカップの代表選手には、選出されませんでした。
FIFA WORLD CUP 2002 @Saitama / Noriko Puffy
International friendly match / tpower1978
2、栄光と影
1990年に23歳でブラジルから凱旋した三浦知良が、記者会見で「日本をワールドカップに連れていくために戻って来ました」と言ったのを覚えています。
日本のサッカーがワールドカップに出場するなんて、まだ「夢物語」としか思えなかった時代のことです。
4年に1度のサッカーの祭典であるワールドカップは、その規模ではオリンピックを超える世界最大のスポーツ・イベントです。
世界中にプロサッカーリーグが出来てサッカーがビッグビジネスになった現在でも、ナショナルチームに選出されることはサッカー選手の誇りであり、ワールドカップで自らの最高のパフォーマンスを見せる事こそが、全サッカー選手の夢なのです。
そんな、サッカー選手にとって特別なイベントであるワールドカップは、世界を代表する名選手たちの世代交代の場面でもあります。
そこには、太陽に手を広げるような栄光と、うつむくような影があります。
3、ドイツ大会と中田英寿
2006年ドイツ・ワールドカップにおけるジーコ監督率いる日本代表は、中盤のミッドフィルダーに中村俊輔、中田英寿、小野伸二、稲本潤一などの、20代の優れた人材を擁し、当時「日本史上最強」と謳われながら、結果は2敗1分けの惨敗に終わりました。
その敗因として間違いなく大きかったのは、ジーコ監督に攻撃力の要として信頼されていた中村俊輔が、大会直前に40度の高熱を発症したこと。
そして、年齢的にも立場的にもチームのリーダーとしてまとめ役になるべき中田英寿が、むしろ孤立し、チームが精神的にバラバラの状態だったことにある、といわれています。
中田英寿がチーム内で孤立してしまったのは、突出した海外での実績から特別扱いに近い待遇を受けながら、怪我で万全のパフォーマンスを発揮できない状態にあったことに加え、中田英寿の人を寄せ付けない性格とサッカーの為には妥協をしない直截的なもの言いが相まって、チームメイトの反発を受けてしまったことでした。
グループ・リーグ最後のブラジル戦に敗れた後、ピッチに倒れこんで動かなくなった中田英寿に声をかけたのは、わずかにキャプテンの宮本恒靖と外国人のコーチだけだったと言います。
この試合を最後に、日本人選手のヨーロッパ進出としてのパイオニアとなった中田英寿は、現役を引退することになります。
shunsuke_1280_1024 / adifansnet
World Cup Qualifiers / tpower1978
4、南アフリカ大会と中村俊輔
2010年の南アフリカ・ワールドカップでは、不振という下馬評を覆し、日本は自国開催以外の大会で初めてベスト16進出を果たしますが、その陰でもドラマは起きていました。
日本代表の中心として予選の序盤ではチームを牽引していた中村俊輔が、足首を痛めて次第に調子を落とし、本大会ではスターティング・メンバーから外されることになったのです。
入れ替わるように日本代表のエースとして現れたのが本田圭佑です。彼はデンマーク戦で目の覚めるようなフリーキックを決め、その名を世界に知らしめます。
フリーキックの名手であり、歴代の日本代表の中でも特に優れた才能を持つ中村俊輔は、一度も本来の姿をワールドカップ本大会で見せることなく、この大会で日本代表を引退することになります。
いつもは、試合後のインタヴューで最も明晰に試合を分析して見せる「評論家」でもあった中村俊輔ですが、南アフリカ大会が終わった時には、報道陣の前で「次の代表?ないよ、オレは…」と呟くと言葉が続かず、視線を落として歩き去りました。
5、ブラジル大会の始まり
そして今2014年のブラジル大会が始まりました。
日本は初戦のコートジボアール戦に2対1で敗れる厳しいスタートになりました。
日本は前半早いうちに、本田圭佑のゴールで先制点を上げますが、その後は追加点のチャンスを決められません。そして、後半は暑さでバテたのか足が止まって動けず、コートジボアールに連続して得点され逆転負けとなりました。
これは、ドイツ・ワールドカップの初戦、対オーストラリア戦にそっくりの、嫌な負け方です。
そして、今大会には、ドイツ・ワールドカップとの相似形を思わせることが、もう一つあります。
それは、エース本田圭佑選手の不調です。
KIRIN Challenge Cup / tpower1978
final goal / martin english (AUS)
6、ジーコの賭け
ドイツ大会では、当時のエース中村俊輔が本大会前に高熱を発症して、回復しないまま本大会を迎えました。
しかし、日本代表監督のジーコは、中村俊輔に「よほどの事がない限り、私はお前を外さない」と告げました。
この判断は裏目に出て、本大会を通じて中村俊輔の調子が出なかったことが、日本の敗因の一つだと言われています。
けれど、結果論だけで、ジーコ監督の判断を誤りだと決めつけることが出来るでしょうか?
日本が予選を突破する原動力が、中村俊輔だったことは確かでした。
ジーコは中村俊輔に賭け、そして負けたのです。
7、本田圭佑、そしてザッケローニの賭け
本田圭佑は、今大会の予選を、正に中心となって引っ張ってきましたが、昨年末にACミランに移籍してから明らかに調子を落とし、回復しないまま本大会を迎えました。
本田圭佑の状態を不安視する声がある中、ザッケローニ監督は「私は本田を信じる」と、彼を主軸に戦うことを宣言しました。
ザッケローニにもまた、本田圭佑に賭けたのです。
初戦のコートジボアール戦で、本田圭佑は見事なシュートを決め復調の兆しを見せましたが、やはり全盛時には程遠い、鈍い動きに終始しました。
日韓・ワールドカップの日本代表監督だったフィリップ・トルシエはこの試合について「本田圭佑が司令塔の役割ができなかったことが、日本の敗因のひとつだ」とコメントしています。
ワールドカップは始まったばかりです。
この大会で、私たちは、どんなドラマを見ることになるのでしょうか。