スタジオジブリの分岐点「ゲド戦記事件」


1、「ゲド戦記」アニメ化の驚き

2006年7月に、スタジオジブリの長編アニメーションの新作として「ゲド戦記」が公開されました。
この映画の制作が発表された時は、二つの大きな驚きを持って迎えられました。

ひとつは、2001年に公開された「ロード・オブ・ザ・リング」と「ハリー・ポッター賢者の石」の世界的大ヒットで巻き起こったファンタジー映画ブームの中で、ハリウッドも映画化を切望していた「ゲド戦記」の映画化権を、日本のスタジオジブリが獲得したことです。

もうひとつは、監督が宮崎駿ではなく、その息子の宮崎吾朗だったことです。

2、アーシュラ・K・ル・グインの「ゲド戦記」

「ゲド戦記(Earthsea)シリーズ」は、1968年に第1作が発表された、アーシュラ・K・ル・グインによるファンタジー小説で、J・R・Rトールキンの「指輪物語」、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」と共に、世界3大ファンタジー小説とも呼ばれています。

アーシュラ・K・ル・グインは、「闇の左手」(1969年)や「所有せざる人々」(1975年)など、アメリカが「政治の季節」だった1970年代に代表作の多くを書いた作家です。
ジェンダーや人種問題、そして政治体制についての考察を、SFやファンタジーに大胆かつ精緻に取り込んだ作風で、SF作家としてのみならず、現代アメリカにおける重要な作家の一人と考えられています。

ル・グインは、SFという文学形式を利用して、人類の文明と文化を探究しようとしました。
その作品は、社会性を前面に押し出していますが、決して堅苦しく教条的なだけではなく叙情性も豊かで、テーマに対する誠実な態度が、今も古びることなく私たちの心に迫って来ます。

「ゲド戦記」は、多くの島々が浮かぶ海の世界アースシーを舞台に、魔法使いゲドを狂言回しにして、太古の言葉の魔力が世界を支配するアースシーの光と闇を描く、ル・グインの代表的シリーズです。

ファンタジーと言っても、「指輪物語」のようなスペクタクルや「ハリーポッター」のようなエンタテインメントの要素はなく、実在するかのようにリアルに描写された異世界の中で、非常に内省的なドラマが展開されます。

3、宮崎駿と「ゲド戦記」

宮崎駿は、いつも枕元に置いてすぐに読めるようにしていたほど「ゲド戦記」を愛読していました。
彼の作品は、細かい設定というよりも、物の見方や考え方の点で「ゲド戦記」から大きな影響を受けています。

特に「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」そして「千と千尋の神隠し」には、「ゲド戦記」の影響が色濃く伺えます。

宮崎駿は、「風の谷のナウシカ」を作る前の1980年代初頭に「ゲド戦記」のアニメ化をル・グインに申し込み、断られていました。
当時のル・グインは宮崎駿を知らず、「アニメと言えばディズニーみたいなもの」と考えていたのです。

その後、「となりのトトロ」で宮崎作品に出会ったル・グインは、その作風と思想に大きな共感を覚えることになります。
そして2003年に、今度はル・グインの方から、翻訳家の清水真砂子を通じて、正式に宮崎駿にアニメ化を依頼して来たのです。

しかし、宮崎駿は「20年前なら良かったのだが、その後に『ゲド戦記』の影響を受けた作品を多く作ってきたので、今さら『ゲド戦記』を新たな意欲を持って作ることは出来ない」と、ル・グインからのオファーを断りました。


浜辺Ⅰ / nontaw
 
Sahara / veroyama

4、映画化強行

ル・グインは、「宮崎駿に作って欲しい」と依頼して来たのですから、話はここで終わるはずでした。

しかし、スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫は、「宮崎駿は断ったが、ジブリは断っていない」という詭弁的なロジックで、映画化の話を進めました。
しかも、鈴木敏夫が宮崎駿の代わりに監督として立てたのは、それまでアニメーションを全く作った事がない素人の息子、宮崎吾朗だったのです。

当然、宮崎駿は反対し、ル・グインも当惑し難色を示しましたが、鈴木敏夫が両者を説得する形で、映画化は強行されました。

ル・グインには「宮崎駿はもう新作を作らないし、ゲド戦記の脚本には彼が責任を持つ」と説得しましたが、結局それは事実ではなく、ル・グインを騙す形となってしまいました。

その結果は、どうだったでしょう?

「ゲド戦記」の日本での興行収入は75億円とまずまずでしたが、海外には殆ど売れませんでした。

そして、日本でも海外でも、批評は最悪でした。
好意的な評価でも「素人が初めて作ったにしては良く出来ている」というレベルで、名作「ゲド戦記」の映画化としては哀しいものでした。


三鷹の森 ジブリ美術館 / Kentaro Ohno
 
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5、世界マーケットへの進出

鈴木敏夫プロデューサーは何故、ゲド戦記のアニメ化を強行し、しかも監督を、経験が全くない素人である宮崎吾朗に任せようと考えたのでしょう?

スタジオジブリは一つの岐路に立っていました。それは、世界マーケットの進出に成功するかどうかでした。

当時のジブリは「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」の大成功で、興行的にも作品の評価でも、頂点に達していましたが、それと同時に組織も膨れ上がり、劇場公開時の収入だけで利益を出すためには、100億円近い売り上げが必要になっていました。

しかし、日本国内だけで100億円の興行収入を常に上げるのは、簡単なことではありません。
ジブリが生き延びるためには、日本だけでなく、世界マーケットに進出する他に道はなかったのです。

ジブリの作品の芸術的な評価は、世界でも非常に高まっていましたが、世界における興行では、文化の壁もあって成功していませんでした。

6、苦い思惑

そんな時に舞い込んできた、世界的な名作ファンタジー「ゲド戦記」の映画化は、世界進出への格好のチャンスでした。
宮崎駿監督の「ゲド戦記」となれば、間違いなく世界的なヒットを期待できる商品になった筈ですから、鈴木敏夫プロデューサーとしても、諦めきれなかったのでしょう。

監督を宮崎吾朗にしようとしたのも、素人の宮崎吾朗を立てて見切り発車で「ゲド戦記」の制作を始めてしまえば、観るに見かねた宮崎駿が口を突っ込んで、結局は「宮崎駿の『ゲド戦記』」になる、と目論んでいたのではないでしょうか?

実際に、「魔女の宅急便」や「ハウルの動く城」は、最初は若手の監督を立ててスタートしましたが、途中で制作が頓挫し、結果的に宮崎駿が引き取って完成させているのです。

しかし、「ゲド戦記」では宮崎駿と宮崎吾朗の親子関係が想像以上に拗れていたため、鈴木敏夫プロデューサーの思惑は、外れてしまったのでしょう。

アーシュラ・K・ル・グインは、アニメ「ゲド戦記」の出来について「原作はキャラクターやアイディアを生かすための元ネタでしかない」「原作だけでなく、その読者に対しても驚くほど失礼だ」と、明確に否定しました。

そして、映画化を巡るトラブルについては「もうこんな事は、忘れてしまいたい程です」と回想しています。

7、迷走の始まり

私は、作家アーシュラ・K・ル・グインの信者ではありませんが、それでもル・グインとゲド戦記は、もっと敬意を払われてしかるべき作家であり作品だったと思うのです。

プロデューサーの鈴木敏夫が取った行動には、ル・グインへの尊敬の念が感じられませんでした。

かつて、宮崎駿は「ゲド戦記」を、最も影響を受けた本だと公言していました。
そして、アニメ化を依頼しに来た時のル・グインも、宮崎駿に対して共感と敬意を持っていた筈です。

しかし、今のル・グインに残っている宮崎駿への感情は、不信感と不快感だけでしょう。
二人の優れた作家にとって、これは、とても不幸な結末ではないでしょうか?

そして、スタジオジブリの世界マーケット進出戦略も、残念ながら失敗に終わりました。
ここから、スタジオジブリの運営は迷走を始めます。

今回の「スタジオジブリ制作部門解体」という挫折の出発点は、この「ゲド戦記事件」にあったのではないかと思うのです。

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