誤解される巨人、スタンリー・キューブリック ②

1、気にするなよ

1987年に公開されたスタンリー・キューブリック監督によるヴェトナム戦争映画「フルメタル・ジャケット」の撮影中、若い兵士役の俳優が、劇中でニュースのインタビューを受ける短い芝居がどうしてもうまく出来ず、その日の撮影はワン・シーンも撮れずに終わりました。


full metal jacket / daniel duende
 
Full Metal Jacket / Honza Dupleix

その夜、俳優たちが寛いでいる部屋にスタンリー・キューブリックが現れ、落ち込んでいるその俳優に声をかけました。
「気にするなよ。君は必ず出来るさ。一週間かかったって良いんだ」

キューブリックが部屋を出てゆくと、俳優たちはパニックに陥りました。
「あいつ、このシーンの撮影を一週間続ける気だぞ!」

2、なぜ同じシーンを何度も?

スタンリー・キューブリックは、何十テイクも撮り直しをするだけでなく、非常に長い時間をかけてリハーサルをすることでも有名でした。俳優に同じシーンを、何度も何度も演じさせるワケです。

しかし、キューブリックは俳優に対して丁寧に説明をするタイプの演出家ではありませんでしたから、不安に感じる役者も多かったのです。「時計じかけのオレンジ」の主演マルコム・マクダウェルは「キューブリックは何回も演じさせるけれど『じゃあ、どうやったらいいんだい?』と聞いても答えないんだ」と不満を漏らしています。


Malcolm McDowell / CavinB

しかし、俳優の質問に答えないことが「演技が分からない」ことにはなりません。演出家には、どう演技するかを全て細かく指示するタイプと俳優に考えさせるタイプがあります。例えば小津安二郎は箸の上げ下げまで「自分で演じてみせて」細かく演技を指定しましたが、溝口健二は俳優に一切説明をせずに、俳優に「求める演技」を探させました。
そして、スタンリー・キューブリックも、俳優に考えさせるタイプの演出家なのです。

3、セリフを覚える

キューブリックは、あるインタビューで、自分が何回もテイクを重ねるのは俳優がセリフを覚えていないからだ、と答えていました。

「私が100テイクも撮るとか言われているが、本来、撮影なんてせいぜい15テイクもやれば十分なんだ。それなのに、セリフをちゃんと覚えていない役者がいるから100回も繰り返すことになる。ところが、そんな役者が後で『キューブリックは100テイクも撮ってスゴイ』なんて吹聴するんだから、迷惑な話しだよ」

余りの言い草に、これを読んだ時には思わず笑ってしまいました。スタンリー・キューブリックの才能を早くから認め「スパルタカス」の監督に抜擢したカーク・ダグラスが、「キューブリックは才能のあるクソッタレだ!」と毒づいたのは、こんな所かもしれません。

ところで、ここでキューブリックが「セリフを覚えていない」と言っているのは、「セリフを暗記していない」という意味ではありません。セリフを単なる暗唱ではなく「登場人物の生きた言葉」として話せるかどうか、を問題にしているのです。

4、生きたセリフを話す

例えば、1980年のモダンホラー映画「シャイニング」でバーテンダーの幽霊を演じたジョー・ターケルは、ベテランでしたが全くセリフの覚えられない俳優で、終始カンニング・ペーパーを見ながら演技していました。
しかし、ジョー・ターケルはクビになったり、出場がカットされたりはしていません。キューブリックも「よく見ると、彼の眼がカンニング・ペーパーを追っているのが分かるよね」と笑っていましたが、彼の演技自体には納得している様子が伺えます。

「博士の異常な愛情」の時は、「ジョージ・C・スコットは何度でも同じように演じられたが、ピーター・セラーズは最初のテイクでは天才的だが二度と同じ事が出来なかったので、二人のバランスを取るよう心掛けた」と語っています。いたずらにリテイクを重ねていた訳ではないのです。

つまり、あくまでも、「生き生きとリアルに登場人物を演じる」「生きたセリフを話す」ことが大事なのであって、そのために何回も繰り返されるリハーサルがあり、何十回も重ねられるリテイクがあるのです。

キューブリックは、リハーサルやリテイクの「過程」自体をとても大切にしていて、「リハーサルは、もうひとつの『創造』なのだ」と語っていました。

次回は、いよいよ(?)「誤解される巨人、スタンリー・キューブリック」の最終回です。

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誤解される巨人、スタンリー・キューブリック ①

1、誤解される巨人

スタンリー・キューブリックはご存知だと思います。名作「2001年宇宙の旅」や「時計じかけのオレンジ」で知られ、1999年の「アイズ・ワイド・シャット」を遺作として亡くなった映画監督ですが、その演出における執拗なまでの完全主義と完璧な映像美は有名で、20世紀映画界における巨人の一人と言って良いでしょう。

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すでに語り尽くされていると言っても良いスタンリー・キューブリックについてお話ししようと思ったのは、最近、彼についてかなり偏った否定的な発言が目につくようになったからです。これは、スタンリー・キューブリックが一時期あまりにも神格化されてしまった反動なので、仕方がない面もあります。
しかし、今ではキューブリックを良く知らない若い方も増えているので、誰かがバランスを取らないとキューブリックが不当に誤解されてしまうのではないか?と懸念しているのです。

2、映像美の追求

カメラマン出身のキューブリックはまず、その完璧な映像美の追究で知られています。

特に1968年という「アポロ11号の月面着陸の1年前」に公開された代表作「2001年宇宙の旅」では、まだCGはおろかコンピューター制御のカメラも無い時代とは思えないリアルな映像で宇宙旅行を描き出しました。
「2001年宇宙の旅」の映像は今観ても見事ですが、公開当時は「異形」といって良いほど、時代とかけ離れたリアルさがありました。1960年代には多くのSF映画が作られましたので、DVDなどでその映像を見比べて頂ければ判るのですが、とても同時代に作られたとは信じられないほど「2001年宇宙の旅」の映像のリアリティは突出しています。

1975年の「バリー・リンドン」では、18世紀のヨーロッパを完璧な考証で再現しました。18世紀の夜はロウソクの灯りしかなかったので、NASAがアポロ計画のために開発したレンズを使用して、当時は不可能だったロウソクの光だけの撮影を可能にしました。その映像は、ワンショット・ワンショットが泰西名画のような美しさです。

そのような、映像美の追求は称賛と同時に、「キューブリックは映像だけで人物が描けない」という批判も生んでいました。

3、演技がわからない?

スタンリー・キューブリックは、前回お話ししたデヴィッド・フィンチャーと同様、一つのシーンを100テイクも繰り返すほど粘ったことで知られています。というより、キューブリックこそが、そのような演出スタイルの元祖なのです。


1968 … ’2001′ TMA-1 excavation site / x-ray delta one

ところが、キューブリックが何度もリハーサルやリテイクを繰り返す理由について、最近非常に人気の高い某映画評論家は「キューブリックは演技のことがまるで分からなかったので、何度も繰り返させたのだ」などと、まことしやかに語っているのです。多分、キューブリック映画の出演俳優がインタビューなどで面白おかしく話した事を、そのまま引用しているのだと思われます。

キューブリックはかなり癖のある人でしたから、俳優や脚本家の中には彼に良い思い出を持っていない者もいるので、意地悪なコメントをしたのでしょう。

4、メソッド演技へのこだわり

しかし、1956年の「現金に体を張れ」に始まって、44年間を演出家として過ごしたスタンリー・キューブリックが、「演技がまるで分からなかった」ことなどあり得ない話です。
この映画評論家は話を面白くするために大げさに語るクセがあるので、どこまで本気で言っているのか分かりませんが、自身の発言の影響力を考えて、少し気を付けて頂きたいものです。

実際には、スタンリー・キューブリックは俳優の演技を非常に重視した演出家でした。


Stanley-Kubrick-preparing-the-deleted-pie-throwing-scene-for-Dr.-Strangelove / Raoul Luoar

キューブリックは映画監督を志す者の必読書として、プドフキンの「フィルム・テクニック」という映画技術、特に「映画の編集とは何か?」を解説した本と共に、「スタニスラフスキーが演出する」というスタニスラフスキーの演出現場における聞き書きを推薦しています。
スタニスラフスキーは、現代の演技理論の基礎を確立した演劇人であり、現代のハリウッド俳優の演技は、スタニスラフスキーの理論を取り入れた「メソッド演技」が基本となっています。

それでは、スタンリー・キューブリックは何を考えて、あのような演出スタイルを採っていたのでしょう?次回は、彼の演出の本質について、もう少し詳しくお話したいと思います。

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完全主義者デヴィッド・フィンチャー

1、完全主義者

「ゴーン・ガール」の監督は、「セブン」「ソーシャル・ネットワーク」などで知られるデヴィッド・フィンチャーですが、彼は「完全主義者」で知られています。


David Fincher / rasdourian

例えば、川べりを撮影するたったワン・シーンのために、ヘリコプターで樹を運んで植えさせて、「イメージ通りの川べり」を作り上げようとするなど、その演出スタイルは妥協を知りません。
彼の演出は特別にエキセントリックではなく、一見普通なのですが、良く見ると全てのカットが計算し尽されムダがありません。人物のほんの小さな演技や表情が物語の重要な伏線になっていたり、「全てのショットが意味を持っている」ことが、繰り返し見ると判って来ます。

2、ワンシーン100テイク

完全主義者デヴィッド・フィンチャーは、撮影現場でひとつのシーンを100テイクも撮ったりすることで知られています。彼は「オレが完全主義なんじゃなくて、他の監督がナマケモノなんだよ」と言っていますが、普通の撮影では一つのシーンに10テイクもかければ多い方ですから、100テイクはやはり尋常な量ではありません。
時間と予算が厳しく管理される映画の制作現場で、これだけ粘るのには、よほどの強い意志が必要なはずです。


MY04 / RK Production
 
Film Production students in Dramatic Lighting for HD class at VFS / vancouverfilmschool

このような撮影方法は、俳優への負担も大きくなりますから、下手をすると現場がギクシャクしかねないのですが、フィンチャーは俳優たちからの信頼も厚いようです。単に自分の自己満足のためだけに粘るのではなく、俳優にとっても、彼らが満足いくような演技ができるだけの時間と環境を与えているからでしょう。

3、俳優からの信頼

「ゴーン・ガール」の演技で新境地を拓き、今年度のアカデミー賞主演女優賞を有力視されているロザムンド・パイクは、「自分のキャリアは、フィンチャー以前とフィンチャー以後で、演技そのものが変わったと思う」と、デヴィッド・フィンチャーの演出に心酔しています。

デヴィッド・フィンチャーの拘りは役者の演技だけではありません。自分の望む映画表現を実現するために、新しい技術の開発や利用にも非常に積極的です。テクノロジーと「演技という人間の生の営み」を高い次元で融合しようとする姿勢が、「ワンシーン100テイク」の撮影となっているのでしょう。

「アルゴ」でアカデミー賞作品賞を受賞し、監督としてもハリウッドを代表する存在となった主演のベン・アフレックは、デヴィッド・フィンチャーの演出を「スイス時計のように精巧だ」と評して、「彼はエンジニアであると同時にアーティストなんだ。そんな映画監督は、他にいない」と絶賛しています。


Ben Affleck / Josh Jensen

4、完全主義というスタイル

映画制作という作業が、アートワークというより工業製品の大量生産のように規格化されてしまった現在のハリウッドで、デヴィッド・フィンチャーのように一見、非効率的なスタイルを貫いている監督は、貴重といって良いでしょう。

ところで、このような「完全主義」のスタイルで最も有名な映画監督といえば、現代映画界の巨人、故スタンリー・キューブリックです。スタンリー・キューブリックの演出とはどんなものだったのでしょうか?
次回は、スタンリー・キューブリックを通して「演出と演技」について考えてみたいと思います。

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「ゴーン・ガール」は男の勘違いに「めまい」を覚えた

1、男と女で映画も違う

映画には、同じ作品なのに男性と女性とでまるで違った印象を与える作品があります。
例えば、アルフレッド・ヒッチコック監督によるサスペンス映画の名作「めまい」です。男性にはこの作品をマイ・ベストに挙げる人も多いのですが、女性にとっては「良い悪いは別にして、あまり好きではない」と感じられる映画らしいのです。

昨年末に公開された、ベン・アフレック主演の「ゴーン・ガール」というサスペンス映画も正にそんな作品です。「無類に面白い」感想を抱くことでは、男女とも変わらないのですが、男性は嫌悪感や拒絶反応を示し、一方、女性は理解を示し、さらには爽快感すら感じるらしいのです。
かなり評判になりましたので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか?私もようやく観て来ましたが、これはミステリ・ファン必見の面白い映画でした。

2、ゴーン・ガール

「ゴーン・ガール」(Gone Girl) は、2012年に発表された女性作家ギリアン・フリンによるベストセラー小説が原作です。監督は「ファイト・クラブ」などで知られるデヴィッド・フィンチャー。主演のニックを演じるベン・アフレックは近年、オスカーを受賞した「アルゴ」などで監督としても活躍しています。妻のエイミーにはロザムンド・パイクが扮していますが、早くも今年度のアカデミー賞主演女優賞が有力視されています。


Ben Affleck – Feed America / Intemporelle | Erin Lassahn Photography
 
_MG_9578 / justinhoch

ニックとエイミーは誰もがうらやむ美男美女の夫婦だと思われていましたが、結婚5周年の記念日にエイミーが、謎の失踪を遂げます。家には争った形跡があり、アリバイのない夫ニックは妻殺害の疑いを掛けられ、警察の捜査やマスコミの報道に次第に追い詰められて行きます。そのサスペンスと並行して、失踪前のエイミーの日記で、次第に破綻する夫婦生活が語られます。
そして、驚くべき展開の果てに「理想の夫婦」の真実の姿が浮かび上がるのです。

3、「めまい」との共通点

「ゴーン・ガール」はサスペンス映画として、意外な展開の連続で観客を全く飽きさせない見事な出来ですが、先ほど挙げたヒッチコックの「めまい」と共通しているのは、原作小説の売りである「意外なラスト」を、映画では途中で明かしてしまう構成にしている点です。ヒッチコックはその理由を「映画はサプライズではなくサスペンスで見せるものだから」と言っていましたが、確かに「めまい」も「ゴーン・ガール」も映画半ばで明かされる真相を軸に、最後まで強烈なサスペンスで引っ張ります。

しかし、「ゴーン・ガール」と「めまい」の共通点はそれだけではありません。どちらも、「愛における男と女の意識のズレ」がテーマになっているのです。意外なラストを途中で明かしてしまうのも、このテーマをはっきりとさせる目的があるのでしょう。


Wedding Photos / Katsunojiri

4、結婚という虚構

ヒッチコックの「めまい」は、「亡くなってしまった理想の女」の面影を別の女性で再現しようとする「男の執着」というテーマを、思い入れたっぷりに描いています。ですから、男性にとっては感情移入しやすいのですが、女性は男の勝手な思い入れに拒絶反応を示しがちです。

そして「ゴーン・ガール」は、夫婦間の殺人疑惑を描いたサスペンスというより「結婚」という「夫婦の共同作業」に対する「男と女の間の意識のズレ」がテーマになっているのです。夫による妻殺害疑惑の意外な真相の先に現れる、「結婚という虚構」に対する皮肉な現実は、男性とってはかなり怖いのですが、女性にとっては十分に共感できるもののようです。

ヒッチコックの「めまい」は元々「ゴーン・ガール(消えた女)についての物語」ですから、「ゴーン・ガール」を書いたギリアン・フリンには、「女の側から見た『めまい』を語ってみよう」という意図があったのでしょう。


neighborhood watch / eioua

5、エンタテインメントの醍醐味

「めまい」と「ゴーン・ガール」が優れているのは、サスペンスフルなストーリーを語ることが、そのまま「愛についての男女のズレ」という普遍的なテーマを語ることになっている点です。面白いサスペンス映画にハラハラドキドキしている内に、無意識に深刻で複雑なテーマについて考えることになる。これこそ、本当に優れたエンタテインメントの醍醐味でしょう。

映画「ゴーン・ガール」で、主演のベン・アフレックとロザムンド・パイクは、そのキャリアにおけるベストといって良い演技を見せていますが、それには監督の演出の力も大きかったのではないでしょうか?
次回は、そのお話をしたいと思います。

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日本のヴァラエティを生んだ男、井原高忠

1、日本のヴァラエティの父

2014年9月14日、日本テレビのディレクターやプロデューサーとして活躍した井原高忠が、米国ジョージア州アトランタの病院で亡くなりました。85歳でした。

今では、井原高忠といっても、ご存じない方が多いのではないでしょうか?
しかし、井原高忠は、日本のTVのヴァラエティ番組の父と言って良い人なのです。

トップアイドルがホストを務め、歌と踊りとコントを見せるショウ番組「九ちゃん!」、ナンセンスなショートコント集というスタイルに挑んだ「巨泉X前武のゲバゲバ90分!」、大人のための情報番組「11PM」、日本初の公開オーディション番組「スター誕生!」、そして「24時間テレビ」。

現在のテレビの音楽番組とヴァラエティを語るときに、井原高忠の功績を避けて通ることはできません。

JAZZ: Cassandra Wilson 7 / Professor Bop

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2、創成期の日本テレビへの入社

1929年に東京に生まれた井原高忠は、戦後の日本に津波のように流れ込んだアメリカ文化、ポップスやミュージカル、そしてコメディ映画の洗礼を受けて育ちました。

1950年代初頭には、学生として慶応大学に通いながら、当時日本で空前の人気となっていた、ジャズ・コンサートブームの中で、ベーシストとして活躍します。
ジャズ・ブームは一瞬の花火のように急激にしぼみ、53年には終わってしまいますが、この年、日本初の民放テレビ局、日本テレビが放送を開始します。
そして、井原高忠は1954年に新卒の第1期社員として日本テレビに入社するのです。

このジャズ・ブームは日本のショウビジネスに大きな影響を与えました。
TV放送開始と同時にスターとなったタレントたちは、江利チエミのような歌手だけでなく、フランキー堺やクレイジーキャッツといったコメディアンも、ジャズ・ブーム出身のミュージシャンでした。

そして、当時次々と創業した渡辺プロを初めとする芸能プロダクションや、創成期だったTV局のスタッフの多くも、ジャズ・ブーム出身であり、TV放送の開始と共に爆発的に広がってゆく、日本のショウビジネスを創り、支えて行ったのです。


jazz man / sebastien letellier

Jazz en Vitoria 08 / Guillermo VA

3、本物のショウを日本で

井原高忠が目指したのは、アメリカの本格的なショウ番組を日本に移植することでした。
プロフェッショナルな歌とダンスとコメディアンによる笑いが、隙のない構成で繰り広げられる、洗練されたヴァラエティ・ショウこそが、彼の理想でした。

1960年代の彼の仕事は、正にその実践です。

坂本九をホストにフィーチャーした公開ショウ番組「九ちゃん!」は「ダニーケイ・ショウ」、大ヒットした「巨泉X前武のゲバゲバ90分!」は「ラーフ・イン」、そして「24時間テレビ」は「レーバーデイ・テレソン」。

彼の作品の多くは、アメリカのTV番組にお手本がありました。
しかし、アメリカのショウビジネスを理想としていた井原高忠にとって、それは単なる「モノマネ」ではなく、日本で「本物のショウビジネス」に近づくための道だったのです。

4、渡辺プロとの戦い

しかし、1970年代に入ると、井原高忠に大きな事件が訪れます。
それは、渡辺プロとの戦いです。

渡辺プロは当時最大の芸能プロダクションで、「渡辺プロのタレントがいなければ、音楽番組やヴァラエティ番組は作れない」と言われていました。
全盛時の渡辺プロが、どのくらい凄かったかというと、今のジャニーズとバーニングと吉本興業とAKBが一緒になったようなプロダクションが、存在したと思ってください。
正に芸能界のドンで、TV局の編成に口を出すほどの圧倒的な影響力を誇っていました。

しかし、井原高忠は、渡辺プロの横暴な要求に反旗を翻し「もう、おたくのタレントはいりません」と啖呵を切りました。
その結果、日本テレビは渡辺プロのタレントが使えなくなってしまったのです。
それは、当時のスターのほとんど全部が、日本テレビには出ないことを意味しました。


GC Musical The Boyfriend 8 / Larry Ziffle

Musical #Legaldade50 / Cintia Barenho

5、苦肉の策「金曜10時!うわさのチャンネル‼」

そこで、スターがいなくても面白い番組で対抗しなければ、と作られたのが「金曜10時!うわさのチャンネル‼」でした。

女性歌手の和田アキ子にコメディを演じさせて大人気となり、彼女の「ゴッド姉ちゃん」というキャラクターはこの番組で確立します。

その他にも、プロレスラーのデストロイヤーや現役のボクシングの世界チャンピオンだったガッツ石松をコメディアンとして起用したり、局アナの徳光和夫にタレントをやらせたり、デビュー当時のまだ怪しかったタモリがイグアナの真似をしたり、ごった煮的な、なんでもありの番組でした。

それまでの常識を破る、素人の起用や型破りな内容は、渡辺プロのタレントが使えなくなってしまった為の「苦肉の策」だったのです。

最高時には視聴率が30%を超える人気番組になりましたが、現在のお笑い系のグズグズな「日本式ヴァラエティ」は、この番組が元になっています。

6、ヴァラエティじゃない「日本式ヴァラエティ」

本来「ヴァラエティ」とは、歌がありダンスがあり、笑いがあり、様々な要素が詰まってヴァラエティに溢れているから「ヴァラエティ・ショウ」だったハズです。

しかし、「金曜10時!うわさのチャンネル‼」以後の日本式「ヴァラエティ」は、ヴァラエティとは名ばかりの、決まった型やセオリーの無い、カオス的世界になって行きます。

企画とタレントのブッキングという枠組み作りが番組作りの全てで、台本には「あとはアドリブよろしく」等と書いてあるだけの、緩やかな構成の「ヴァラエティ」は、世界にも珍しい日本独特のものです。


THE iDOLM@STER / kodomut

AKB48 Art Club Exhibition / Dick Thomas Johnson

7、アイドル・ブームを生んだ「スター誕生!」

当時芸能界に君臨していた渡辺プロとの戦いは余りに無謀に見えましたが、井原高忠にはひとつの勝算がありました。
1971年に始まった、日本初の公開オーディション番組「スター誕生!」です。
渡辺プロのタレントがダメなら、自分たちでスターを作れば良い!と、考えたのです。

「スター誕生!」からは、山口百恵、桜田淳子、森昌子、岩崎宏美、ピンクレディー、小泉今日子、中森明菜など、その後の「アイドル・ブーム」を担う、錚々たるスターを輩出しました。

しかし、渡辺プロは「スター誕生!」に参加していませんでしたから、これら新しい時代のアイドルは一人も渡辺プロへ行かず、他の新興プロダクションに所属することになりました。

その結果、渡辺プロは、70年代に始まり現在のAKBまで続く日本独自の「アイドル・ブーム」から、微妙に乗り遅れてゆくことになります。

8、日本のオリジナルな大衆文化

1960年代に圧倒的なパワーで日本の芸能界に君臨した渡辺プロは、70年代に「アイドルの時代」が始まると、すれ違うように衰退して行きます。
その陰には、井原高忠が仕掛けた、日本テレビ対渡辺プロの戦いのドラマがありました。
今の「お笑いヴァラエティ」も「アイドル・ブーム」も、その戦いから生まれたのです。

そして、この二つは、アメリカのショウビジネスの輸入品ではありませんでした。
「訓練されたプロフェッショナルによる、完成されたショウ」ではなく、むしろ「素人っぽさ」や「偶然によるハプニング」が生み出すリアリティが、大衆にもてはやされました。

日本のテレビが独自に生んだ、オリジナルな「大衆文化」だったのです。


Dance studio rehearsal / Felix Padrosa Photography

PotG12.12 (85 of 142) / MrAnathema

9、早すぎるリタイア

「50歳になったら会社を辞める」と公言していた井原高忠は、1980年の51歳の誕生日に、日本テレビを退職してしまいます。
51歳は、当時でもまだ働き盛りで、むしろようやく現場を離れて、これから経営陣へと出世していく時期でしょう。

早すぎるリタイアは、当時日本テレビが完全に読売新聞の傘下に入り、自由な社風が失われつつあった事が、理由の一つだとも言われています。

しかし、井原高忠は、結果として彼が生み出すことになった日本独自の「お笑いヴァラエティ」や「アイドル・ブーム」などの「素人っぽさを面白がるショウビジネス」に、結局は馴染めず、未来を感じられなかったのではないでしょうか?

10、本物のショウビジネスの国へ

井原高忠にとって、本物のショウビジネスは、やはり「ブロードウェイ」であり「ハリウッド」だったのです。
時代が許せば、伝統的な、歌とダンスとコメディアンの「ヴァラエティ・ショウ」を続けて行きたかったのかもしれません。

日本テレビを退職した井原高忠は、1985年に日本を去り、アメリカ合衆国の永住権を得てハワイのホノルルに移住。1990年には米国籍を取得します。
そして彼が生涯の最後を過ごしたのは「本物のショウビジネスの国」アメリカ本土のジョージア州アトランタだったのです。

(文中敬称略しました)

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良心の映画人、リチャード・アッテンボロー

1、リチャード・アッテンボローの死

2014年8月24日、「ガンジー」(1982)でアカデミー賞監督賞を受賞した、イギリスの映画監督兼俳優リチャード・アッテンボロー氏が亡くなりました。90歳でした。


Richard Attenborough / theglobalpanorama

今、リチャード・アッテンボローと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、俳優としてスティーブン・スピルバーグの「ジュラシック・パーク」(1993)に、実業家ハモンドの役で出演した姿ではないでしょうか?

当時、リチャード・アッテンボローは俳優としては、ほぼ引退した状態だったのですが、スティーブン・スピルバーグは、敢えてこの役をリチャード・アッテンボローに依頼しました。

スティーブン・スピルバーグは、しばしば、尊敬する映画人を、自分の映画に役者として登場させて来たのです。

2、尊敬する映画人

スピルバーグの初期の傑作「未知との遭遇」(1977)には、フランスのUFO学者ラコーム博士役として、映画監督のフランソワ・トリュフォーが出演していました。

学生時代のスピルバーグは、トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)に心酔し、トリュフォーを父親のように考え、私淑していました。
トリュフォーの演じるラコーム博士は、「未知との遭遇」という映画全体を包み込む、まるで父親のような存在として描かれています。

そして「ジュラシック・パーク」では、ジュラシック・パークの創始者である富豪ハモンドをリチャード・アッテンボローが演じています。
マイケル・クライトンの原作小説では、ハモンドは強欲な実業家であり、利益のために自然を改造しようとする悪人です。

しかし、スピルバーグの映画「ジュラシック・パーク」におけるハモンドは「童心を忘れず、理想を追求するあまり行き過ぎてしまった人物」として好意的に描かれ、「憎めない祖父」のようなキャラクターに変わっています。

スピルバーグは、映画人として、リチャード・アッテンボローを尊敬していたのです。


World War One 1st Aero Squadron / San Diego Air & Space Museum Archives

3、「反戦と平和」の映画作家

1923年生まれのリチャード・アッテンボローは、1942年から映画俳優となり、数多くの作品にバイプレーヤーとして出演しています。
特に「大脱走」(1963)における、脱走の計画を指揮する脱走王の役が有名です。

アッテンボローは、1960年代の終わりから映画監督にも乗り出し、多作ではありませんが、ひとつひとつじっくり作り上げるスタイルで、約30年間に12本の映画を残しました。

映画監督としてのリチャード・アッテンボローは、第1作の「素晴らしき戦争」(1969)から「反戦と平和」という思想が、一貫して揺るぎませんでした。

「素晴らしき戦争」は、第一次世界大戦が勃発したヨーロッパを舞台に、ミュージカルの手法で反戦を描いた問題作です。

興行的には成功しませんでしたが、第1作から完成された作風で、高い評価を得ました。

4、平和への祈り

イギリス人であるリチャード・アッテンボローは、1980年代に、帝国主義時代の英国の負の歴史を総括するように、人種問題をテーマにした映画を作ります。
「ガンジー」(1982)と「遠い夜明け」(1987)です。

1970年代の南アフリカ共和国を舞台にした「遠い夜明け」(1987)は、アパルトヘイト政策が未だ終わっていない時代に、リアルタイムで、南アフリカ共和国を告発した映画でした。

新人俳優だったデンゼル・ワシントン主演で、アパルトヘイト政権に殺害された、著名な黒人解放活動家スティーヴ・ビコを描いた作品です。

当時は黒人の反体制運動が一番激化している時期だったので、南アフリカ共和国で公開された時には、右翼的な白人勢力によって、映画館が爆破される事件が多発しました。

そして、やはり代表作は、「インド独立運動の父」である「偉大なる魂」マハトマ・ガンジーの人生を描いて、アカデミー賞で作品賞、監督賞など8部門を受賞した「ガンジー」(1982)でしょう。

南アフリカ共和国のアパルトヘイトに接して人種問題に目覚めた、ガンジーの青年時代から始まり、インド人解放のため大英帝国に立ち向かい、そして暗殺されるまでの静かなる戦いの生涯を「アラビアのロレンス」のような壮大なスケールで描いた、伝記映画です。

主演のイギリス人俳優ベン・キングズレーは、インド人の血を引く当時無名の青年でしたが、入神の演技でガンジーに成り切り、アカデミー主演男優賞を受賞しました。

5、遠すぎた橋

私にとってのリチャード・アッテンボローと言えば、まず1977年の「遠すぎた橋」を思い出します。

「遠すぎた橋」は、第二次世界大戦後期に行われ連合軍最大の激戦となったマーケット・ガーデン作戦を描いた、米英合作の戦争映画です。


TBF (Avengers) flying in formation over Norfolk / Marion Doss

イギリスとアメリカのオールスターキャストを集めて、まだCGなんて影も形も無い時代に、当時の金額で90億円!(今の価値に直すと250億円くらいでしょうか?)の巨費を投じて、大物量作戦で第二次世界大戦を再現しています。
戦争超大作として大宣伝が繰り広げられ、男の子たちは期待に胸を膨らませて、映画の公開を待ったものです。

ところが蓋を開けてみると、完全な「反戦・厭戦」映画で、「楽しいアクション大作」を期待して観に行った子供たちは、皆ビックリしてしまいました。

「記録映画か?」と思う程の人海戦術で描かれる戦闘場面は、どちらが勝っていてどちらが負けているのか良く分からない、混沌とした状況でした。
そして、官僚的な上層部の無責任な命令の下に、ヨーロッパの街が破壊され、兵たちは虚しく死んで行きます。

男の子が戦争映画に期待する爽快なゲーム性とは、真逆の映画だったのです。

6、戦争の実相

太平洋戦争で実際に従軍し中国へも出征した1925年生まれの作家、田中小実昌は、「遠すぎた橋」に描かれた「戦争の様相」を非常にリアルだと高く評価していました。

リチャード・アッテンボローは1923年生まれ。やはり青春時代に戦争が「目の前の現実」だった世代です。

「戦闘や戦争は、将棋の勝負ではない。戦争、戦闘と言えば、かならず勝ち負けがあるように思っているのは、戦争物語にダマされているのだ。実際には、そんなふうではない、とこの映画『遠すぎた橋』は、はっきり言っている。」(田中小実昌)


Bastogne Historic Walk 2011 / archangel 12
 
Jewish civilians / Marion Doss

7、正直な映画

リチャード・アッテンボローは、映画史に残るような才能の煌めきを見せたり、独創的なスタイルを発明したりはしませんでしたが、常に誠実に映画に向き合っていました。

太平洋戦争における日本軍の捕虜収容所を描いた、大島渚の「戦場のメリークリスマス」(1983)が公開された当時、原作を書いたイギリス人作家、サー・ロレンス・ヴァン・デル・ポストが来日しました。

ヴァン・デル・ポストは、いわゆる「ハリウッド的な商業映画」には人間の真実が描けていない、と非常に否定的でしたが、映画評論家小野耕世との対談で、こんな会話を交わしています。

(小野)
「リチャード・アッテンボローの『ガンジー』はご覧になりましたか?」

(ヴァン・デル・ポスト)
「未だ観ていない。アッテンボローは良く知っているよ。彼はマジメで良い男だ」
「しかし、ガンジーは世界に大きな謎を投げかけた人物だ。その問い掛けに、答えられるものだろうか?」
「ガンジーの上っ面を撫でただけの映画に、なっていやしないかね?」

(小野)
「『戦場のメリークリスマス』のような深みには欠けるかも知れませんね」
「しかし、誠実につくられた、正直な映画(honest movie)です」

(ヴァン・デル・ポスト)
「正直な映画(honest movie)。それなら分かる…とても良く分かるよ」

リチャード・アッテンボローは、常に誠実な態度で「正直な映画」を作り続けた作家でした。

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宇宙戦艦ヤマトに乗船できなかったワケ

1、ゆ、許せん!

「ゆ、許せん!」中学生になったばかりの私はそう叫んで、テレビのスイッチを切ってしまいました。
その時テレビには、「宇宙戦艦ヤマト」が何度目かの再放送中で、主人公の古代進とヒロインの森雪がヤマトのデッキで会話をしているシーンが映っていたのです。

大和ミュージアム
大和ミュージアム / Norio.NAKAYAMA

NGC2246_2010-12-18_0002_SFBD / jacksonlu

2、宇宙戦艦ヤマト、ハリウッドで実写化!

先ごろ、1974年からテレビ放送されたSFアニメ「宇宙戦艦ヤマト」がハリウッドで実写映画化される、という驚きの発表がありました。
ハリウッド版のタイトルは「STAR BLAZERS」。
これは「宇宙戦艦ヤマト」がアメリカでTV放映されていた時の番組名です。

「宇宙戦艦ヤマト」は、ご存知のように、ガミラス星人の侵略によって放射能で汚染され、滅亡の危機に瀕している地球を救うために、宇宙戦艦ヤマトが放射能除去装置を求めてイスカンダルへと旅立つドラマです。

しかし、「宇宙戦艦ヤマト」をアメリカ人が映画化するというニュースには、多くの人が、どこか違和感を感じたのではないでしょうか?

3、アメリカ製の日本軍礼賛?

「宇宙戦艦ヤマト」は、宇宙を舞台にしたSFではありますが、その背後には、いわゆる「戦中派」であったスタッフ達にとっての、太平洋戦争に対する怨念と憧憬が流れていたのです。

地球を救うための宇宙戦艦ヤマトの戦いは、太平洋戦争末期に無念のうちに沖縄近海に沈んだ戦艦大和の復讐戦でもありました。

そのため、テレビ放映当時から「軍国主義の賛美ではないのか?」との批判も浴びていました。
しかし、背景にある「戦中派の軍国主義に対するロマンティシズム」といったものを完全に排除してしまうと、ヤマトの本質的な魅力も損なわれてしまう、というアンビバレントが有るのです。

そんな、「敗戦国」日本人の軍国主義時代へのノスタルジーを含んだ作品を、「戦勝国」アメリカ人が作るのです。

果たして、ハリウッドでアメリカ人が作る「ヤマト」は、どんな映画になるのでしょうか?


alley karasukojima / Norio.NAKAYAMA
 
imgp6774 / Matoken

4、アニメブームに乗り遅れるな?

私は、世代的にはギリギリ「宇宙戦艦ヤマト」世代だといえます。

ハイティーンが中心となったいわゆるアニメブームは、1977年の劇場版「宇宙戦艦ヤマト」を皮切りに、「松本零士アニメブーム」という形で始まりました。
それまでは完全に幼児向けだったアニメーションに、中学生から大学生までを中心とした若者たちが、つめかけるようになったのです。

しかし、私はどうもその波に乗れないでいました。
それは宇宙戦艦ヤマトに対して「ゆ、許せん!」というほどの怒りを抱いていたからです。

こう書くと「ヤマトの軍国主義礼賛が許せなかったのか?」と思う人もいるかも知れませんが、当時は子供でしたから、そんなことは考えていませんでした。

私が怒っていたのは、ヤマトにおける宇宙空間の描写がデタラメだったからなのです。
しかし、その怒りが「ゆ、許せん!」とまでなったのは、私自身のちょっとしたトラウマが原因になっていました。

4、科学考証への疑問

東宝の「ゴジラ」シリーズを初めとする怪獣映画や円谷プロの「ウルトラマン」シリーズ等、それまでも日本の実写にはSF的映像があふれていました。
けれど、科学考証がデタラメな作品が多く、当時の大人のSFファンからの評価は芳しいものではありませんでした。

こちらは小学生でしたから、喜んで見まくっていたのですが、宇宙空間に上下があったり、空気があったり、重力があったり、子供心にも「これは、なんか変じゃないか?」という描写が満載でした。


Voyage dans la Lune / striatic

MOC-023 LEGO Q Spaceship – Front Quarter / andertoons

5、友達との論争

そして、確か小学5年生頃のことだったと思います。私は友達と「日本SF映像の科学考証」について論争になりました。

その友達は男3人兄弟の末っ子でしたから、お兄さんの影響もあったのだと思いますが、ある時「日本のSF映画なんてダメだよ、デタラメな描写ばっかりじゃないか!」と吐き捨てるように言い始めたのです。

わたしもその点については疑問を感じていたのですが、当時の私は基本的に大人や社会というものを信じている真面目な子供でしたので、こう反論しました。
「待って、確かに日本のSF映画の描写はおかしい。でも、作っているのは大人でプロだよ。いくらなんでも、僕ら小学生が知っている程度のことを知らないハズがないよ。きっと、ワザとやっているんだよ」

「うーん。だとすると、あのデタラメに見えるのは何なんだろう?」
「きっと、僕らの知らない裏設定とかがあるんだと思う。もう少し大きくなったら分かるよ」
「そうだね。そうかも知れない」

論争は、私の勝ちでした。

6、裏切り(^o^)

ところが、大人になるまでもなく、私は徐々に恐ろしい真相に気が付き始めました。
あのデタラメに見えた宇宙空間の描写は、ただの「子供だまし」のデタラメであることが分かってしまったのです!

なまじ、友達を言い負かしてしまっただけに、この裏切り(笑)は私の子供心を傷つけました。
この頃から私は、大人や体制というものを信じない子供になって行った気がします。(^o^)

7、日本SF映画への屈折と期待

一方で、少し大きくなったので、日本実写SF映像のデタラメ描写には、現実的で実際的な事情があることも分かって来ました。

限られた予算の中で、スタジオの天井から糸で釣ったミニチュアで宇宙空間を表現しようとするために、地球の物理法則に縛られざるを得ない、という大人の事情も理解し始めたわけです。
その結果、ますます日本の実写SF映像に対する期待は、しぼんでしまいました。

しかし、私は日本のSFアニメには未だ可能性を見ていました。
アニメは絵ですから、正確な宇宙を描いてもお金がたくさん掛かる訳ではありません。アニメは大人の事情に縛られず、正確な科学考証ができるハズです。


SRS-22 Von Clausewitz / pasukaru76

HMS Nova Scotia / pasukaru76

8、ヤマトよ何故に

「宇宙戦艦ヤマト」は最初の放送時には人気が出ませんでしたが、「今までと違うSFアニメが始まった」と子供たちの間では噂になって、再放送によって少しずつブームになって行きました。
そこで私も、熱心なヤマトファンになった友達に勧められて、再放送の時にチャンネルを合わせてみたのです。

ところが!
アニメなのに、宇宙空間に上下があるのです!
無重力のハズの宇宙空間で、物が下に落ちるのです!
吹きさらし(?)の宇宙空間で、古代進と森雪が、ヘルメットもしないで会話をしているのです!

私は「ゆ、許せん!」とテレビのスイッチをぶち切り、以後アニメブームと距離を置くようになってしまったのです。

私が、日本のSF映像に帰還するのには、「機動戦士ガンダム」の登場を待たなければなりませんでした。

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「カリオストロの城」の城主は江戸川乱歩だった

1、その時計塔には見覚えがあった

ヨーロッパのレトロな古城を舞台に繰り広げられる冒険物語である「ルパン三世・カリオストロの城」を観ている間、私は夢中になりながらも、ある違和感を抱いていました。
財宝の謎が隠された巨大な時計塔、主人公になつく犬と美しい令嬢。そして主人公は謎を解くために時計塔の内部へ潜り込み、さらに地下世界への探検に乗り出す…。

「この話って、どこかで読んだことあるぞ?」

「カリオストロの城」のいくつかのシチュエーションに私はデジャブを感じていたのです。
それは、江戸川乱歩の「幽霊塔」という作品です。
この小説は、少年時代の私が夢中になった作品の一つだったのです。


Schloss Hohenschwangau (Fussen, German) / t-mizo

Castel Roncolo / Goldmund100

2、ミステリ入門の定番「少年探偵団」

私が子供の頃は、ポプラ社から出ていた江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズでミステリに入るのが定番でした。

 

「少年探偵団」は、江戸川乱歩が子供向けに書いたミステリ・シリーズで、毎回、変装の名人である犯罪王、しかし多分に愉快犯的でもある「怪人二十面相」と、小林少年をリーダーとする「少年探偵団」が対決します。
たいていの場合、怪人二十面相の前に少年探偵団は窮地に陥るのですが、最後に名探偵・明智小五郎が登場して解決してくれます。

現在の「名探偵コナン」にも続く「子供が大人の犯罪者と対決する」ミステリの基本パターンを創り上げたシリーズです。
(名探偵コナンは「少年探偵こそが名探偵で、明智小五郎役の大人は能無し」と、ひっくり返している訳です。)

1936年に第1作が発表された時から国民的な大人気で、70年代頃までは、ミステリ好きの子供はみんな、ポプラ社から出ていた少年探偵団・シリーズを読んでいました。

もっとも、シリーズが進むに従って同じようなパターンの話しが続くので、10巻目あたりで飽き始めて来て、シャーロック・ホームズなどの海外のミステリへと移って行くのも、また定番でありました。

そして、ちょうど「少年探偵団」シリーズから離れて海外ミステリに移行する間のエアポケットみたいな時期に、小学生の私は、講談社から出ていた「少年版・江戸川乱歩選集」と出会ったのです。

Furukawa Gardens
Furukawa Gardens / kanegen

3、本当に子供向けなのか?「少年版・江戸川乱歩選集」

「少年版・江戸川乱歩選集」は、江戸川乱歩の大人向けミステリの中から「蜘蛛男」「一寸法師」「幽鬼の塔」「幽霊塔」「人間豹」「三角館の恐怖」の全6編を少年向けにリライトした、箱入りでちょっと豪華な感じの異色シリーズでした。

このシリーズは本当に異色で、作品のラインナップ自体が江戸川乱歩作品の中でもかなりエロティック&バイオレンスなのですが、リライトといっても文章を少し読みやすくしているだけで、ぜんぜん子供向けになっていないのです。

しかも、装丁がそれに輪をかけていて、カバーアートが幻魔大戦シリーズ等の妖しいイラストで有名な生頼範義、挿絵もそれぞれ大人向けの挿絵画家で、「お寿司から子供向けにワサビを抜くどころか、足してるだろ?」な結果になっていました。

当然のことながら(?)私はこのシリーズが大いに気に入り、近所の友達にも貸してあげたのですが、友達よりも友達のお父さんがハマってしまい「子供向けにこんなの出していいのぉ?」といいながら読んでいました。
(残念ながら、このシリーズは、現在では入手が難しくなっています)

4、江戸川乱歩の「幽霊塔」

けれど、私が一番大好きだった「幽霊塔」は、シリーズの中ではおとなしい作品で、直接的な描写の刺激ではなく、ムードで怖さを出している作品でした。

 

時計塔のある古い西洋屋敷を舞台にした、巨大な時計塔と地下迷路の奥に隠された財宝を巡るミステリアスなドラマで、推理小説というより怪奇的な雰囲気の冒険小説でした。
というのも、この作品は、アリス・マリエル・ウィリアムソンの『灰色の女』(A Woman in Grey)を江戸川乱歩が翻案した作品だったので、オリジナルな乱歩作品とは少しムードが違ったのです。

正確にいえば、ウィリアムソンが1898年に発表した小説を黒岩涙香が1899年に日本向けに翻案し、それを子供の頃に愛読していた江戸川乱歩が1937年にさらにリライトした、というちょっと複雑な成り立ちの作品です。

私は「幽霊塔」に夢中になってしまい、文字どおり「表紙が破れるまで」何度も何度も読み返しました。

特に、主人公が財宝の謎を解くために、ひとり時計塔を探る冒険に乗り出すクライマックスのミステリアスなムードが大好きでした。
ですから、「ルパン三世・カリオストロの城」の時計塔と落とし穴の下の死屍累々たる地下室を見た時に、すぐに「幽霊塔」を思い出したのです。


tunnel / angeloangelo

mgmt:weekend wars / visualpanic

5、「カリオストロの城」のルーツ

宮崎駿は、アニメーション評論家おかだえみことの対談の中で「カリオストロの城」の元ネタが、モーリス・ルブランによるアルセーヌ・ルパン・シリーズの「緑の目の令嬢」と江戸川乱歩の「幽霊塔」であることを明かしています。
宮崎駿も子供の時に、江戸川乱歩の「幽霊塔」に夢中になっていたのです。

ウィリアムソンが19世紀に書いた「灰色の女」が、その後も何人もの手で何度も語り直されて来たのです。

本当に優れたストーリーは時代を超えて生き延びてゆく、という良い例でしょう。

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アニメーション「作家」宮崎駿との遭遇

1、アニメは「作品」じゃなかった

前回のコラムの最後に「私は、まだ宮崎駿に『出会って』はいませんでした」と書きましたが、それは、私が「ルパン三世・カリオストロの城」の面白さに驚きながらも、「宮崎駿の作品」とは認識していなかった、という意味です。

当時は、それが普通でした。
アニメーションを誰が作っているのか?なんて誰も気にしていませんでしたし、実写映画と同列に作品として評論されることも、ほとんどありませんでした。

アニメは「作品」なんかじゃない。
それが、世間一般の扱いだったのです。

Akihabara Street

2、アニメ時代前夜

1970年代の終わりから1980年代にかけて思春期を迎えた私たちは、アニメーションをサブカルチャーとして扱うようになった最初の世代です。

それまでアニメを無自覚に「お楽しみ」として享受していた少年が、自意識を持ってテーマを研究したり主人公に自我を投影したりする立派な(オタク)青少年になる時代がやって来たのです。
初めて研究やカルトの対象となるアニメーションが登場した時代でもありました。

しかし「ルパン三世・カリオストロの城」が公開された1979年は、そんなアニメ・サブカルチャー時代は、まだ始まっていませんでした。

3、「アニメのスタッフなんて、らららら・・・」(吉田拓郎「人間なんて」風に)

その頃、アニメーションは作家主義的な見方がされていなくて、実写映画のように監督やスタッフで評価されるという事が全くありませんでした。

要するに「どうせ子供向けでしょう」と、芸術作品としては、まともな扱いを受けていなかったのです。

ですから、アニメ「火の鳥」は「手塚治虫の『火の鳥』」だし、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」は「松本零士の『宇宙戦艦ヤマト』」でした。
アニメーションの監督や脚本が誰か?などは問題にされず、原作者の名前だけで評価され、宣伝されていたのです。

今の、アニメ版「ドラえもん」みたいな感じだと思ってください。
あれも「藤子F不二雄の『ドラえもん』」と認識されてますよね。
ディズニー・アニメですら「ディズニー」というブランドだけで語られ、だれが作ったか?では語られませんでした。

一部の古くからのアニメーション愛好家を除いて、アニメーションのスタッフなんて、まるで注目されていなかったのです。


蒲田キネマ通り商店街入り口 / torisan3500

Keikyu Kamata Station, Tokyo / 305 Seahill

4、アニメーション「作家」宮崎駿との出会い

「ルパン三世・カリオストロの城」を観た私が思ったのも、「ルパン・シリーズってこんなに凄いのか!」という事でした。
そこで、「カリオストロ」は映画二作目ですから、私はルパン三世の映画版第一作がどうしても観たくなり、情報誌ぴあをチェックして蒲田の名画座に飛んで行きました。

ところが、蒲田の薄暗い名画座で観た映画「ルパン三世」第一作(「ルパン対複製人間」編)は「カリオストロの城」ではありませんでした。

「ルパン三世」の第一作は、当時のSFブームの影響を受けて、当時話題になったばかりのクローン人間をアイディアに取り入れる等、かなり、時流を意識した作品でした。
決してつまらない作品ではなく、むしろストーリーは面白かったのですが、残念ながら「カリオストロの城」で感じた、あの驚きは再現されなかったのです。

「ルパン三世カリオストロの城」で私が驚き魅了されたのは、ストーリーもさることながら、その映像でした。

スクリーンの向こうに空間が実在し、世界が広がっているとしか思えないほどのアクチュアリティがあったのです。

しかし、ルパン三世第一作(「ルパン対複製人間」)の画面の中には、空間は広がっていませんでした。
あくまでも平面的な「絵」だったのです。

ここに来て、私はようやく「これはルパン・シリーズが凄いのではなく、『カリオストロの城』を作ったスタッフが凄いのではないか?」
「監督にクレジットされている、あの宮崎ってヤツが凄いのでは?」と気が付くに至ったのです。

私が「宮崎駿」というアニメーション作家に「出会った」瞬間でした。

5、夜明け前が一番暗い?

宮崎駿の「ルパン三世・カリオストロの城」に大きな衝撃を受けた私は、周りの友人たちにさっそく「カリオストロ」の凄さを吹聴しましたが、残念ながら全く相手にされませんでした。
「え?お前、まだ、そんなもん観てるの?」
「ルパンなら、テレビでやってるじゃん」

それまで、友人たちの間で「背伸びをした映画少年」だった私は、「いまだにアニメに夢中なお子様」に格下げになった気がしました。

実は、この年、1979年に、私はもう一つ似たような経験をしていました。
それは、以前このブログの「伝説の男がモダン・ホラーの夜明けを生んだ」で採り上げた、ジョージ・ロメロ監督の「ゾンビ」が、3月に公開された時です。

この映画にも強烈なショックを受けた私は、その感動を、なんとか友人に伝えようとしました。
私 「この前、スゴイ映画を観て感動したんだ!」
友人「へえ!?何て映画?」
私 「ゾンビ!」
友人「・・・」
私 「・・・」

日本アニメとモダン・ホラーのターニングポイントとなる名作が公開された1979年は、日本のサブカルチャーにとって重要な年になったのですが、図らずもそれに嵌ってしまった少年にとっては、苦難の年でもありました。

しかし、「カリオストロの城」や「ゾンビ」の素晴らしさが周りに理解されなかったことは、かえって私に、それらの作品の「新しさ」への確信を深めさせることになったのです。

6、アニメ時代の夜明け

宮崎駿を「発見」することによって、それまで映画ファンとしてアニメーション(特に日本のアニメ)を一段低く見ていた、私の偏見は打ち壊されました。

むしろ、世間一般では、まだまだバカにされていたアニメの中に「作家性」や「テーマ性」を見つけ出すことに、優越感を感じるようになりました。(つまり、オタク化した訳ですが…)

監督デビュー作「カリオストロの城」の興行的失敗により、宮崎駿は1984年に「風の谷のナウシカ」を発表するまで、5年間の長い不遇期間を過ごします。
しかし、その80年代前半に、私にとってのカルチャー・ヒーローだったのが、宮崎駿と「機動戦士ガンダム」の富野由悠季でした。

富野由悠季との出会いについては、また回を改めて、お話ししたいと思います。

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画面の向こうには世界が広がっていた

1、そこには世界が広がっていた

1979年12月某日の午後。
私はその時、渋谷の道玄坂なのにガラガラの映画館の中で、強いショックを受けていました。
なぜなら、何の予備知識も無く、初めて宮崎駿の「ルパン三世・カリオストロの城」を観たからです。それは衝撃的な映像体験でした。

「スクリーンの向こうに空間が広がっている」のです。

決してリアルではなくマンガ的な絵柄なのに、画面の向こうに空間が、世界が存在しているとしか思えないのです。
特にカーチェイスのシーンなどは「これは絵じゃなくて空間を丸ごと捉えているんじゃないか?」という程の実在感があったのです。
日本のアニメだけでなくディズニー等を含めても、アニメーションで、こんな印象を持った作品は初めてでした。

もっとも、私が「カリオストロの城」を観たきっかけは全くの偶然。ただの「時間潰し」でしかありませんでした。

PhoTones Works #3846
PhoTones Works #3846 / PhoTones_TAKUMA

2、「日本アニメの時代」の終わり

少し、昔話しにお付き合いください。

私は、このブログで何度か宮崎駿とスタジオジブリを取り上げていますが、やはり、昨年9月の宮崎駿の引退会見、そして今年8月のスタジオジブリの映画制作部門解体の発表に「一つの時代の終わりが来たのだ」という印象を持ったからです。

それは、「日本アニメの時代」が終わろうとしているのではないか?という感慨なのです。

私は、少年時代に「宇宙戦艦ヤマト」に始まった、いわゆる「アニメ・ブーム」の直撃を受けた世代です。

正直に言うと「エヴァンゲリオン」以後の最近のアニメには、なんとなく馴染めず、余り観ていませんので、本当のアニメファンではないのだと思いますが、それでも「日本アニメの成長と共に自分たちも成長して来た」という思いを持っています。

特に宮崎駿には、強い思い入れがあります。
多くの人は、風の谷のナウシカ以後に、ある程度名声やイメージが確立してから宮崎駿という名前を知ったはずですが、私にとっては、世間で評判になる前に「自分で発見」した作家なのです。

「自分で発見」とはどういう事かというと、1979年12月某日、本当に偶然に「ルパン三世・カリオストロの城」を観てしまったのです。

3、時代遅れのルパン三世

「カリオストロの城」が劇場公開された頃の状況をお話しすると、ルパン三世の映画版第二作目である「カリオストロの城」は、宇宙戦艦ヤマトを発端に始まったSFアニメブームからは少し外れってしまっていて、注目を集めていないし、全くお客も入っていませんでした。

「ルパン三世」はTVシリーズの第2シーズンが放映中でしたが、SFブームに目を惹かれている少年たちにとっては、ちょっと「時代遅れの終わった作品」といったイメージだったのです。

一方、当時の私はすでにいっぱしの映画ファン気取りの少年で、ヤマトに熱中する同級生を横目に、塾をサボっては、夜の名画座に通っていました。
上映が終わる頃には、誰もいなくなる寂しい映画館で、ウディ・アレンに初めて出会った「ボギー!俺も男だ」や、ロック界のスーパースター、デヴィッド・ボウイの初主演作で、てっきりSFかと思ったら奇妙な芸術映画で目が点になった、ニコラス・ローグ監督の「地球に落ちてきた男」等を観ながら「この歳で今さらアニメでもないだろう」なんてカッコつけていたのです。

4、1979年の渋谷道玄坂

現在、道玄坂の109の横にシネコンがありますが、当時はそこに映画館が3つありました。
メインは渋谷東宝という座席が1000席くらいある大劇場。大作映画専門の劇場で、「スターウォーズ」や「地獄の黙示録」といった超大作を、ここの巨大スクリーンで観ました。
渋谷東宝の上には渋谷スカラ座という500席くらいの中劇場が、地下にはパレス座という300席くらいの小劇場がありました。

渋谷東宝とスカラ座はなかなか良い映画館でしたが、パレス座はスクリーンの位置が非常に低くて、前の席が小柄な女の子でも頭が邪魔になって画面が見づらい、というかなり問題のある映画館だったので、なるべく近づかないようにしていました。
(映画館なのに、スクリーンがよく見えないってのはマズイでしょう)


渋谷駅前 / sekido

Shibuya,Tokyo / t-miki

5、1979年12月某日

その日私は、友人と渋谷で待ち合わせをしていました。
待ち合わせ時間は午後3時ころだったのですが、本屋で買い物をしたくて早めに出かけたところ、予想に反して2時間以上時間が余ってしまいました。そこで、「映画でも見るか」となったのです。

当日、渋谷東宝では「007ムーンレイカー」を、渋谷スカラ座では「戦国自衛隊」を上映していました。両方とも、その冬の大ヒット作品で、私はすでに2回ずつ観ていました。

「さすがに3回観る気はしないなぁ…」という私の目の前に、パレス座でひっそりと上映される「カリオストロの城」があったのです。
「パレス座は気が進まないけれど、どうせ時間潰しだし、ルパンだから一応退屈しないかも」と、私は映画館に入りました。お客は、私を入れても10人いませんでした。

そして…
その日、ちゃんと友達に会ったのかどうか、私は覚えていません。
覚えているのは、その後3日間連続してパレス座に通いつめて「カリオストロの城」を繰り返し観たことです。

6、衝撃の向こう

何の予備知識も期待もなく観た「カリオストロの城」の面白さは衝撃的でした。
それまでのアニメーションに対する先入観や偏見は完全に破壊されました。
当時の日本映画はもちろん、アメリカ映画をも越えた完璧なエンターテインメントが、そこにあったのです。

しかし、その時には、私はまだ宮崎駿に「出会って」はいなかったのです。

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スタジオジブリの分岐点「ゲド戦記事件」

1、「ゲド戦記」アニメ化の驚き

2006年7月に、スタジオジブリの長編アニメーションの新作として「ゲド戦記」が公開されました。
この映画の制作が発表された時は、二つの大きな驚きを持って迎えられました。

ひとつは、2001年に公開された「ロード・オブ・ザ・リング」と「ハリー・ポッター賢者の石」の世界的大ヒットで巻き起こったファンタジー映画ブームの中で、ハリウッドも映画化を切望していた「ゲド戦記」の映画化権を、日本のスタジオジブリが獲得したことです。

もうひとつは、監督が宮崎駿ではなく、その息子の宮崎吾朗だったことです。

2、アーシュラ・K・ル・グインの「ゲド戦記」

「ゲド戦記(Earthsea)シリーズ」は、1968年に第1作が発表された、アーシュラ・K・ル・グインによるファンタジー小説で、J・R・Rトールキンの「指輪物語」、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」と共に、世界3大ファンタジー小説とも呼ばれています。

アーシュラ・K・ル・グインは、「闇の左手」(1969年)や「所有せざる人々」(1975年)など、アメリカが「政治の季節」だった1970年代に代表作の多くを書いた作家です。
ジェンダーや人種問題、そして政治体制についての考察を、SFやファンタジーに大胆かつ精緻に取り込んだ作風で、SF作家としてのみならず、現代アメリカにおける重要な作家の一人と考えられています。

ル・グインは、SFという文学形式を利用して、人類の文明と文化を探究しようとしました。
その作品は、社会性を前面に押し出していますが、決して堅苦しく教条的なだけではなく叙情性も豊かで、テーマに対する誠実な態度が、今も古びることなく私たちの心に迫って来ます。

「ゲド戦記」は、多くの島々が浮かぶ海の世界アースシーを舞台に、魔法使いゲドを狂言回しにして、太古の言葉の魔力が世界を支配するアースシーの光と闇を描く、ル・グインの代表的シリーズです。

ファンタジーと言っても、「指輪物語」のようなスペクタクルや「ハリーポッター」のようなエンタテインメントの要素はなく、実在するかのようにリアルに描写された異世界の中で、非常に内省的なドラマが展開されます。

3、宮崎駿と「ゲド戦記」

宮崎駿は、いつも枕元に置いてすぐに読めるようにしていたほど「ゲド戦記」を愛読していました。
彼の作品は、細かい設定というよりも、物の見方や考え方の点で「ゲド戦記」から大きな影響を受けています。

特に「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」そして「千と千尋の神隠し」には、「ゲド戦記」の影響が色濃く伺えます。

宮崎駿は、「風の谷のナウシカ」を作る前の1980年代初頭に「ゲド戦記」のアニメ化をル・グインに申し込み、断られていました。
当時のル・グインは宮崎駿を知らず、「アニメと言えばディズニーみたいなもの」と考えていたのです。

その後、「となりのトトロ」で宮崎作品に出会ったル・グインは、その作風と思想に大きな共感を覚えることになります。
そして2003年に、今度はル・グインの方から、翻訳家の清水真砂子を通じて、正式に宮崎駿にアニメ化を依頼して来たのです。

しかし、宮崎駿は「20年前なら良かったのだが、その後に『ゲド戦記』の影響を受けた作品を多く作ってきたので、今さら『ゲド戦記』を新たな意欲を持って作ることは出来ない」と、ル・グインからのオファーを断りました。


浜辺Ⅰ / nontaw
 
Sahara / veroyama

4、映画化強行

ル・グインは、「宮崎駿に作って欲しい」と依頼して来たのですから、話はここで終わるはずでした。

しかし、スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫は、「宮崎駿は断ったが、ジブリは断っていない」という詭弁的なロジックで、映画化の話を進めました。
しかも、鈴木敏夫が宮崎駿の代わりに監督として立てたのは、それまでアニメーションを全く作った事がない素人の息子、宮崎吾朗だったのです。

当然、宮崎駿は反対し、ル・グインも当惑し難色を示しましたが、鈴木敏夫が両者を説得する形で、映画化は強行されました。

ル・グインには「宮崎駿はもう新作を作らないし、ゲド戦記の脚本には彼が責任を持つ」と説得しましたが、結局それは事実ではなく、ル・グインを騙す形となってしまいました。

その結果は、どうだったでしょう?

「ゲド戦記」の日本での興行収入は75億円とまずまずでしたが、海外には殆ど売れませんでした。

そして、日本でも海外でも、批評は最悪でした。
好意的な評価でも「素人が初めて作ったにしては良く出来ている」というレベルで、名作「ゲド戦記」の映画化としては哀しいものでした。


三鷹の森 ジブリ美術館 / Kentaro Ohno
 
05-08-12_10-51 / yuiseki

5、世界マーケットへの進出

鈴木敏夫プロデューサーは何故、ゲド戦記のアニメ化を強行し、しかも監督を、経験が全くない素人である宮崎吾朗に任せようと考えたのでしょう?

スタジオジブリは一つの岐路に立っていました。それは、世界マーケットの進出に成功するかどうかでした。

当時のジブリは「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」の大成功で、興行的にも作品の評価でも、頂点に達していましたが、それと同時に組織も膨れ上がり、劇場公開時の収入だけで利益を出すためには、100億円近い売り上げが必要になっていました。

しかし、日本国内だけで100億円の興行収入を常に上げるのは、簡単なことではありません。
ジブリが生き延びるためには、日本だけでなく、世界マーケットに進出する他に道はなかったのです。

ジブリの作品の芸術的な評価は、世界でも非常に高まっていましたが、世界における興行では、文化の壁もあって成功していませんでした。

6、苦い思惑

そんな時に舞い込んできた、世界的な名作ファンタジー「ゲド戦記」の映画化は、世界進出への格好のチャンスでした。
宮崎駿監督の「ゲド戦記」となれば、間違いなく世界的なヒットを期待できる商品になった筈ですから、鈴木敏夫プロデューサーとしても、諦めきれなかったのでしょう。

監督を宮崎吾朗にしようとしたのも、素人の宮崎吾朗を立てて見切り発車で「ゲド戦記」の制作を始めてしまえば、観るに見かねた宮崎駿が口を突っ込んで、結局は「宮崎駿の『ゲド戦記』」になる、と目論んでいたのではないでしょうか?

実際に、「魔女の宅急便」や「ハウルの動く城」は、最初は若手の監督を立ててスタートしましたが、途中で制作が頓挫し、結果的に宮崎駿が引き取って完成させているのです。

しかし、「ゲド戦記」では宮崎駿と宮崎吾朗の親子関係が想像以上に拗れていたため、鈴木敏夫プロデューサーの思惑は、外れてしまったのでしょう。

アーシュラ・K・ル・グインは、アニメ「ゲド戦記」の出来について「原作はキャラクターやアイディアを生かすための元ネタでしかない」「原作だけでなく、その読者に対しても驚くほど失礼だ」と、明確に否定しました。

そして、映画化を巡るトラブルについては「もうこんな事は、忘れてしまいたい程です」と回想しています。

7、迷走の始まり

私は、作家アーシュラ・K・ル・グインの信者ではありませんが、それでもル・グインとゲド戦記は、もっと敬意を払われてしかるべき作家であり作品だったと思うのです。

プロデューサーの鈴木敏夫が取った行動には、ル・グインへの尊敬の念が感じられませんでした。

かつて、宮崎駿は「ゲド戦記」を、最も影響を受けた本だと公言していました。
そして、アニメ化を依頼しに来た時のル・グインも、宮崎駿に対して共感と敬意を持っていた筈です。

しかし、今のル・グインに残っている宮崎駿への感情は、不信感と不快感だけでしょう。
二人の優れた作家にとって、これは、とても不幸な結末ではないでしょうか?

そして、スタジオジブリの世界マーケット進出戦略も、残念ながら失敗に終わりました。
ここから、スタジオジブリの運営は迷走を始めます。

今回の「スタジオジブリ制作部門解体」という挫折の出発点は、この「ゲド戦記事件」にあったのではないかと思うのです。

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クールジャパンという幻想の終焉

1、スタジオジブリ解散の衝撃

2014年8月5日に、日本エンタテインメント業界にとって衝撃的な報道が流れました。
「スタジオジブリ」代表取締役の鈴木敏夫プロデューサーが、いったん映画制作部門を解体し、今後は版権管理などの事業だけを継続するという方針を発表したのです。

スタジオジブリは、日本人なら子供から老人まで誰でも知っているだけでなく、良心的でレベルの高い作品を提供するアニメーション・スタジオとして、ディズニーに並ぶほどのブランドイメージを確立しています。

そのスタジオジブリが、アニメ制作から撤退するというのは、正に衝撃的なニュースとして日本全国を駆け巡りました。

ニュースに対する余りの反響の大きさから、3日後の8月8日には、鈴木敏夫プロデューサーが改めて取材に応じて「人員は縮小するが、映画作りをやめることはない」と、ジブリそのものの解散は否定しました。

しかし、映画工房としてのジブリを解体し職能集団を解雇するのは事実なのです。
200人以上とされるスタジオジブリ所属のアニメーターには制作部門の解散を伝え、すでに人員整理に取りかかっていたのです。


Studio Ghibli / Dick Thomas Johnson
 
三鷹の森 ジブリ美術館 / Kentaro Ohno

2、「映画工房」ジブリの解体

スタジオジブリは、企画から原動画、美術、撮影そして録音まで、アニメ制作過程の全てを一つのスタジオで、しかも高いレベルで行うことができた稀有な工房でした。
このような完成された映画工房を一度解体してしまうと、簡単には同じレベルの組織を再現することは出来ません。

失うものは余りに大きいと言えるでしょう。

スタジオジブリは今後、映画制作の都度スタッフを集める一般的な方式に切り替えるのでしょうが、アニメーターは熟練した職人であると同時にアーティストでもあります。
単なる労働者のように、簡単に入れ替えの利く存在ではありません。

ジブリの経営陣は考えが甘いのではないでしょうか?
今のジブリは、宮崎駿の存在がなくても高いレベルを維持できる工房に、ようやく育った所だった筈です。

3、ジブリ解体のもう一つの意味

スタジオジブリの映画制作部門解体には、もう一つ大きな意味があります。
それは、日本で唯一まともな労働環境を提供していたアニメスタジオが、維持できなくなったという事実なのです。

ジブリは、日本のアニメスタジオとしては例外的に、アニメーターを社員として雇用し固定給を支払うシステムを採っていました。

そのため、ジブリの人件費は年間20億円を超え、1作品の制作にかかる費用は約50億円にも上るのだそうです。
このシステムを維持するためには、映画1本あたり100億円以上の興行収入を上げ、さらに毎年のように映画を公開する必要があるのですが、宮崎駿の引退によりそれが困難になったことが、今回の制作部門解体の原因であると言われています。

私は、常々「アニメーターの労働環境を改善しなければ、日本のアニメに未来など無い」と考えて来ましたので、これは象徴的な出来事なのです。


Comic Market 78 2nd day_003 / TAKA@P.P.R.S
 
Akihabara / 秋葉原 #08 / marumeganechan

4、アニメーター哀史

アニメ大国と言われながら、日本のアニメ制作現場の労働環境は、極端な長時間労働と低賃金で、人材離れが進むどころか、新たな人材流入が困難なほど劣悪な状況なのです。

アニメーターのほとんどは、アニメ制作会社から動画1枚いくらという出来高制で仕事を請け負うフリーランスです。しかも、その収入は驚くほど低いのです。

例えば大学の美術系の学部を出て、新卒でアニメの制作現場に入ったある青年の場合、週6日勤務で、朝10時から早くて夜8時、遅ければ徹夜の毎日にもかかわらず、収入は、初任給が8,000円、5か月目で3万円だったというのです。
この収入ではもちろん生活など出来ませんし、労働時間が長くてアルバイトで収入を補うことも出来ません。

ですから、アニメーター志望の若者の多くは、最初から「アニメで稼ぐ」ことは諦めています。
20代は親の協力などを得て「青春の記念」としてアニメ制作現場で働きますが、30代を迎える頃になると、アニメを諦め「正業」へと転職して行くしかないのです。

それでも、「アニメーションを作りたい」という熱意のある若者は、新しくやって来ます。
そうした若者たちの夢と熱意を食いつぶしながら維持されているのが、今のアニメ業界なのです。

仮に、参加したアニメ作品が大ヒットして莫大な収益をあげても、ほとんどのアニメーターには何も還元されません。
しかし、「アニメーションという商品」の質と魅力を作り上げているのは、現場のアニメーターなのです。

このような業界に、未来があるでしょうか?

5、「クールジャパン推進」という虚構

日本政府は2010年「クールジャパン」を政策として掲げ、300億円を出資してクールジャパン機構(海外需要開拓支援機構)を設立しました。経済産業省は、「クールジャパンの推進」すなわちアニメやゲームなどの日本文化の世界市場を拡大し、2020年にはマンガやアニメなどの海外売上高で3兆円の獲得を目指すと宣言しました。

しかし、その実態は、どうなのでしょうか?

経済産業省が予算を出すのは、例えば、シンガポールで「クールジャパン展」を開催して、美術展やファッションショーの費用として15億円を拠出するなど、制作の現場とは関係のない箱モノやイベントだけなのです。

驚いたことに、日本のフリーのアニメーターや演出家の賃金は、この20年間上がっていないのです。
これには、人件費の安い韓国や中国、東南アジアの市場と競争しなければならない、という現実もあります。
日本のほとんどのアニメ制作会社は、原画や動画の多くを海外に外注しているので、賃金を上げるどころか、仕事が減りつつある現状があるのです。

2007年10月に、このようなアニメ制作現場の労働環境を改善しようと、アニメーターや演出家たちによる「日本アニメーター・演出協会(JAniCA)」が設立されました。
アニメ業界でこうした団体ができるのは初めてで、賃金アップや残業代の支給を業界に訴え始めています。

日本政府は、このような活動こそ援助すべきなのですが、そうした素振りは全く見せません。
それどころか「ポップカルチャー、マンガ、アニメーションを推進する」と言って置きながら、むしろ、マンガやアニメに対する表現規制の動きを強め、制作現場の不信感を増大させています。


Laputa / Focx Photography
 
Sunset,夕日 / Naoki Ishii

6、「クールジャパンという幻想」の終焉

「マンガ・アニメ文化は日本が世界に誇るべきもの」であり「日本の貿易資源とすべきだ」。政治家もマスコミも、このようなキレイごとのキャッチフレーズを唱えます。

もし、日本が本当にアニメーションの振興に力を入れるというなら、アニメ制作現場の劣悪な環境を改善し、新しい、熱意と才能のある若者が「夢と未来を託せる」業界にすることから始めなければならなかったのです。

宮崎駿は、早くから、このようなアニメ業界の劣悪な労働環境を批判し、改善を訴えていました。
スタジオジブリで、異例の固定給制に踏み切ったのも、そうした状況に対する挑戦だったのです。
そして今、その挑戦は敗北という形で終わろうとしています。

今回のスタジオジブリの制作部門解体によって、アニメーター達は解雇され、管理職だけが残ります。

マンガに例えると判りやすいでしょう。
人気連載マンガの売上が落ちて来た結果、編集者だけが残って、マンガ家はクビになるのです。
しかし出版社は「連載マンガはやめません。必要なら他のマンガ家を雇います」と言っているワケです。
果たして、面白いマンガを、続けられるのでしょうか?

これは「クールジャパンという幻想」の終焉の始まりなのです。

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ホームズがいっぱい(パスティーシュの楽しき世界)

1、ピーター・オトゥールのホームズは蜜の味

私にとっての幻のホームズ役者ピーター・オトゥールは1970年代の中頃に大病で死にかけて、そこから奇跡の復帰を遂げるのですが、急に老けこんでしまいました。
俳優活動は精力的に再開したのですが、まだ40代なのにお爺さんみたいで、シャーロック・ホームズという感じではなくなってしまったのです。

Peter O'Toole

しかし、それでも私はピーター・オトゥールのホームズが諦め切れませんでした。
原作どおりのホームズを演じるのは難しくなっていましたが、まだ「蜜の味」を映画化する手があるじゃないか!と考えていたのです。

「蜜の味-ホームズ隠退後の事件」とは、H・F・ハードによる引退して田舎に隠居したホームズの遭遇した事件を描く、いわゆるホームズ・パスティーシュ物の有名作なのです。
この作品でのホームズは隠居している老人なので、老けてしまったピーター・オトゥールでも、十分演じられるハズだ!と考えたワケです。

残念ながら、そんな企画はもちろん存在せず、ピーター・オトゥールはホームズを演じることなく亡くなってしまいましたが…。

London Snow 09
London Snow 09 / Paolo Camera

London / ChrisYunker

2、ホームズがいっぱい

名探偵の原点ともいえるシャーロック・ホームズは、とにかく活躍が幅広くて多彩な名探偵です。
彼が戦ったのは、宿敵モリアーティ教授だけではありません。
学生の頃から、エジプトの魔術を信仰する秘密組織相手にインディ・ジョーンズばりの活躍を見せると、やがては有名な怪盗アルセーヌ・ルパンと対決し、さらには、吸血鬼ドラキュラや火星人とも戦いました。そして遂には、ネス湖のネッシーの謎まで解いてしまうのです。

もっとも、原作者のコナン・ドイル自身は、そんなエピソードを書いてはいません。

これらは皆、後年にホームズのキャラクターを使って他の作家たちが創作したパスティーシュ(模作)なのです。

2クリホームズ

3、ホームズ物パスティーシュの世界

シャーロック・ホームズのパスティーシュは、それだけで一つのジャンルになってしまうほど大量につくられています。シャーロック・ホームズ物の映画などは、原作の映像化よりパスティーシュの方が多いくらいです。

歴史上の実在の人物を使って、作家が想像力を働かせて独自の物語を創ることは良くありますが、ホームズのようなフィクションの登場人物を利用して、これだけ多様なストーリーが語られている例は、他にありません。

シャーロック・ホームズという本来は架空のキャラクターが、歴史上の人物のように「誰でも知っている」存在で、なおかつ魅力的だからこそ、多くの作家の創作意欲を掻き立てるのでしょう。

お馴染みの名探偵ホームズを、いかにユニークなシチュエーションに置くか?
そして、どんな意外な人物と絡ませるか?によって、ホームズ物のパスティーシュの面白さが決まると言えます。

4、ルパン対ホームズ

最も有名なパスティーシュは「ルパン対ホームズ」でしょう。
フランスとイギリスを代表する怪盗と名探偵の正に夢の対決で、ミステリ好きな子供の必読書でした。

ルパンとホームズの追いつ追われつの展開に、子供の私は夢中になって読みましたが、何といっても書いたのがルパン・シリーズの作者モーリス・ルブランなので、かなりアルセーヌ・ルパンに贔屓していて、あくまでもホームズは引き立て役として描かれています。

ハッキリ言って「ルパン最高!」という乗りの作品で、ホームズ・ファンの子供としては「もう少しホームズの見せ場が欲しいなぁ」と釈然としない感想を抱いたものですが、やはり、シャーロッキアンの人達には評判が良くないようです。
楽しい小説なんですけどね。ルパン・ファンには、もちろんおススメです。

1ルパン対

5、ようこそパスティーシュの世界へ

ホームズ物のパスティーシュの作品群は、色々な所に無理やりホームズを出そうとするので珍妙なアイディアが多くて楽しい世界なのですが、あまりにも大量の作品があるので、とても全てを網羅することはできません。

そこで、代表的な作品をいくつかご紹介します。

・「シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険」(ニコラス・メイヤー:立風書房、扶桑社)

ワトスン博士はシャーロック・ホームズのコカイン中毒を治すために、彼を「精神分析」という新たな精神療法を考案したウィーンの学者、ジグムント・フロイト博士に診てもらおうとしますが、その過程でホームズの宿敵モリアーティ教授についての驚くべき謎も明らかになります。

ホームズ・パスティーシュにおけるエポック・メイキングな作品です。この作品の大ヒットによって、ホームズ物のパスティーシュが、世界中で一気に増えました。

ニコラス・メイヤーは、続編の「ウエスト・エンドの恐怖」という作品も書いています。
この作品は、ロンドンの演劇界を舞台に、バーナード・ショーやオスカー・ワイルドといった19世紀末における英国演劇界の重鎮たちの中で起きる殺人事件に、ホームズが巻き込まれます。

どちらも優れたパスティーシュ小説なのですが、現在は入手が難しくなっているのが残念です。

「シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険」は映画化され、「シャーロック・ホームズの素敵な挑戦」(監督ハーバート・ロス)という邦題で公開されています。
これは見事な映画化で、ホームズ映画のベスト3に入る秀作になっています。
こちらはDVDが出ていますので、ご覧になることが出来ます。

・「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(島田荘司:集英社)

日本の本格推理作家、島田荘司による異色作で、ロンドンに留学中の夏目漱石がミイラの登場する超自然的な事件に遭遇し、シャーロック・ホームズと推理合戦をする作品です。

この作品がユニークなのは、物語が「ワトソン博士による語り」と「夏目漱石による語り」に分かれ、一つの事件がワトソンと漱石という二人の別々の視点によって、交互に描かれていることです。
同じはずの人物や状況が、両者の語りによって微妙にずれている事が、作品の面白さと膨らみを増しています。

読後感も爽やかで、世界のホームズ物のパスティーシュの中でも、上位に来る作品でしょう。

・名探偵ホームズ/黒馬車の影(監督:ボブ・クラーク)

19世紀のロンドンに暗躍し、今だ未解決のままで終わっている「歴史上最初の連続殺人鬼、切り裂きジャック」の謎にホームズが挑む、ホームズ物映画の傑作です。

シャーロック・ホームズを演じるのは「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐などで有名なクリストファー・プラマー、ワトソン博士はジェームズ・メイスン、とキャストも超一流です。
霧のロンドンで切り裂きジャックを追うホームズとワトソンは、政界の闇と秘密結社謎、さらには英国王室の深部にまで入り込み、やがて驚くべき真相にたどり着きます。

数あるホームズ物の映画の中でも、決定版といって良い一本でしょう。

まだまだ、変わったホームズ作品が沢山あります。
あなたも、賑やかで広大なホームズ物のパスティーシュの世界に、ぜひ足を踏み入れてみて下さい。
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ピーター・オトゥール、ロレンスの呪縛と幻のホームズ

1、アラビアのロレンス

ピーター・オトゥールと言えば、何といっても「アラビアのロレンス」でしょう。
画像ロレンス

 

 

1962年に映画デビュー2年目にして「アラビアのロレンス」の主役に抜擢されると、その余りのはまり役ぶりに、ピーター・オトゥール=ロレンスというイメージが世界的に定着してしまいました。

同時代の「名作」の多くが、その歴史的意義は別にして、いささか色褪せ古びてしまっているのに対して、「アラビアのロレンス」は未だに、当時と変わらぬ輝きとインパクトを保ち続けている、稀有な作品の一つです。

そして、ピーター・オトゥールがロレンスを演じた事は、「アラビアのロレンス」がそこまでの「名作」となるのに、欠くことの出来ない要素でした。 革命家であると同時にロマンチストでもあるオトゥールのロレンスは、単なる映画の主役を超えてひとつのアイコンになっています。

たった1本の映画で、ここまで強烈に自己のイメージを確立させてしまった役者も、珍しいのではないでしょうか?

Peter O'Toole died today at the age of 81

2、ロレンスの呪縛

しかし、これはピーター・オトゥールにとっては不幸でした。

彼は、生涯アラビアのロレンスのイメージに縛られ、そこから抜け出そうともがき、それが叶わぬまま老いていったからです。
ピーター・オトゥールは、1970年代に入ってアルコール依存症から大病を患い、一時期は医者も見放すほど死の淵を彷徨います。
その後、70年代後半に見事に復活を遂げたのですが、40代という役者にとって一番充実している筈の時期にアルコールに溺れて死にかけた事実は、ロレンスの呪縛と無関係ではなかったでしょう。

私は、子供の頃からピーター・オトゥールの大ファンでした。70年代にテレビでオトゥールを観てファンになったのですが、その頃のオトゥールがロレンスの影から抜け出せずに苦しんでいると知り、子供ながらに心を痛めていました。

そして少年の私は、彼がシャーロック・ホームズを演じさえすれば、ロレンスを超えるはまり役となり、ロレンスのイメージから完全に脱却できるはずだ、と思い込んでいたのです。

3、ビリー・ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」

シャーロック・ホームズの映画の中で最も有名で成功した作品の一つは、1970年に公開された、名匠ビリー・ワイルダー監督による「シャーロック・ホームズの冒険」でしょう。

原作にないストーリーを、ワイルダーが脚本家IAL・ダイアモンドと共に書き下ろしたオリジナル・シナリオです。
ネス湖の怪物まで出て来る一見奇想天外なストーリーですが、知的ツイストといいウィットといい、ミステリの楽しさに満ちた見事な作品です。

シャーロック・ホームズの冒険 (ビリー・ワイルダー監督)

シャーロック・ホームズの冒険
(ビリー・ワイルダー監督)

 

 

 

未だ観ていない方には是非ともおススメなのですが、「ホームズはピーター・オトゥールに限る!」と勝手に決めていた少年時代の私は、ホームズを演じた役者に不満で、せっかく良くできた映画なのに、素直に楽しめませんでした。

シャーロック・ホームズ役を演じたのはロバート・スティーブンスで、良い役者なのですが、子供の私は生意気にも「キレがないんだよな、キレが」「こんなホームズ選ぶなんて、ワイルダーも分かってねえな」などと毒づいていたのでした。

4、幻のピーター・オトゥール版ホームズ

ところが後に私は、映画評論家石上三登志の「地球のための紳士録」というエッセイ集を読んで、この作品におけるビリー・ワイルダーの当初のキャスティング案が「シャーロック・ホームズ=ピーター・オトゥール、ワトソン博士=ピーター・セラーズ」であったことを知ったのです!

この事実を知った時の衝撃は、未だに忘れられません。
実際には、予算の関係でスターが使えなかったらしいのですが、あの映画のホームズをピーター・オトゥールが、ワトソンをピーター・セラーズが演じていたとしたら…。

いつのまにか世界最高のホームズ映画が生まれかけ、そして夢に消えていたのです。

ピーター・オトゥールのホームズはもちろん、ピーター・セラーズのワトソンって最高のキャスティングではないでしょうか?
ピーター・セラーズは「ピンクパンサー・シリーズ」等で有名なコメディ俳優です。

自分が主演する時は思いっきりハチャメチャな怪演ですが、脇役に回ると抑えた渋い、それでいて不思議なユーモアを見せてくれるので、少しエキセントリックなオトゥールが演じるホームズの相手役、ワトソン博士にもピッタリなのです。
(最近WOWWOWで「博士の異常な愛情」を放映していて、久しぶりに観直したのですが、主演で一人三役のピーター・セラーズの演技には改めて爆笑しました。正に狂気!こんなワトソン博士だったら大変ですね(^o^))

5、呪縛からの解放

私は、もしビリー・ワイルダー監督によるピーター・オトゥール版「シャーロック・ホームズの冒険」が実現していたら、彼のその後の俳優人生はどうなっていただろう?と思いを馳せてしまいます。

間違いなくホームズはロレンスを超えるはまり役となったでしょう。
それによって、ピーター・オトゥールは「『アラビアのロレンスの』だけのオトゥール」ではなくなった筈です。

そして、アラビアのロレンスもシャーロック・ホームズも、「俳優ピーター・オトゥールが演じる役の一つ」として見て貰えるようになり、彼を苦しめていた「ロレンスの呪縛」から解き放たれたのではないか?と夢想してしまうのです。

Peter O'Toole - CINE REVUE (France) 18 May 1972

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全てのミステリファンの心の中に「自分にとってのホームズ」が

1、世界一有名な名探偵

世界で最も有名な名探偵といえば、なんと言ってもシャーロック・ホームズでしょう。
ミステリ好きになる人は、少年少女時代に「シャーロック・ホームズ体験」を持っています。
子供がミステリという分野に興味を持ち始めると、通過儀礼のように「ミステリの基本中の基本」としてシャーロック・ホームズに出会います。

21ホームズ

 

そして、ミステリ好きの子供達は、みんなホームズとワトソンの名コンビを通じて名探偵とミステリの面白さに目覚め、そこから少しずつ自分の好みのミステリを発見して行くのです。

世界で最も有名な名探偵であるシャーロック・ホームズは、未だに新作が作られるほど何度も映像化され、様々な俳優がホームズを演じて来ました。

ですから、たいていのミステリ好きには、「自分にとってのホームズ」とでも言うべき役者がいるのです。

2、ホームズ役者の元祖、ベイジル・ラスボーン

シャーロック・ホームズを演じて有名な人と言えば、1930年代から40年代にかけて多くのホームズ映画に主演して、アメリカでは今でも「最高のホームズ役者」と言われるベイジル・ラスボーンがいます。

世界中で誰でも知っているくらい有名な、ホームズの名セリフに「初歩的なことだよ、ワトソン君。(Elementary, my dear Watson.)」というのがあります。
最近も、このセリフをタイトルにした「エレメンタリー、ホームズ&ワトソンinNY.(Elementary)」という米国製のホームズ・ドラマが作られている程です。

ところが、このセリフはコナン・ドイルの原作小説には出てこないのです。
ベイジル・ラスボーンが映画の中でこのセリフを何度も使ったために、いつの間にか世界中でホームズの代名詞になってしまったのです。

実は、ラスボーンが主演したホームズ映画の公開時期がちょうど第二次世界大戦中だったために、日本では1本も劇場公開されませんでした。
にもかかわらず、日本人でも普通に「初歩的なことだよ、ワトソン君」をホームズの名セリフとして知っているのですから、ラスボーンの影響力がいかに大きかったか判るでしょう。

3、自分にとってのホームズ

多くの場合、子供の頃に初めて見たホームズ役者が「自分にとってのホームズ役者」になります。やはり第一印象の強さは、なかなか消せないものです。

近年、シャーロック・ホームズ役者としてイメージが強いのは、やはりジェレミー・ブレッドでしょう。
1980年代から90年代にかけて、コナン・ドイルの原典に忠実な形で完全ドラマ化したグラナダTV版の「シャーロック・ホームズの冒険」でホームズに出会った世代の人達にとっては、「ジェレミー・ブレッドこそホームズ」なのだと思います。

そして、これからホームズに出会う子供たちにとっては、一番新しい、現代のロンドンに見事にホームズを甦らせた「ベネディクト・カンバーバッチこそがシャーロック・ホームズ」となるはずです。

私は、その他にも、ロバート・スティーブンス、クリストファー・プラマー、ロバート・ダウニーJr、そして本場英国のシャーロッキアンの協会が正統なホームズ役者として認めたピーター・カッシングなど、本当にたくさんの役者がホームズを演じたのを観てきました。

しかし、これらの人達の中に、「私にとってのホームズ役者」はいませんでした。
何故なら、私もやはり少年時代に「最高のホームズ役者」に出会っていたからです。

その役者とは、ピーター・オトゥールです。

4、ピーター・オトゥールこそホームズ

ピーター・オトゥールは、2013年12月14日に亡くなった、イギリスの名優です。

ロレンス

ピーター・オトゥールと言えば、一般的には「アラビアのロレンス」でしょうが、私にとっては、彼こそ「私にとってのシャーロック・ホームズ」なのです。
もっとも、ピーター・オトゥールは、一度もシャーロック・ホームズを演じた事はありません。
しかし、私にとっては、間違いなく彼こそ最高のシャーロック・ホームズ役者であり、未だ観ぬピーター・オトゥール主演のホームズ映画こそ彼の幻の代表作なのです。

5、ピーター・オトゥールとの出会い

私が、初めてピーター・オトゥールを見たのは、小学生の時にテレビ放映された「おしゃれ泥棒」でした。

「おしゃれ泥棒」はオードリー・ヘプバーン主演のロマンティック・コメディです。大物の贋作家の娘であるヘプバーンが、美術館に飾られている父親が作った贋作が科学鑑定にかけられることを知り、父親を探っている美術探偵のオトゥールと一緒に美術館から贋作を盗み出そうとするドタバタを、正におしゃれに描いた楽しい作品です。

監督は「ローマの休日」の巨匠ウィリアム・ワイラーで、再びオードリー・ヘプバーンを主演にロマンティック・コメディに挑んだわけです。(挑んだ、なんて力の入った感じではなく、軽く作っていますが・・・)

しかし、小学生だった私は、オードリーはどうでもよくって、美術探偵(しかしてその実態は・・・)をキザでクールに演じたピーター・オトゥールの方に目が釘づけになってしまいました。

当時の私は、ちょうどコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを読み始めた頃で、当然のことながらホームズに夢中になっていました。そして、「おしゃれ泥棒」を放映しているテレビ画面の中に、私は「現実化し肉体化した」ホームズを見つけたのです。

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6、ホームズ発見

私のイメージするホームズは、キザで知的なヒーローであると同時に、神経質で狂的な面を持った近寄りがたい人物でした。

そして、ピーター・オトゥールのホームズをイメージしてみると正に完璧なのです。
「おしゃれ泥棒」のオトゥールに鹿打帽をかぶせてパイプを持たせたら、そのままホームズになってしまいます。

「ここに、シャーロック・ホームズがいる!」

私は「おしゃれ泥棒」を観てから、コナン・ドイルのホームズを読んでもピーター・オトゥール以外の外見をイメージすることが出来なくなってしまいました。
そして、「いつかピーター・オトゥールにホームズを演じて欲しい」と想い続けて来たのです。

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7、ピーター・オトゥールのまだ観ぬ代表作

ですから、私にとっては、ピーター・オトゥールの代表作と言えば「アラビアのロレンス」ではなく「おしゃれ泥棒」でした。というより、「おしゃれ泥棒」の向こうに見える、まだ観ぬシャーロック・ホームズ映画こそ代表作だったのです。

しかし。ピーター・オトゥールは、シャーロック・ホームズを演じることなく81歳の生涯を終えました。
私がピーター・オトゥールの訃報を聞いたときに、最初に感じたのは「ついに、私にとっての理想のホームズを観ることは叶わなかった」という寂しさでした。

ところが、私の夢だったピーター・オトゥールによるホームズ映画は、実現しかけていたのです!
オトゥール1

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