1、「画家・タイプ」と「フォトグラファー・タイプ」
映画監督には二つのタイプがあります。言わば「画家・タイプ」と「フォトグラファー・タイプ」です。
画家・タイプは、監督の頭の中に映画の「理想の完成像」があり、それをスタッフとキャストを「使って」実現しようとします。スタッフとキャストは自分たちのイメージではなく、「監督のイメージ」の具現化に奉仕することになります。
フォトグラファー・タイプは、スタッフやキャストとの共同作業によって映画のイメージを創り上げてゆき、その世界を写し撮ろうとします。
SD46 / RK Production
Inside the Foundation Visual Art & Design Campus / vancouverfilmschool
「完全主義者」と評されるスタンリー・キューブリックは、一見、画家・タイプに思われがちですが、写真家出身の彼は正にフォトグラファー・タイプなのです。「完全」を目指しているのも、自己のイメージの押し付けではなく、スタッフやキャストとの共同作業の過程なのです。
2、リハーサルは創造だ
スタンリー・キューブリックにとっては、リハーサルやリテイクの「プロセス」そのものが、非常に重要でした。
「このショットのポイントは何か、興味を引くのはどこか、それがはっきりするまで私は待つ。すべてのアイディアが出尽くしたところで初めてシュートする。ここが映画作りのもっとも創造的な、そして難しい段階だと思う。だから撮影に入って日が浅い段階では、一日かけてリハーサルすることもある。これは単なるリハーサルを超えた、もうひとつの創造なんだ」
マルコム・マクダウェルは、「キューブリックは演技を指示してくれない」と不満を漏らしていましたが、キューブリックはむしろ、俳優は常に演出家の予想を裏切るべきだ、と考えていたのです。
Malcolm McDowell / emerikaphoto
「俳優が、監督の言ったことを無視したために悪い演技をすることは滅多にない。実際にはその反対のことがちょくちょく起こる」
「俳優は監督の意向を一貫としてものともしない、監督に対する絶大な自信と侮りを持つべきだ」
3、俳優とともにストーリーを仕上げる
彼が、撮影を100テイクも繰り返すのは「自分の言うとおりに演じろ」と要求しているのではなく、俳優によるオリジナリティ創出への期待なのです。
そしてリハーサルの過程で、俳優のアイディアも交えながら、当初のシナリオをどんどん変えて行きました。「時計じかけのオレンジ」で、主人公が「雨に歌えば」の主題歌を口ずさみながら暴行をはたらく映画史に残るシーンが、主演のマルコム・マクダウェルのアイディアだったのは有名な話です。
「シナリオは、リハーサルでも現場でも状況に応じて変えるから、シナリオ決定稿は撮影の最期になって、やっと完成するわけだ」
つまり、キューブリックが撮影に長い時間をかけるのは、あくまでも「俳優とともにストーリーを仕上げてゆく」ためであって「美しい映像を撮る」ことに主眼があった訳ではないのです。
「監督にとって、『どう撮るか?』はむしろ簡単な決定で楽な仕事だ。重要なのはシュートする前の段階で、『撮影するに足る何かを起こし得るか』への挑戦だ。撮る内容をいかに充実させるかなんだ」
4、内容とスタイル
一般的には「映像派」とされるスタンリー・キューブリックですが、実際には「映画は、まずストーリーだ」と考えていました。彼は喜劇王チャーリー・チャップリンの「街の灯」とエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」を、「内容とスタイル」という映画の本質における両極だ、として例えに出していました。
「チャーリー・チャップリンの映画を見給え。撮影技術的には特筆すべきところはないが、演じられている内容は力強く感動がある。反対の例はエイゼンシュタインの映画で、見事なスタイルで眺めて美しいが、ストーリーの上からは無意味な映像だ」
そして、キューブリックは、映画は「内容とスタイル」の融合を目指すべきだが、「どちらか一つを取れと言われたら、私はチャップリン(内容)を取る」と述べていたのです。
「私が興味を覚えるのは、第一にストーリーで、次にリハーサルとシナリオでそのストーリーを仕上げること。三番目がいわゆる映画的表現で、スクリーンに何を映し出すかだ。最初の二つは『人生』とかかわるもので、最後が『映画』にかかわるものなんだよ。人生と関係のないことを映画にしようとする連中は、いっぱい居るがね」
キューブリックは、結局、リハーサルやリテイクのプロセスそのものを、楽しんでいたのでしょうね。
ただし、俳優たちも同じように楽しんでいたのかどうかは、分かりませんが…。